モーツァルトを旅する(12)  クラリネット協奏曲イ長調K622 ーモーツァルトへの手紙−


拝啓 ヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルト様

 1791年12月5日にあなたはこの世を去りました。以来、満200年。その間、あなたの音楽に陶酔した人々は一体何万人、いや何億人に上るでしょうか。人々は、生まれては死に、死んでは生まれ、社会もまた変転を繰り返す中にあって、宇宙に存在し続け、そして人々に喜びを与え続けるその不変にして普遍の音楽。200年という節目に当たるこの時、私はあなたが私に与えて下さった最高の音楽への賛辞をもって、あなたへの感謝の言葉とさせていただきたいのです。
 私は幸運な出会いをしました。あなたの音楽との最初の出会いが、その最高の曲「クラリネット協奏曲」との出会いだったのです。中学1年の春でした。私は入学と同時に寮生活を始め、そして学校のクラブ活動では吹奏楽部に入部し、初めてクラリネットを手にしました。どういうわけかこの楽器の感触がよくなじみ、その音色にも親しみを感じ、もう夢中になって練習したので、他の同級生よりも早く上達したものです。そして偶然にも寮の同室に同じ吹奏楽部の2年生の先輩がいました。彼はホルンを吹いていましたが、ことのほかあなたのホルン協奏曲第3番(K447)が好きだったようで、いつも部屋で聴いていました。やがてその優美な旋律が私の耳からも離れなくなりました。私は先輩にそのカセットテープを録音させてくれと頼みました。すると彼は「おまえはクラリネットを吹いているのだから、これを聴け」と言ってクラリネット協奏曲のテープを貸してくれたのです。クラリネット奏者が誰だったかはもとより、楽団も指揮者も覚えてはいません。というより当時はそんなことには無頓着で、ただ音楽に虚心に耳を傾けました。
 すると、そこにはそれまで経験したことの無い美しい世界がありました。クラリネットの音色は厚みがあって渋く、惚れぼれさせるような美しさでしたが、音階やアルペジョの多いこの曲の中ではその美しさが自然な形で、これ以上ないという落ち着きをもって響いてきました。私は毎日毎日そのテープを聴いたので、時を経ずして曲の全体を頭に覚えてしまうほどでした。この曲が吹けるようになりたいという大きな目標を持った私は、毎日のクラブ活動にも熱が入り、ますます上達しました。その結果、一年を経ずして音符の上では一通り吹けるようになりました。
 私はこの曲を契機に、あなたの曲のすべてを聴くようになりました。それだけでなく、クラシック音楽の名曲と言われるものを漁るように聴きました。ベートーベンの「田園交響曲」、ベルリオーズの「幻想交響曲」、メンデルスゾーンの「バイオリン協奏曲」、チャイコフスキーの「第5交響曲」、ドボルザークの「新世界交響曲」、ストラビンスキーの「春の祭典」、ショスタコービッチの「第5交響曲」と、中学1年の間に、覚えるほど聴いた曲は大曲ばかりでした。いずれも確かに名曲だと思いました。でも、どういうわけか私の耳に最もなじんで最も心の安らぐのはあなたの曲でした。当時は特にフルート協奏曲第2番(K314)やバイオリン協奏曲第5番(K219)やピアノ協奏曲第20番(K466)など、協奏曲をよく聴きました。
 でも、さらにどういうわけかとりわけ安心感を覚え、温かい幸せの感情を呼び覚ましてくれる最高の曲はクラリネット協奏曲でした。それ以来、17年間、この曲への愛着は全く変わっていません。
 ある時期までは、最初に出会った曲だから、その印象によって愛着が深いのかとも思いました。でも今はそうは思いません。逆です。私は幸運にも最高の曲に最初に出会ったのだと信じています。そしてその出会いが、私の人生における、音楽との付き合い、とりわけあなたとのお付き合いを決定したのです。
 今にして思えば、あのテープのクラリネット奏者は今世紀最高のクラリネット奏者と称えられる今は亡きウラッハだったのでしょう。そのことも私にとってはラッキーでした。あのキラキラとした光彩に満ち、それでいて渋みのあるくすんだ音色。あたかもクラリネットの管のように黒光りしていました。あなたの音楽をあんなにも美しく表現できる人がいたんですよ。
 私は一生懸命練習しましたが、どう頑張ってもあのテープのような美しい音は出せませんでした。もちろん私の技術は未熟でしたが、それとともに、この曲でのクラリネットはA管であるということに気づきました。いや最初から知っていたのですが、A管と自分がクラブで吹いているB管とは音色が違うということに気づいたのです。そして、その後、クラリネット五重奏曲(K581)やピアノ協奏曲第23番(K488)を知ったとき、イ長調という調性の澄んだ響きと、その調性を至高の美に高めるA管クラリネットの音色の切っても切れない関係を知りました。そして、それら二つの美をさらに崇高なものに高めたのは、これら三つの音楽に散りばめられた美しい旋律でした。だからこそ、その美はあなたが最初に見いだしたものであると同時に、後の世の誰も真似することのできないものだったのです。そして、あなたはその人生の総決算を、三つの中でも最高のクラリネット協奏曲で遂げたのですね。
 あなたはこの曲を1791年の10月に仕上げました。そのころは身体の具合いも既に悪かったのではありませんか。そのあとには、カンタータ「われらが喜びを高らかに告げよ」(K623)、デュエット「さあ、いとしい乙女よ、私と行こう」(K625)等の小品を書き、そしてレクイエム(K626)を執筆中の12月5日に帰らぬ人となられました。
 教えてください。あなたはこの音楽をどんな心情で、いやどんな生命で書かれたのですか。
 けだし、あなたは既に生死を超え、宇宙の響きに感応しながら、この曲を書いたのでしょう。そうとしか考えらえません。あなたはこの世で受けた生命を、35歳の若さで既に完全燃焼させつつあったのですね。あなたにとっての死の諦念はこの年の1月の作品であるピアノ協奏曲第27番(K595)でも表現されていますが、クラリネット協奏曲では、さらに一歩、生死を超えた奥深いところへ到達しておられます。あなたはこの最期の音楽を交響曲でもなければ、ピアノ協奏曲でもない、イ長調のクラリネット協奏曲で遂げられました。あなたの最期の音楽に、私は最初に出会ったのです。
 この曲を書いた以上、あなたに残されたのは自分自身へのレクイエムしかなかったのですね。35歳にして、この世での使命を終えられたのですね。
 いくら教えてください、とお願いしてもあなたはそれに答える言葉をもうお持ちではありません。でも、いいのです。私はあなたの残された音楽に耳を傾けることができます。ウラッハのテープはどこかに失ってしまいましたが、今やその弟子プリンツの演奏に、あなたが伝えたかったものが余すところなく表現されています。ベームが指揮したウィーン・フィルの、特に弦楽器の優しさに満ちた透明な音色がそれを支えています。このCDは私にとって一生の宝です。
 私のクラリネットは今でもB管です。でもそれでよいのです。私にはあなたの音楽を奏でる資格はまだありません。ただ、聴衆の一人として、謙虚にあなたの音楽に身を曝していきたいと思います。そして、私が晩年を迎えるまでに、あなたの音楽から、私の問いに対するお答えがいただけたら、その時、私はA管のクラリネットを手にして、天上のあなたに響くように、そのお答え通りの生命で、この調べを奏でます。それまで、ずっと私に喜びと潤いとを与え続けてください。
                                     敬具
1991年12月5日
                                                            田中 修より
 

読者の皆様へ
一年間の御愛読ありがとうございます。
連載第2回と第11回とを、今回と合わせてお読みいただけると幸いです。
なお、資料収集のため、しばらく休載させていただきます。

(『Oracion』Vol.24 <1991.12> モス・クラブ刊より)


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