モーツァルトを旅する(10)  ピアノ協奏曲第10番変ホ長調K365

                  ー対話が描く大自然の調和と秩序−


 ピアノ協奏曲第10番と言うより、2台のピアノのための協奏曲と言ったほうがご存じの方も多いだろう。モーツァルトのピアノ協奏曲の中で複数の独奏者を持つのは、他に第7番「ロドロン」(K242)がある。これは3人用と2人用の二種類の楽譜が残されているが、楽想は10番ほど豊かではない。その後、多くのピアノ協奏曲を作曲しながら、この形態のものは二度と作曲しなかったのは、10番が名曲であるだけに不思議に思える。作曲時期は1779年の初頭と考えられている。あのパリ旅行から帰国した直後である。モーツァルトはパリ旅行で、協奏曲という曲種に対して一種の開眼とも言うべき飛躍を遂げているが、その一つの結実がこの曲であることは間違いない。この前後には複数の独奏者を持つ協奏曲をいくつか作曲している。フルートとハープのための協奏曲(K299)や、バイオリンとビオラのための協奏交響曲(K364)などがそうで、いずれも大変な名曲である。管楽器のための協奏交響曲(K追補9)は、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットの4人の独奏者を持つ(原曲はクラリネットのかわりにフルートが用いられたとされる)。この曲の楽譜は真偽判断が未だに定まらないが、美しい曲であることには全くかわりない。これらの曲を通してモーツァルトは何を表現しようとしていたのだろうか。
 彼が協奏曲に優れた才能を発揮したのは、彼の音楽の基本に「対話」があったからではないだろうか。第1楽章では、54小節目に2人独奏ピアノがユニゾンで登場するが、その直後57小節目からは一貫して対話となる。第1ピアノがまず第1主題を奏でると、今度は第2ピアノがそのうちの8小節を1オクターブ下げて反復する。しかしただの反復ではない。確かに二人の独奏者はそれぞれに独立した存在として互いに対話している。
 少なくとも、私が今までに聴いたこの曲の演奏はどれもそうだった。ホールではステージの左右から音が響き合う。レコードでも左右のスピーカーから旋律が対話をする。しかも両者は、音楽的解釈は統一されているとしても、音質の個性は、独奏者自身の人格の個性とも相まって微妙な対比を見せる。私が最も好むのは、クララ・ハスキルとゲザ・アンダという二人の偉大な女流モーツァルト弾きの共演になるもので、古い録音ながらステレオで録音されており、二人の偉大な個性が張り合いながらも、見事に融合して一つの音楽に昇華されている。楽譜では、初めこそ両者はオクターブの対比を伴っているが、全体的にはほとんど対等の関係を維持する。もちろんただ同じ音型を反復するのではなく、それぞれに様々な変化を伴いつつ対話を繰り返していく。二人の独奏者が向かい合ったときに、一人だけの時にはなかった、相手への尊敬と信頼が生まれる。お互いの個性がいかに違っていようとも、その自己にあらざる個性への尊敬と信頼を両者が持てば、二人は個性を維持しながら融合できるのである。二人で一つの何かを作ろうとするときには、常にそうではないだろうか。
 この曲はもともとモーツァルト自身と姉ナンネルルとのために書かれたものと言われている。この曲が描こうとする対話の中に、姉への愛情と信頼が十分に表現されている。両者がほぼ対等の関係にあることもその表れであろう。そして、第1楽章の96小節目などに、一つの音楽を共同作業で作る部分も見受けられる。ここにおいてもどちらが主でどちらが従ということはない。明かに主従の関係がある箇所でも、必ず役割を交代して反復する。210小節目などがそうである。そして旋律は終始、同じ調性の「ジュノム」を思い出させる密度の濃さを見せる。そのためどのように対話し、どのように受け継がれても、一つの音楽が流れていく。人と共にあることの喜びと期待に溢れた青年期のモーツァルトのみずみずしい躍動感が絶えずにじみ出ている。
 二人のピアノ独奏者が主人公であるこの曲では、オーケストラの役割は比較的に抑えられている。後期の協奏曲では、オーケストラ自体に魂が与えられ一人の人格が形成されるようになり、独奏者とオーケストラとの対話が中心となる。それがモーツァルトの協奏曲の最終的な完成の形態だとすれば、後期に複数の独奏者を持つ協奏曲を作曲しなかったことも理解できる。
 またある場合には一つのオーケストラに多面的な魂が吹き込まれることもある。22番や24番の第2楽章では、独奏ピアノと弦楽器が一つのグループとなり、それと木管楽器との対話が奏でられる。これらはある意味で木管協奏曲である。ピアニストによっては、旋律を大きく変化させることによって、弦楽器群から浮き出て、木管と独奏ピアノとの対話を作る人もいる。それもよかろう。いずれにせよ、モーツァルトの協奏曲の基本には常に対話がある。
 このような方式を取れば、交響曲でも木管楽器と弦楽器とを対話させることは可能なはずだが、どういうわけかそのような対話のある交響曲にはお目にかからない。むしろ、セレナーデでは、バイオリン独奏を持つ「セレナータ・ノットゥルナ」や「ハフナー・セレナーデ」、フルートとオーボエの独奏を持つ「ポストホルン」などは、対話を持った協奏曲的な交響曲と言うことができるかも知れない。
 私自身、モーツァルトの作品中で協奏曲やセレナーデに惚れ込んでいるのに比べて、交響曲に対して淡泊な原因はここにある。つまり私は「対話」の中にある、多極的で立体的な音楽構築に惚れ込んでいるのである。
 第2楽章では、音楽の構造はより複雑さを増す。緑の森の中にある澄み切った湖が目の前にあるような音楽である。大自然の中で深呼吸するかのように弦楽器が旋律を奏でる。そして、ふと風が通り過ぎ、湖畔の木々の葉がざわめく。そのざわめきが止む頃に二人のピアニストは共同で一つの旋律を奏でる。まるで湖畔にたたずむ恋人どうしが、心を一つにして大自然の前に心を開放し、そして心を一つにしてその喜びを穏やかで優美な歌に託しているかのようである。時に二人はメロディーとそれを助けるオブリガートになり、時に二人はハーモニーを奏で、また時には一つのメロディーを少しづつ二人で受け渡したり、そうして心は高揚し、27小節目では二人は抱擁してユニゾンを奏でる。その瞬間、すべての時間が止まり、気が付いたら木々の葉のざわめきが再び聞こえてくる。今度は二人はそのざわめきの上に重ねるように歓喜の声を上げる。そして、二人を祝福するかのように、二羽の鳥(2本のオーボエ)が飛来し、歌を歌う。二人は完全に一つになって、鳥の歌に自分たちのアルペジョを重ねる。何と美しい世界であろうか。私たちはこの音楽の静寂さによって、むしろ胸を熱くさせられる。やがて夕陽が傾き、ほのかな切なさを漂わせながらこの楽章は閉じる。もちろんモーツァルトは標題音楽とは縁が無いし、印象派のような描写も意図していないだろう。しかし、モーツァルトの音楽の美しさの中にある調和と秩序に注目するときに、それと、ありのままにあるこの宇宙、地球、自然の調和と秩序がだぶって見えても不思議ではないのだ。
 第3楽章では、手をつなぎながら大草原をかけまわる二人の姿が見えてくる。二人ははしゃぎあいながら、歌の対話を終始続ける。しかし、もうこれ以上、言葉で描写しない方がよいかもしれない。大自然の姿を、恋人たちの心をそのまま言葉にできないのと同じように、この音楽の前に私も今言葉を失いつつある。
 もはや、ただ静かに、大自然の一存在となって、至高の美の中に自らの身を委ねつつ、対話すべき友に恵まれたことの生命の歓びに対し、感謝の祈りを捧げるのみである。

(『Oracion』Vol.22 <1991.10> モス・クラブ刊より)


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