1784年に書かれた6曲のピアノ協奏曲(第14番〜第19番)は、そのいずれもが名曲であることは既に本連載でも再三述べた。特に14番と17番のそれぞれの第2楽章の美しさはたとえようもない。しかしながら、注目すべき点はこれら二つの楽章に限らない。第1楽章に目を移してみると、16番以降の4曲では、軽快なタンタッタタンタンという統一されたリズムを主題に用いて実に多様な音楽作りをしている。今回は、このよく知られた特徴に注目してみたい。
素材であるタンタッタタンタンは、全く多様な味付けで料理されている。16番(K451)では、モーツァルトの初期に数多く見られる序曲形式の交響曲を思わせる、シンフォニックなメロディーに。17番(K453)では、優雅にかつ、躍動的に舞う舞曲風のメロディーに。18番(K456)では物静かで優しそうな女性的なメロディーに。そして、最後の19番では、行進曲風の華やかなメロディーに。同じモチーフを続けて用いながら、これほど表情の異なる多様な音楽を作り上げることのできるモーツァルトはやはり天才である。
このモチーフは、これら4曲のピアノ協奏曲に限ったものではない。今、私が思い付くだけでも、バイオリン協奏曲第4番「軍隊」(K216)、セレナーデ第6番「セレナータ・ノットゥルナ」(K239)、フルート協奏曲第1番(K313)では、それぞれ第1楽章の冒頭の主題に、タンタッタタンタンが用いられている。また、第1主題ではないものの、交響曲第35番「ハフナー」(K385)やピアノ協奏曲第27番(K595)では、経過句として、このモチーフが用いられている。
さて、楽章全体とこのモチーフとの関わりの深さには濃淡がある。17番では第1主題の初めの1小節にこのモチーフが用いられているに過ぎない。それに対し、19番では、驚いたことに、第1楽章の最初から最後まで、展開部でさえも、ずっとこのタンタッタタンタンのリズムによって作り上げられている。スコアで勘定したところ、全405小節のうち、102小節にこのリズムがあった。展開部はニ短調でピアノが低音から高音に駆け上がり、頂点で不安定な動きをする。そのとき、木管がタンタッタタンタンを重ねている。これまで第1楽章の第1主題のモチーフとして明解で快活なイメージのあったこのモチーフが実に暗い影を落しているのである。ここに20番の第2楽章の中間部の嵐との類似を見いだすのはさほど困難なことではない。展開部から再現部への以降は、ちょうど雨が止み、雲間から日光が射してくるような安堵感があるが、ここでも終始、タンタッタタンタンが用いられている。同じ素材が1曲の中でも実に表情豊かに、様々な顔を見せている。本当に不思議とすら言える曲である。
16番が作曲された1784年3月からこの19番が作曲された同年12月までわずか10ケ月の間に、同じモチーフをもとに4曲のピアノ協奏曲を作曲しているが、素人的な発想では、作曲時期が近いだけに、全く異なる音楽を作ろうと考えるのが自然である。しかし、モーツァルトはしつこいほど同じモチーフにこだわり、しかも結果としては確かに異なる音楽に仕上がっているというのがおもしろい。これはモーツァルトの自信の表れではないだろうか。彼の音楽的才能は、単に美しいメロディーを作り上げることにあるのではなく、まるで建築士か料理人のように、どのような素材であってもその組合せ、組立て、という全体的構築において、発揮されたと言ってよい。だから、同じモチーフだろうが何だろうが、それをどんなふうにでも料理できるという自負がなければ、このような試みはできないと思う。そして、18番で既に3曲までこのモチーフで作曲しているにも関わらず、発想をかえるどころか、極め付けの、タンタッタタンタンだらけの曲を作ったのである。このあと、年が明けて、初めての短調のピアノ協奏曲である20番で大きく曲想を変えていることからすると、この19番は、1984年の6曲のピアノ協奏曲の総仕上げであり、4曲の姉妹作品の中でも総仕上げであり、さらに偶然だとは思うが、10番代の総仕上げとも思える。
この曲は、6年後の1790年10月、皇帝レオポルト二世の戴冠式の際に、「戴冠式」のあだ名を持つ26番と共に演奏されたので、「第二戴冠式」とも呼ばれる。しかし、順番から言っても、曲の仕上がりから言っても、こちらが「第1」で、26番こそ「第2」と言ったほうがよいのではないかと思う。13番とそっくりの26番は、14番での飛躍的向上の以前に逆戻りしたような曲である。もちろんそれはそれなりに上品で楽しい曲であることは本連載の第1回でも述べた通りだが、19番のこの徹底した構築美にはとても叶わないと言えよう。
また、この曲の美しさは、第1楽章だけではない。第2楽章では、彼にとって比較的珍しい緩徐楽章での8分の6拍子が使われている。他には、交響曲第31番「パリ」(K297)や同第318番「プラハ」(K504)の第2楽章があるが、それらと同様、ゆったりとして晴朗である。あたかも湖畔にたたずみ、水面に映る対岸の森を見ているような、そんな安心感のある曲である。
また第3楽章は、作曲技術の点では全作品の中でもかなりの上位に位置すると思われるほど高度な技を用いている。始まりは、普通のブッフォ調の、快活なフィナーレである。ところが、第1主題が一通り終わったところで、いきなりフガートが開始する。しかも低音から開始し、高音が重なっていく。軽快な曲と思ったのが、いきなり荘重な曲になるのである。といっても、木に竹を継いだようなものではない。フガートと言えばバッハを思い出すが、バッハのそれが、きわめて繊細なものであるのに対し、ここでは実に交響的で、かつ荘重なのである。そこから振り返ってみれば、第1主題も荘重な面影を持ちあわせた軽快さだったことに気づく。しかも最後には、ブッフォのメロディーとフガートのメロディーが重なって、音の織物のような、目ざましい音楽となる。
いずれにせよ、モーツァルトの作曲技術を余す所なく発揮した名曲と言ってよいのではないだろうか。
この曲の名演奏と言えば、やはりクララ・ハスキルである。ハスキルの無理な力の無い、やさしさに満ちた演奏はまさに水が流れるように淀みがない。彼女が残したモーツァルトの協奏曲の名演奏と言えば、9番「ジュノム」、23番、そしてこの19番と、いずれもモーツァルトらしい、自然な流れの曲ばかりである。逆に言えば、あのハスキルに名演奏をさせた19番はそれだけ、モーツァルトらしい曲の一つに数えてよいということでもある。
また、ブレンデルの演奏も、その明朗な快活さの中にも、気張らずに、モーツァルトの霊感にすべてを任せたような謙虚さが感じられ、好演奏だと思う。
天才モーツァルトの才能が満ち溢れている19番を聴くとき、私自身も、静かにかつ謙虚に、知的啓発を受けることの喜びを感じる。
(『Oracion』Vol.21 <1991.9> モス・クラブ刊より)