モーツァルトを旅する(26)  歌劇「魔笛」K620 (第1幕)−美しく尊き愛のアリア−


 モーツァルト没後200年だった1991年のあの喧噪から、気がつけば今年は2006年。いつしかモーツァルト生誕250年を迎えていた。モーツァルト は35歳で亡くなっているから、要するにあの時から早や15年が経過したということだ。モーツァルトの楽曲を渡り歩く私の旅も依然としてゆっくりと、そして淡々と続いて はいたが、あの頃の自分と比べれば格段に多忙になった自分にとって、この楽しい紀行文の執筆が途絶えてからも早や14年が経過した。しかし、時折古い紀 行文を開いてみては、一つの思いが去来していた。それは、わたくしにとって音楽に受動的に触れるだけの旅はほんとうの旅ではなく、能動的に文章に書きつけて行ってこそ、旅の真の証がとどめられるということである。このメモリアル・イヤーを機に、たとえ亀の歩みのようなのろい旅であってもいいから、一つ一つ の旅の証を書き記していこうと思う。

 かつて、モーツァルティアン仲間のS氏とモーツァルトを語り合ったとき、どの分野の作品群を好むかで意見が分かれた。わたくしが当時、ピアノ協奏曲群を強く愛好していたのに対し、S氏は「何と言ってもオペラだ」と主張して譲らなかった。しかし、正直に言うと、その頃のわたくしにはまだモーツァルト のオペラというものがきちんとした旅行の目的地に入っておらず、旅行ガイドのオペラのページをぺらぺらめくって垣間見る程度でしかなかったので、わたくし にそれを論評する資格などまるでなかったというのが実情であった。何せ、いくらCDを買って聴いても何の映像もなく、ストーリーもよくわからず、劇場での舞台のイメージもまるで湧かない状態で、しかも内容は抜粋だったため、序曲という名の管弦楽曲と、アリアという名の歌曲とによる、組曲を聴いているような印象しかなかった。

 しかし、近年、いつの頃からか、DVDという便利なものが売られるようになり、オペラの全曲の画像と音声を、自宅で視聴できるようになったこと で、15年前とは違って、モーツァルトのオペラの感動を手軽に体験できる時代となった。もちろん、劇場で鑑賞する生のオペラに比して、音楽的な迫力は遠く及ばないかもしれないが、歌い手の表情がアップで見られることや、日本語の字幕が出ることなど、生での鑑賞よりも優れていると言える面さえある。特に日本語の字幕はストーリーの理解に大きく役立つ。特に気に入った箇所だけ、あとで聴き返すこともできる。

 わたくしがまず手にしたオペラのDVDは、サヴァリッシュ指揮・バイエルン国立歌劇場による「魔笛」であった。2時間40分に及ぶ物語は、美しいメロディーと、哲学的とも言える深遠なストーリーとが充満したもので、強く心を引きつけて放さない、感動の時間であった。

 作品のテーマは大きく二つある。その一つは恋愛である。恋する感情の美しさ、尊さと言ってもよい。それは一貫して王子タミーノと王女パミーナとの恋とその成就までの道程を通して描かれる。特に第一幕では、この作品が至高の恋愛物語であると確信させるほどに、恋する若者の内面の感情が美しく存分に描かれる。いっぽう、後半の第二幕では、真実への信仰というもう一つの大きなテーマが語られる。そのことがこの作品に驚くべき厚みと深みをもたらし、鑑賞者を感動と思索へと誘う。

 さあ、それではDVDの再生ボタンを押してみよう。いや、気持ちだけでも劇場の客席に飛んで、360度オペラの空間に身を置いて鑑賞することにしよう。

 冒頭の序曲は厳かに開始する。作品全体が持っている哲学的な問いかけを予感させるような荘厳さだ。アレグロに移ってからも、フーガのように旋律を 重ねていく流麗さは、「フィガロの結婚」序曲の軽快さとは明らかに一線を画している。途中で金管楽器のファンファーレが入るが、これまた極めて荘重である。序曲だけでも独立した管弦楽曲としての価値が十分にあるが、あとに展開される作品全体を知ってからもう一度この序曲を聴くと、より大きな広がりの可能性を感じるから不思議だ。

 第1曲 導入「助けてくれ」:タミーノ(テノール)、3人の侍女(ソプラノ2、アルト1)
 舞台の上に登場人物が現れる。大蛇に襲われる青年タミーノを3人の侍女が助けるところから物語が始まる。侍女たちは夜の女王に仕える女性たちだが、気絶 した美男子タミーノの美しさに心を奪われ、その強い感情を口々に語るが、自らの立場を弁えて自制する。ここでは、タミーノの男性としての美しさ、そして、 恋する女性の切ない感情が表現されている。
 侍女が3人であることにも大いに意味がある。そこでは一人の男性を巡って争う女の敵対心、嫉妬の感情なども、この6分程度の歌の中に、一度に表現されて いる。3人の侍女は時に美しいハーモニーを歌い上げ、時に漫才のような掛け合いを演じる。特にこの掛け合いは、舞台上の3人の動きとともに鑑賞しなければ、その軽妙さはわからない。歌曲として独立させることも可能なアリアと違い、まさにオペラとしての演技に組み込まれた音楽の構築美を、この第一曲で味わうことができる。オペラは決して歌曲の組曲ではないということを、冒頭からいきなり実感させられる。

 第2曲 アリア「俺は鳥刺し:パパゲーノ(バリトン)
 あくまでも脇役なのだが、作品全体に楽しみと安堵をもたらしてくれる存在、それが鳥刺しパパゲーノだ。パパゲーノが歌う歌はいつも陽気で明るく、自分の正直な心を表現することにためらいがない。彼は鳥を捕まえてそれを夜の女王の侍女に与えてはその報酬として食べ物を得ていたので、いわば職業的な「鳥刺し」ということになるが、この作品では人間というより、鳥の化身として描かれているようである。タミーノとパミーナの恋の外側にいて、まさに鳥が空から見つめるがごとく、二人の恋を見守りつづける。そして、物語の深刻な展開の中にあっても、上空から降り注ぐ小鳥のさえずりのように、異なる世界からの平安の声を響かせてくれる。

第3曲 アリア「この肖像の魅力的な美しさ!」:タミーノ(テノール)
 夜の女王の侍女たちから王女パミーナの肖像を見せられたタミーノは、パミーナのあまりの美しさに胸打たれ、一瞬にして恋に陥る。そして愛しいパミーナへのあふれる思いを甘美なテノールのアリアで歌い上げるのが、この第3曲である。美しいパミーナの肖像に魅惑され、天にも昇るほどの憧憬、恋の純粋さ、潔さ、誠実さが、テノールの豊かな歌声で見事なまでに表現されている。そして、恋と表裏一体で常に付き添うある種の儚さ、胸苦しさ、切なさも、そこには同時に秘められているようである。この曲によって、作品を貫くテーマの一つである真実の愛が、聴く者の心に投影され、全曲の終盤まで強く響き続けていく。

 第4曲 レチタティーヴォとアリア「恐れなくてよい」:夜の女王(ソプラノ)
 パミーナの母である夜の女王の歌は、まるで独奏楽器のような技巧的なソプラノのアリアを、本作品中に2曲歌う。その1曲目に当たるのが、この第4曲である。魔王ザラストロに娘パミーナを奪われた悲しみを切実に吐露する前半部に続き、後半部では娘の奪還をタミーノに強く命じる。ここでは、快活さ、華麗さ、強さ、鋭さが技巧的な歌唱の中に複雑に織り込まれている。そして、タミーノに対し、もし王女パミーナの奪還を果たしたならば娘をおまえに与えると宣言する。夜の女王の強い情念は、主人公タミーノにとってパミーナと結ばれるためのチャンスを与えられたことを意味し、観客に今後の展開への期待を抱かせる。

 第5曲 五重唱「ウ ウ ウ」:タミーノ(テノール)、パパゲーノ(バリトン)、3人の侍女(ソプラノ2、アルト1)
 美しい五重唱である。パミーナ奪還の旅に出るタミーノに3人の侍女たちが、危険が迫ったときに吹くようにと“魔法の笛”を授ける。パパゲーノは嘘を付いた罰として口を封じられていたが、侍女たちはこれを許すとともに、タミーノの旅に従者として付き添い、タミーノを守るよう命じる。そして彼には“魔法の鉄琴”を授ける。そして、3人の少年が彼らの案内役となることを約束する。舞台には雲に乗った3人の少年が登場してタミーノとパパゲーノを導く。テノールとバリトンのデュエットも、ソプラノとアルトのトリオも、それぞれに美しく、そして重なり合う。ハーモニーを中心とするこの第5曲では、登場人物たちが力を合わせて目的を遂行していく方途が示される。ここではまだ、魔笛も魔琴も音を出さず、少年たちも声を出さない。未来に続く旅の険しさと、そこで展開される物語の豊かさ、複雑さを予感させて場面が変わる。

 第6曲 三重唱「さあ入るんだ」:モノスタトス(テノール)、パミーナ(ソプラノ)、パパゲーノ(バリトン)
 王女パミーナが初めて登場する。彼女は、魔王ザラストロの奴隷であるムーア人モノスタトスに監視されていた。モノスタトスは非常に野卑で下品な人物として描かれているが、その役を黒人に担わせたのは、清純さの象徴たる王女パミーナの白さと、その対局にあるモノスタトスの醜い黒さを対比させたものであろうが、今日において人種差別的な意味を持ち得るので改善してもよいのではないかと思う。それはさておき、モノスタトスがパミーナをものにしようとした瞬間に、タミーノより一足先に着いたパパゲーノがパミーナを救う。醜い男の魔の手にかかりかけた王女パミーナの不幸な境遇に観客は強い衝撃を受け、場内はパミーナを救いたい思いで一色になるであろう。

 第7曲 二重唱「愛を感じる男たちには」:パミーナ(ソプラノ)、パパゲーノ(バリトン)
 王子タミーノが既に自分を深く愛していることを知ったパミーナは、その愛に感動し、自らの心にも愛を芽生えさせていく。いっぽう、パパゲーノはまだ見ぬ恋人パパゲーナへの愛を口にする。パミーナとパパゲーノはそれぞれ別の人への思いを抱いているが、愛というものの喜び、尊貴さを、美しいアリアのデュエットで歌い上げる。男と女の愛情に一種の神聖さを見出しているようである。

 第8曲 フィナーレ「この道はお前を目的へと導く」:3人の少年(ボーイ・ソプラノ)、タミーノ(テノール)
 3人の少年に導かれたタミーノが登場する。少年子たちは守り神で、この物語の中では常に雲に乗って現れる。このような神性を帯びた存在を、老人や威厳ある人物ではなく、少年に担わせるのは、少年が持つ純粋無垢さがある種の神性さを象徴しているからであろう。そしてたしかに、ボーイ・ソプラノのトリオは、その透明感といい、純潔さといい、誠に希有で美しい。とうてい冒しがたい尊貴さがそこにはあるのである。

 このあと、タミーノはパミーナを探すために、“魔法の笛”を吹く。その笛の音は野獣さえも喜びに包んでしまうほどに美しい響きだった。いっぽう、パミーナはモノスタトスに再び捕らえられようとしていたが、こちらはパパゲーノの“魔法の鉄琴”の不思議な音色のおかげで救われる。美しい音楽は常に善をなす者の武器であってほしい──そんな願いが込められているかのようである。

 やがて、大合唱のなか、魔王ザラストロが登場し、その前でパミーナとタミーノは遂に対面し、熱い抱擁を交わす。しかし、パミーナは、悪の権化と思われていたザラストロに対する信仰を口にし、ザラストロもまた、夜の女王こそ憎しみの化身であり、パミーナを母親から救うために引き離したことを告げる。観客を困惑させるような価値観の逆転が行われるのである。
 そして、ザラストロはパミーナとタミーノの愛が真実のものであることを確かめるため、二人に試練を与えて第1幕を閉じる。二人が対面を果たし、タミーノがパミーナを救って恋が成就するところで終わると思われたこの物語だが、神への信仰のもとに真実の愛を確かめる第2幕という、さらに壮大なスケールの物語が続くことを観客に知らせてひとたび幕を閉じる。

2006.8.30


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