谷川俊太郎氏が「モーツァルトを聴く人」という詩集を出したことを、新聞広告で目にした。翌日、書店で買い求めたが、すぐには読まなかった。パラパラとページを繰った時に私は感じたのだ。この詩集は読む時を選ぶと。モーツァルトのメロディが自分にとって必要な時にこそ読もうと。そういう時にこそ、詩の一言一句に何かしら「共感」があるのではないかと思ったからだ。
その時は一週間も経たないある雨の日にやってきた。その日、私は友人の母の急逝の報を受け、通夜に出かけた。友人は温和で親思いの好青年だった。親の死は誰しも一度は経験しなければならない出来事である。しかし自分は幸いにもまだそのことに遭遇してはいない。こんな時、何といって声をかければよいのか、自分には全く思い浮ばなかった。中学校以来親元を離れている自分とは違って、彼は20代後半の今日まで常に両親のもとで暮らしてきた。気の優しい彼はこの大事件に対して心の整理をつけられるだろうか。気丈に乗り越えることができるだろうか。そんな思いを巡らしながら私は大勢の弔問客の列に並んだ。
焼香の番が自分にまわってきたとき、目に入ったのは、亡母の遺影と、彼の毅然とした表情だった。彼は私と目が合うなり、深々と一礼した。もちろん、私だけでなくすべての弔問客に対して彼は同じように会釈をしていた。涙を流すでもなく、やつれた表情でもなく、立派な表情だと思えた。
帰宅し、喪服を着替えながらも、友人の毅然とした表情が頭から離れなかった。この時私は、無性にモーツァルトが聴きたくなった。なぜかはわからない。強いて言えば「永遠」を知りたかったから、と言うほかない。この時、私は詩集「モーツァルトを聴く人」を初めて本当に手にした。自分が今どの曲を聴けばよいのかを探そうとして。
頁を繰りながら、「母は死んだ」という言葉が、ふと私の目に止まった。白い頁の中に大きい活字で記されたこの一句は沈黙していた。紙に書かれた文字が沈黙しているのは当たり前なのだが、私にはこの沈黙が恐かった。だから私は「ふたつのロンド」というこの詩を、声に出して読んだ。
「ふたつのロンド」という詩は、亡き母の思い出の詩であった。心の中のある強い感情が何かしらの音楽と結び付いていることはよくある。この詩は谷川氏の私的経験に基づいて詠まれたものに違いなかった。
ロンド・ニ長調の、快活な旋律は谷川氏が幼い頃の、ピアノを弾く若い母の姿と結び付いていた。
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子供が笑いながら自分の影法師を追っかけているような旋律
ぼくの幸せの原型
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私は、早速CDラックから、ピアノ・ソナタ集のCDを1枚取り出し、ロンド・ニ長調を部屋の中に響かせながら、「ぼくの幸せの原型」という言葉をかみしめた。
にわかに、故郷にいる私自身の母の姿やその生きる営みが思い起こされた。私の母はピアノが弾けないことはもちろん、モーツァルトも全く聴かない。しかし、この詩によって母とモーツァルトとは結び付いたのだった。
母は元気でおしゃべりである。おもしろいことがあると、口を大きく開けて、目尻をしわくちゃにして、「アハハハ……」と笑う、快活な母だ。地域の婦人コーラスに参加していて、家でミシンを踏んでいる時も、ソプラノの甲高い声を張り上げた。あまり音程がいいとも思えなかったが、リズムに乗ってミシンを踏む母のその声を聴くだけで、実は随分と幸せな気分にさせてもらっていたということを、今にして思うのだ。
このロンドの純粋無垢なメロディーも、常にそれが終った後の沈黙を、既にその音楽のうちに含んでいる。しかし、人はその潜んでいた沈黙があからさまになることを心から恐れる。
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音楽がもたらす幸せにはいつもある寂しさがひそんでいる
帰ることのできぬ過去と
行き着くことのできぬ未来によって作り出された現在の幻が
まるでブラック・ホールのように
人の欲望や悔恨そして愛する苦しみまでも吸いこんでしまう
それは確かにひとつの慰めだが
誰もそこにとどまることはできない
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ふと谷川氏の若い頃の詩「20億年の孤独」の一節を思い出した。
「万有引力とは引き合う孤独の力である」
宇宙も地球も真ん丸なのに、人間の心だけが真ん丸じゃないから、孤独というものが起こるのかもしれない。それはそれでいいのだ。一人だけで真ん丸になる必要はないのだから。しかも人は生まれたり死んだりするものであることも確かなのだ。
私が親不孝でなければ、いつか親の死期に出くわすだろう。友人の母も一ヶ月前までは元気だった。私が尋ねた時もにこやかにお茶を出してくれた。一ヶ月後に、このような時を迎えようとは誰が予想したろうか。
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その束の間が永遠に近づけば近づくほど
かえって不死からは遠ざかるということを
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そうして、耳を澄ましてロンド・ニ長調を聴いていると、その快活さが既に具え持っている、永遠の静寂が私を襲った。それは私にとっては辛苦の時ではなく、幸福の時であった。ほら、おのれ自身の永遠すらもどこかから聞こえてくるじゃないか。次第に音色は溶けこみ、本当に静寂に吸い込まれるように曲は幕を閉じた。
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後半は、母の晩年の思い出の詩であった。口もきけず物も食べられないまま病室のベッドに横たわる母の寝顔。脳が萎縮してしまった母の表情はもはや見分けることができないと。その光景そのものが生命というものの厳粛さを訴えかけているようだ。最も大切な人の生命を通して。
その光景のうしろで鳴っているというロンド・イ短調。
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まるで人間ではない誰かが気まぐれに弾いているかのようだ
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そう、モーツァルトのメロディは宇宙の生命のメロディそのものなのだ。ロンド・イ短調の主題のもの悲しげでそれでいて淡々とした旋律は、確かに人間を超えた何者かが奏でる調べなのだ。
主題の合間に表れる二つの長調の副主題は、一時の安息とでも言おうか。そうして、短調と長調とを行き来するのだが、聴く人の耳には終始夜の雨のようにじっとりと冷たさが染み込んでくる。
この曲のコーダは特に不思議だ。にわかに口数が増えて、言いたいことをすべて言い尽くそうとする、最後の魂の訴えのようだ。まだすべてを言い終えていないもどかしさが激情となって旋律は頂点に達する。そして、その頂点から降りていく自然な重力に身を任せる、それはある種の諦めを表現して静かに曲を終える。後年ショパンがモーツァルトのこの世界から大きな影響を受けたことは間違いないが、宇宙に内在する喜びや悲しみに対するこの従順さは、やはりモーツァルトだけが成し得たものと言わざるを得ない。
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うつろいやすい人間の感情を超えて
それが何かを告げようとしているは確かだが
その何かはいつまでも隠されたままだろう
ぼくらの死のむこうに
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心に染み込んだ雨とともに、窓の外では依然として涙雨が降り続いていた。谷川氏の母も友人の母もその生命を大宇宙に還したが、私の母はまだ健在である。確実に老いてはいるのだが。それでも私にとっては母は永遠である。不老不死の人である。どうしても私はそう思っていたい。
(『Oracion』 Vol.4 <1993> モス・クラブ刊より)