永遠に不滅の二人の大作曲家、ベートーベンとモーツァルト。この二人の人間性をめぐって後世の我々は様々な思いを巡らす。モーツァルトは・・・あふれ出
る楽想のままに、変化に富んだ27曲のピアノ協奏曲を生み出し、音楽の可能性を開き、ベートーベンへの道を創った。ベートーベンは・・・その偉大な10曲 の交響曲で、二管編成の近代オーケストラの形態を完成させ、交響曲というジャンルを古典音楽の中心に据える役割を果たした。
二人の音楽を対比して、ベートーベンは男性的である一方、モーツァルトは女性的だという評論をしばしば耳にする。力強さと優しさ、壮大さと優美さ、いろ
んな言葉で二人は対比された。なるほどそうかもしれない。しかし、そのことが意味しているものは何なのか。その本質は決して単純なものではない。なぜかな らば、モーツァルトはれっきとした男性なのだ。彼を支えた創作への強い意志は、むしろ男性的な強靭さを感じさせるほどである。彼は一体、本当に女性的なの
か、もしそうであるならば、何がそうさせたのか。
端的に言うならば、ベートーベンは度重なる苦難を不屈の精神で乗り越え、勝利していった人であったのに対し、モーツァルトは苦難に対し、余りにも従順で
あり、不遇の人生を甘んじて受け、そして早逝した人だった。その素直さのままに、彼の音楽もまた流れるように自然で、純粋で、何か無抵抗な点において女性 的なものを感じさせた。このように見ていけば先に述べた両者の対比はそれなりに首肯できる。
だが、それだけでは、二人の音楽に一つの流れがあったことを、受け継がれたものがあったことを見落としてしまうのではないだろうか。モーツァルトが内に
秘めたまま世を去った、勝利の賛歌、栄光の凱歌。ベートーベンはそれを継承し、モーツァルトとは違った生き様の中で、それを形に表したのだ。
これだけは確かに言える。もし、この世にモーツァルトが存在しなかったならば、ベートーベンもまた、存在しなかったであろう、と。
モーツァルトがベートーベンへの道を作った曲を一曲挙げよと言われれば、私はまず、「一曲だけ挙げることはできない」と断わって、ピアノ協奏曲第 24番ハ短調(K491)と第25番のペアを推すであろう。そして許されるならば、交響曲第40番ト短調(K550)と第41番ハ短調(K551)、弦楽
五重奏曲第3番ハ長調(K515)と第4番ト短調(K516)、そしてピアノ協奏曲第20番ニ短調(K466)と第21ハ長調(K467)と、合計4組8 曲を挙げるだろう。これらのペアは、いずれもそれぞれがほぼ同時期に作曲され、しかも全く対照的なハ長調と短調のペアなのである(このことは連載第5回で
も述べた)。
私自身にとっても、モーツァルトの音楽の中で、私が最も愛するのがピアノ協奏曲第17番(K453)であるならば、最も尊敬するのは1786年に生まれ
た第24番と第25番のペアである。
神の存在を信じさせるほどの、人間を超えた神秘性を持つ最高の作品、24番。そこには苦悩、孤独、憂愁、悲嘆、様々な激しい感情がうずまいている。背筋
が寒くなるようだ。
それに対し、25番第1楽章の冒頭の壮大さ、快活さはどうだろう。勝利を収めて凱旋する王者の行進のように堂々としている。24番において問題提 起されたものが、すべて解決したような安堵感がここにはある。モーツァルトにしては珍しく、男性的な強さを感じさせる。
しかし、この第一印象は、直後にハ短調のモチーフが現れることによって早くも変更を余儀なくされる。そして、短調と長調の間を行ったり来たりする心の振
幅こそ、ああ、これがモーツァルトだったんだ、と思い出させられるのである。
再び、壮麗なトゥッティの後にあまりにも対照的なこじんまりとしたピアノ独奏が登場する。何人もの大男が大事に抱き上げたカゴの中から、少女が顔をのぞ
かせて、大男にか弱い声で語りかける、そんな感じがするほどかわいらしい。
不思議なことに、そのかわいらしい旋律にかぶさるように再び冒頭の壮大なテーマがオーケストラとピアノの共同作業で始まるのだ。そして、ふと気が付く と、ピアノは23番のような流麗なパッセージを奏でている。第2主題もまた少女がピクニックをしながら歌う鼻歌のように優しい。
楽章全体を通じて何度も登場するフランス国歌風の主題も特徴的だ。このまま国歌を歌いあげるように高まっていくのかと思うとすぐはぐらかされる。
圧巻は展開部である。国歌風の主題が一音ずつ上げて繰り返される。その間、妙な緊張感が高まっていく。歌い上げたい歌があるのに、力が足りず歌いきれな
い。くやしくてもう一度歌おうと試みるのだが、やはり力尽きる。それを繰り返すうちに、突然フガートとなり、この国歌風のモチーフがピアノ、オーボエ、 ファゴット、弦楽器、ピアノ、オーボエ、フルート、弦楽器と入り乱れ、魔法をかけられているような緊張感を維持したまま続き、ようやく落ち着きを取り戻し
たかと思うと、再び再現部となり、壮大なテーマに突入する。この展開部にはモーツァルトの作曲技術の粋が集められていると言ってよい。
壮大のように見せかけて実は繊細なこの楽章から私が感じるものは、強さ、栄光への憧れである。モーツァルトが胸に秘めていたもの。まだ直に手にしてはい
ないものの、しかし、それがどんな形をしているかを彼は知っていたのだ。
彼は決してただ苦難に甘んじたのではなかったのだ。
ベートーベンは、この楽章に見えかくれする男性的な力強さから、恐らく多くの啓発を受けたろう。そして、彼は人生の格闘を続けた末に、モーツァルトが手
にしなかったものを直に手にしたのだ。
この楽章から我々は、確かにベートーベンへと続く道が見えてくるのである。
第2楽章は、モーツァルトの素直さが全面的に発揮された素晴らしい楽章である。まぶしいほどの太陽が昇りゆく東の空に向かって、両手を広げて深呼 吸するような、そんな豊かさがある。目の前を渓流が流れている。その流れも絶好の調和であるならば、時々水面から飛び跳ねる小さな魚も、飛び散る水しぶき
も、川底を転がる石ころも、すべてが、宇宙に最初からあった絶妙の調和をそのまま見せている。その前にたたずむ時の幸福感。楽章が始まってから終るまで、 きれいに澄んだ空気を存分に吸わせてくれる。聴く者の心を豊かに、さわやかにしてくれる。
この楽章はどうしてもモーツァルトにしかない世界に思えてならない。ベートーベンの田園交響曲の第2楽章も本当に美しい。だが、それは創造された美しさ
だ。モーツァルトの場合はもっともっと自然なのだ。宇宙に元から満ちているのだ。
恐らく、ベートーベンはこのモーツァルトの美しさに一歩でも近づこうと、挑み続けたのに違いない。そして、モーツァルトの音楽よりずっと規模が大きく、
豊かな楽想に満ちた音楽を作った。しかし、いや、当然のことかもしれないが、それはモーツァルトのものとは違った。モーツァルトの真似をすることなど、誰 人にもできないのだ。
第3楽章は明朗な中にも一本芯ががっちり通っているロンドだ。そして、実に表情も豊かで、何か言いたいことがたくさんあると感じさせる、密度の濃 い楽章である。恐らく、第3楽章だけを取り出すなら、モーツァルトの長調のピアノ協奏曲の中で、最も芸術性に富んでいるのではないだろうか。第2主題のど
ことなくコミカルな旋律も、何かしら物言いたげである。
それにしても、それぞれの断片が実にスムースに受け渡されていき、楽章全体が見事に一つの音楽として、緊密なつながりを持ち続けていることには驚嘆させ
られる。
この音楽の素晴らしさを教えてくれたのは内田光子だった。イギリス室内管弦楽団との息もピッタリである。凝縮された精神性を表現できる女流ピアニ ストとしては、内田こそ日本で随一であると言ってよい。
そのCDは24番とのカップリングであった。この一枚は希有のCDである。モーツァルトの真実のすべてが凝縮され、時間を止めてしまったあの24番のあ
とに、それを打ち消すかのように未来に向かおうとする25番。やはり、この二曲は一つの組をなしているのだ。
24番について語る日もいよいよ近いようだ。
(『Oracion』 Vol.3 No.11 <1992.11> モス・クラブ刊より)