モーツァルトを旅する(14)  セレナーデ第9番「ポストホルン」ニ長調K320 ー協奏曲と交響曲の融合ー


 機会音楽として、種々の祝典の席上で演奏されたモーツァルトのセレナーデは、楽器の編成や楽章の構成などいずれの点からみても、統一された形式というも のを持っていない。有名な「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(K525)は弦楽合奏でソナタや交響曲と同形式の4楽章だし、「グラン・パルティータ」 (K361)は13本の管楽器による(厳密にはコントラバス1本を含む)アンサンブルで7楽章である。「ハフナー・セレナーデ」(K250)は一種のバイ オリン協奏曲で8楽章。「セレナータ・ノットゥルナ」(K239)はバロックの合奏協奏曲のような形態で、中間楽章をメヌエットとする3楽章構成である。 ただ、これらに共通して言えるのは、いずれも壮大なスケールで、かつ明快な親しみやすいメロディーを持っていることである。
 これらセレナーデ群の中で1曲だけ挙げよと言われれば、私なら惜しみなく「ポストホルン・セレナーデ」を挙げる。この曲は基本的には普通のオーケストラ の編成(トランペット、ティンパニを含む、当時としては大編成)だが、第3・4楽章では木管(特にフルート・オーボエ)の使い方に協奏曲的特徴が見られ る。楽章は7楽章構成である。

 モーツァルトにとってこのセレナーデという曲種を特筆する理由は何点かあるが、「ポストホルン」にはそれが典型的な形で含まれている。
 連載の第10回で、モーツァルトの音楽には「対話」の要素があると述べた。交響曲の形式を完成させたのがハイドンなら、協奏曲の形式を完成させたのは モーツァルトだと言われる。確かにピアノ協奏曲にしても、管楽器の協奏曲にしても、独奏者とオーケストラとの対等な対話が曲全体に立体感と変化をもたらし ている。いくつかのピアノ協奏曲の中には、それだけではなく、オーケストラの中で弦楽器群と管楽器群とに分かれて対話する場合もある。ピアノはその場合弦 楽器とともに行動する。例えば第24番(K491)の第2楽章がそうである。この形態は交響曲でもできそうに思う。ピアノを除けばよいだけだからだ。とこ ろがモーツァルトは交響曲の中ではこのような「対話」をあまり見せない。思うに、交響曲をオーケストラのトゥッティの音楽として完成させたのが彼が尊敬し ていたハイドンであり、交響曲を名乗る以上、ハイドンに敬意を表して、その特徴を踏襲しようとしたのではないだろうか。もちろん音楽自体は彼なりの完成を しているが、彼の音楽に独特の立体感が控えられている。

 その点、彼のセレナーデ群は、「対話」を持った協奏曲的な交響曲として、十分私の不満を補ってくれる。
 「ポストホルン」の第3楽章は、花園を蝶や蜜蜂が舞う、そんな情景を思わせる美しい楽章である。彼自身この楽章の書き出しにコンチェルタンテ、つまり 「協奏曲的に」と記している。フルート、オーボエ、ファゴット、ホルンともに2本ずつが用いられているが、この中で第1フルートと第1オーボエとは、独奏 者のような目ざましい活躍をする。弦楽器の静かな響きが広い草原のように澄み渡り、そこにフルートの蝶とオーボエの蜜蜂が戯れながら飛び交う。そんな感じ である。ここで第2フルート、第2オーボエ、ファゴットは、時に二人の独奏者にハーモニーを重ね、時に弦楽器とともにトゥッティの一員となり、両面の役割 を果たす。ホルンはもっぱらトゥッティの側である。

 第4楽章のロンドでは、冒頭からフルートとオーボエの対話が始まり、それぞれの第2奏者の役割はいっそうトゥッティ側に傾斜し、協奏曲的要素はな お強くなっている。軽快で楽しい旋律を持つこの楽章にも、何かを語ろうとする強い意志のようなものが感じられ、単に楽しいだけでない、確かに芸術と言うべ き楽章である。もし何かにたとえるなら、人の心の多様な表情を描いたものとでも言えるだろうか。ともあれ、色彩感の豊かなこの楽章は、それぞれのどの箇所 も響きが美しく、そして全体の流れも美しい名曲である。

 協奏曲的な楽章がもう一箇所ある。それは第6楽章のメヌエットの第2トリオである。独奏者は、後にも先にもめったに用いられないポストホルンで、 その珍しさから、曲全体の愛称にまでなっている。ポストホルンは乗合馬車の御者が鳴らすラッパのことで、もちろんピストンがないので倍音(要するにドミ ソ)しか出せない。彼はトランペットにドミソ以外の音を与えたことがないが、それは当時の楽器の性能によるものが多かったろう(ホルンも当時はピストンや ロータリーはなく、右手を調節して音を変えていたとナチュラル・ホルンだった)。したがって、トランペット協奏曲がないことはもとより、旋律を与えたこと すらないのだが、この第2トリオではドミソだけを使って一つの旋律に仕上げている。単にポストホルンを使ったことが驚きなのではなく、ポストホルンであれ だけの楽しい音楽が作れるということが驚きではないだろうか。
 またこの楽章の第一トリオでは第1バイオリンとユニゾンでフラウティーノ(いわゆるピッコロ)の楽譜が添えられているのも珍しい。楽章全体としてもトラ ンペットの響きが輝かしいシンフォニックなメヌエットとしてなかなかに楽しい上質な楽章である。

 これら三つの楽章に対して、第1・2・5・7楽章は普通の交響曲に近い楽章である。第1楽章は、交響曲の「プラハ」(K504)や第39番 (K543)に劣らないほどの壮麗なアダージョの序奏がついているアレグロの楽章。第2楽章はメヌエット、第5楽章は悲嘆のようなニ短調の緩徐楽章、第7 楽章はこれまた壮大なフィナーレで、この四つの楽章を組み合わせれば、れっきとした交響曲になる。
 先日、新聞の広告で、あるオーケストラの演奏会のプログラムにポストホルンが組まれているのを見つけ、喜んで聴きにいったところ、演奏したのは第1・ 5・7楽章だけであった。プロのオケが抜粋をやるとは思わなかったし、私が特に好む第3・4・6楽章が聴けなかったのにはがっかりした。そのコンサートで はメインはベートーベンの「運命」で、「ポストホルン」は冒頭でまるで前座のような扱いをしていたので憤慨した。この曲は「運命」に劣らぬ大曲である。ま ことに不当な扱いである。ともあれ、抜粋してもバランスのとれた楽章構成を形の上では作ることができるのは確かなことではある。しかしながら、「ポストホ ルン」のよさは、コンチェルタンテな楽章を内側に持っているキャパシティーの広さにこそあるのではないだろうか。

 第3・4楽章も、これらの前にもう一つ同形態のアレグロの楽章を作れば、フルートとオーボエのための協奏曲になる。しかしながら、モーツァルトの 様々な音楽の側面がバランスよく散りばめられたこの曲はその全体が実は見事なスケールの曲なのである。協奏曲的な要素を持った交響曲としてのセレナーデを 代表する「ポストホルン」は、交響曲の愛好者にも、私のような協奏曲の愛好者にも親しまれることだろう。

 ベーム指揮、ウィーン・フィルの演奏は、全体的に落ち着いたテンポで、弦楽器の優しい響きに加え、フルートのゴールウェイ、オーボエのコッホの豊 かな音色には、心底魅了される。演奏時間は通常で約70分。しかし、その美しさによって、聴く者は時間を忘れさせられる。

(『Oracion』Vol.3 No.2 <1992.2> モス・クラブ刊より)


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