モーツァルトがこの世にいない200年が過ぎた。昨年のあのモーツァルト・ブームの様子を、彼自身は天上で知ることができたろうか。できたとしたら、どんな面もちでこれを眺めたろうか。
至高の作品を数多く残しながら、それにふさわしい名声を得ることもなく、貧しい身で若くしてこの世を去ったモーツァルト。彼が優れたピアノ協奏曲を多く作曲した事実の陰に、理解されないことへの達観と、だからこそ自らが演奏しようとしたぎりぎりの自負心とを感じるのは私だけだろうか。
彼の作品は、それを深く理解し、愛するものにしか、演奏することを許さない。楽譜はさほど難解ではない。今日ではもちろんのこと、当時においても極端に高度な技能を必要とするものではない。しかし、彼の音楽の美しさは楽譜の「行間」に込められたものであって、彼の心を知る演奏家の手によって初めて、事実の美となる、そういうものなのである。
モーツァルト自身の演奏は、レコードもCDもこの世には全く影もない。タイムマシンでもない限りそれを聴くことは、今日において全く叶わぬ夢である。しかしながら、彼の心を知る演奏家は、今この時確かに存在する。
クラシック愛好家がよくやる楽しみの一つに「聴き比べ」というのがある。同じ作品の別の演奏家による演奏を聴き比べるのである。私も、中学生当時は、古今東西のいろんな名作についてこれを試みたが、率直な私の感想は、「モーツァルトほど演奏者によって優劣の差がはっきりとしている音楽は他にない。そして、モーツァルトほど演奏者によって解釈がはっきりと異なる音楽は他にない」というものだった。ブラームスやチャイコフスキーやドボルザークの大曲は、誰が演奏しても大曲だと、少なくとも私には思えた。しかし、モーツァルトの曲では、ある演奏を聴いてつまらない曲だと思っていたのが、別の演奏を聴いて名曲であることに気づいたということが、少なくなかった。逆に、最初に名演奏と出会った曲の場合には、他の演奏はさわりを聴いただけで拒否反応が起きたりもした。もとより、私の趣向による要素もあろうが、本当の名演奏は誰の心をも動かすものと信じている。少なくとも私はここで主観的、客観的という言葉を用いたくない。音楽に客観などありはしない。音楽はすべてが心に響くものであり、その意味ですべて主観である。真の名演奏は普遍的に人々の主観に語りかけるものであろう。
ピアノ協奏曲第24番(K491)も「聴き比べ」をした1つである。最初プレヴィンの演奏を聴き、なんだかすごそうな曲だとは思ったが、もう1回聴きたいとは思えなかった。その先入観か、他の演奏を聴いてもなかなかすぐに好きになれなかったが、ある時、この先入観をぶち破る大変な名演奏に出会った。それは内田光子の独奏、テイト指揮イギリス室内管の演奏だった。「モーツァルトの心を知る演奏家」として、私は真っ先に彼女の名を挙げる。彼女の24番から受けた衝撃は大きく、いつか本連載でも取り上げることになるだろう。
ここで、私が選ぶモーツァルトのピアノ協奏曲の名演奏を各曲一つずつ挙げてみよう。各行頭の数字は曲の番号である。
番号 ピアノ独奏 指揮者 オーケストラここからもわかるように、後期の大曲の多くについて、私は内田光子の演奏を最高と認めている。しかし、私には内田光子の演奏の秘密がいまだにわからない。テンポの速さとか、両手のバランスとか、アーティキュレーションとか、ダイナミックスなどといった、聴衆に明確にわかるような要素に於ては、彼女の演奏はほとんどオーソドックスであって、奇をてらったところが全くない。他の演奏家と何が違うのか、よくわからない。今私に言えることは、彼女は完全にモーツァルトを自分のものにしているということである。いずれにせよ、彼女の演奏がもたらす感動は私個人の趣向によるものとは到底思えない。
9番 ハスキル ザッヒャー ウィーン交響楽団
10番 ハスキル/アンダ ガリエラ フィルハーモニア管弦楽団
14番 内田光子 テイト イギリス室内管弦楽団
15番 ブレンデル マリナー アカデミア管弦楽団
17番 ブレンデル マリナー アカデミア管弦楽団
18番 ペライア(指揮兼) イギリス室内管弦楽団
19番 ブレンデル マリナー アカデミア管弦楽団
20番 内田光子 テイト イギリス室内管弦楽団
21番 内田光子 テイト イギリス室内管弦楽団
22番 バレンボイム(指揮兼) イギリス室内管弦楽団
23番 内田光子 テイト イギリス室内管弦楽団
24番 内田光子 テイト イギリス室内管弦楽団
25番 内田光子 テイト イギリス室内管弦楽団
26番 内田光子 テイト イギリス室内管弦楽団
27番 バックハウス ベーム ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(『Oracion』Vol.3 No.1 <1992.1> モス・クラブ刊より)