モーツァルトを旅する(13)  ピアノ協奏曲第22番変ホ長調K482 ー聴き比べを楽しむー


 モーツァルトがこの世にいない200年が過ぎた。昨年のあのモーツァルト・ブームの様子を、彼自身は天上で知ることができたろうか。できたとしたら、どんな面もちでこれを眺めたろうか。
 至高の作品を数多く残しながら、それにふさわしい名声を得ることもなく、貧しい身で若くしてこの世を去ったモーツァルト。彼が優れたピアノ協奏曲を多く作曲した事実の陰に、理解されないことへの達観と、だからこそ自らが演奏しようとしたぎりぎりの自負心とを感じるのは私だけだろうか。
 彼の作品は、それを深く理解し、愛するものにしか、演奏することを許さない。楽譜はさほど難解ではない。今日ではもちろんのこと、当時においても極端に高度な技能を必要とするものではない。しかし、彼の音楽の美しさは楽譜の「行間」に込められたものであって、彼の心を知る演奏家の手によって初めて、事実の美となる、そういうものなのである。
 モーツァルト自身の演奏は、レコードもCDもこの世には全く影もない。タイムマシンでもない限りそれを聴くことは、今日において全く叶わぬ夢である。しかしながら、彼の心を知る演奏家は、今この時確かに存在する。
 クラシック愛好家がよくやる楽しみの一つに「聴き比べ」というのがある。同じ作品の別の演奏家による演奏を聴き比べるのである。私も、中学生当時は、古今東西のいろんな名作についてこれを試みたが、率直な私の感想は、「モーツァルトほど演奏者によって優劣の差がはっきりとしている音楽は他にない。そして、モーツァルトほど演奏者によって解釈がはっきりと異なる音楽は他にない」というものだった。ブラームスやチャイコフスキーやドボルザークの大曲は、誰が演奏しても大曲だと、少なくとも私には思えた。しかし、モーツァルトの曲では、ある演奏を聴いてつまらない曲だと思っていたのが、別の演奏を聴いて名曲であることに気づいたということが、少なくなかった。逆に、最初に名演奏と出会った曲の場合には、他の演奏はさわりを聴いただけで拒否反応が起きたりもした。もとより、私の趣向による要素もあろうが、本当の名演奏は誰の心をも動かすものと信じている。少なくとも私はここで主観的、客観的という言葉を用いたくない。音楽に客観などありはしない。音楽はすべてが心に響くものであり、その意味ですべて主観である。真の名演奏は普遍的に人々の主観に語りかけるものであろう。
 ピアノ協奏曲第24番(K491)も「聴き比べ」をした1つである。最初プレヴィンの演奏を聴き、なんだかすごそうな曲だとは思ったが、もう1回聴きたいとは思えなかった。その先入観か、他の演奏を聴いてもなかなかすぐに好きになれなかったが、ある時、この先入観をぶち破る大変な名演奏に出会った。それは内田光子の独奏、テイト指揮イギリス室内管の演奏だった。「モーツァルトの心を知る演奏家」として、私は真っ先に彼女の名を挙げる。彼女の24番から受けた衝撃は大きく、いつか本連載でも取り上げることになるだろう。
 ここで、私が選ぶモーツァルトのピアノ協奏曲の名演奏を各曲一つずつ挙げてみよう。各行頭の数字は曲の番号である。

番号  ピアノ独奏     指揮者    オーケストラ
9番  ハスキル      ザッヒャー  ウィーン交響楽団
10番 ハスキル/アンダ ガリエラ   フィルハーモニア管弦楽団
14番 内田光子      テイト     イギリス室内管弦楽団
15番 ブレンデル     マリナー   アカデミア管弦楽団
17番 ブレンデル     マリナー   アカデミア管弦楽団
18番 ペライア(指揮兼)         イギリス室内管弦楽団
19番 ブレンデル     マリナー   アカデミア管弦楽団
20番 内田光子      テイト    イギリス室内管弦楽団
21番 内田光子      テイト    イギリス室内管弦楽団
22番 バレンボイム(指揮兼)      イギリス室内管弦楽団
23番 内田光子      テイト    イギリス室内管弦楽団
24番 内田光子      テイト    イギリス室内管弦楽団
25番 内田光子      テイト    イギリス室内管弦楽団
26番 内田光子      テイト    イギリス室内管弦楽団
27番 バックハウス    ベーム   ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ここからもわかるように、後期の大曲の多くについて、私は内田光子の演奏を最高と認めている。しかし、私には内田光子の演奏の秘密がいまだにわからない。テンポの速さとか、両手のバランスとか、アーティキュレーションとか、ダイナミックスなどといった、聴衆に明確にわかるような要素に於ては、彼女の演奏はほとんどオーソドックスであって、奇をてらったところが全くない。他の演奏家と何が違うのか、よくわからない。今私に言えることは、彼女は完全にモーツァルトを自分のものにしているということである。いずれにせよ、彼女の演奏がもたらす感動は私個人の趣向によるものとは到底思えない。
 さて、この表の中で第22番にバレンボイムの名があることが目を引くと思う。内田光子の22番もまた、名演奏である。両者は全く解釈の異なる対局の演奏だが、実はまことに不思議なことに、いずれも名演奏なのである。オーケストラは同じイギリス室内管である。ここでは、バレンボイムの全録音の中でも図抜けてよいこの演奏に軍配を揚げてしまったが、実際のところ両者は比較すべきでないほどに異質である。
 まず第1楽章は、トランペット、ティンパニを含む大編成で、クラリネットがピアノ協奏曲では初めて用いられ、同じ調性の交響曲第39番(K543)を思わせる壮大な音楽である。変ホ長調は金管楽器がよく響く調性で、その分シンフォニックな響きが生み出される。その壮大さを十分に表現しているのがバレンボイムである。彼のピアノは時に乱暴と思えるほどダイナミックである。彼はオーケストラの指揮も執っているが(いわゆる弾き振り)、その全体がまさにベートーベンによって完成された「交響曲」のスケールの大きさを彷彿とさせるものである。一方、内田光子の演奏も確かにシンフォニックではあるが、16分音符の一つ一つを大切に弾くその繊細さからは、時代に流されない古典の響きがある。
 第2楽章は平行調のハ短調である。静かな弦の低音に始まるこの楽章は、悲しみに沈む友を耳元で慰めるささやきのようでもある。ショスタコの第5交響曲の第3楽章などは、この楽章から啓発されたものに違いない。ここでは圧倒的に内田光子の演奏がよい。沈思黙考の中から時に感情の高ぶりを見せるその息遣いは、まことに芸術である。
 さて、第3楽章は両者を比較する上で最も問題となろう。この楽章は、8分の6の軽快な狩りのリズムの両端部と、アンダンテ・カンタービレの叙情的な中間部と、異質な二つの音楽を合わせ持っている。両端部は何といってもバレンボイムである。その天国のような楽しい響きは、聴くものの表情を自ずと緩ませる。内田光子の場合、常に音質が地味だが、この部分のバレンボイムを聴いた後には、その地味さと堅実な演奏が、自己を表現することに恥じらっている乙女を想起させる。バレンボイムのようにあっけらかんとしたものがこの曲想の解釈にはふさわしいように思える。
 一方中間部では、楽譜にない内田光子のオブリガートは霊感的とも言ってよい調和をたもっている。アルペジョやトリルといった細かい動きをこんなに繊細に演奏できる人は彼女をおいて他にいないのではないだろうか。モーツァルト自身もこの部分のような緩徐曲ではしばしば即興演奏をしたそうで、楽譜に比較的忠実なバレンボイムよりも、一見でたらめに弾いているように見える内田光子の方がモーツァルトの心に忠実なのかも知れない。
 否、いずれかにモーツァルトらしさの称号を与えることをやめよう。それは、200年の時を経てモーツァルトの心が20世紀の時代の精神として昇華されたあかしなのかもしれない。
 モーツァルトは果してどちらの演奏を喜ぶだろうか。彼自身、自分の心はこうだと語ることをやめて、時を経たその心の多様な広がりを喜ぶかもしれない。ともかく二つの名演奏を成り立たしめているのが、モーツァルトが創造した音楽であることには違いないのだから。

(『Oracion』Vol.3 No.1 <1992.1> モス・クラブ刊より)


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