モーツァルトを旅する(6)  ピアノ協奏曲第17番ト長調K453

                 ー緻密な転調が導く魂の高み−


 モーツァルトのピアノ協奏曲を旅し始めて半年が経過した。今回は、私がモーツァルトの全作品の中でも、最愛であり、最も好んで聴くピアノ協奏曲第17番についてどうしても語らずにはおれない。
 現在28歳の私は、この作品を作曲した当時のモーツァルトと同年齢であることに、ある意味を見いだしていた。そして、今月をもって私は29歳となる。だからこそ、同い年のモーツァルトに対する共感をここで語らずにはおれないのである。好みの曲というものは聴く者の経験に応じ、年齢を経る毎に少しづつ変化していくものだろう。そして、今私の胸に去来するある激しい感情と、モーツァルトが抱いていたであろう熱情との共感を、私はこの曲を通して感じてきたのである。
 モーツァルトにとって1784年は実に充実した、密度の濃い1年だった。この年、彼は6曲にも及ぶ、しかも名曲ぞろいのピアノ協奏曲群を作曲している。この年から自作の作品目録を作ったり、ピアノと木管楽器のための五重奏曲(KV452)について「生涯最高の作品」と言ったりなど、この時期の自らの作品に対する思い入れというものは相当に強いものが感じられる。確かに、我々モーツァルティアンの目から見ても、この時期の作品は、それ以前の華やかさ一本槍から変わって、内面志向の深い奥行きを感じさせる作品へと移行している。本連載でも取り上げたピアノ協奏曲第14番変ホ長調(KV449)は、作品目録に収録された最初の作品だが、特に第2楽章における崇高な調べは、聴く者の魂を否応なしに高める名曲である。そして、続く第15番変ロ長調(KV450)と第16番ニ長調(KV451)と、そしてこの第17番とが、3月から4月の短い期間に一度に作曲された。モーツァルトはこれら4曲のピアノ協奏曲を故郷の父と姉のもとに送り、14番を除く、大編成オーケストラ向きの3曲のうち、どれが一番気に入るかということを手紙で問うている。果して父と姉がどう答えたかは知る由もないが、いずれにせよ、そのような質問をするということは、作曲者自身が心底気に入っている曲が少なくとも一曲はあったことを意味する。そして、その曲を父と姉が選んでくれることは、彼らが作品をよく理解してくれたことを意味する。それだけに、この質問はモーツァルトにとって尋ねずにはおれないことだったのだろう。ともあれ一連の作品群に対する思い入れはよほど深かったのである。
 さて、その曲とは何であるかについて、モーツァルティアンにアンケート調査でもすれば、間違いなくこの17番が、しかもかなりの高率で選ばれることだろう。音楽雑誌のCDの評論でも、10番代のピアノ協奏曲で真っ先に取り上げられるのはこの曲だし、演奏会のプログラムに登場する回数も10番代では群を抜いているだろう。20番以降であれほどの多くの名曲を作曲していなかったならば、陰に隠れて地味になってしまうこともなかったであろう。モーツァルト自身が自信を持っていた曲とは、まさしくこの曲であったと確信する。
 第1楽章は、舞曲風の跳ねるような第1主題に始まり、細かく緻密な転調を繰り返す。この転調が織りなす妙は天才の技としか言いようがない。音という個々の素材が、様々に組み合わされていくとき、全体は一つのメロディーとなる。それと同様のことを一つ高次で行うのが転調である。メロディーという素材が、様々に転調しながら組み合わされて、全体が一つの超メロディー、またはメロディーの流れとも言うべき、大きな構造物を作り上げている。モーツァルトの美の究極は一つのメロディーの美しさだけの次元にとどめてはならない。音楽全体として見たときに、個々の部分の集積以上の構造の美が厳然と存在する。展開部はまさにその真骨頂で、素材は単なるアルペジョ(分散和音)に過ぎない。それがあのような夢幻の世界を作り上げるのだからすごい。
 第2楽章こそは、二度と作ることのできない絶美の世界である。荘重なテーマに始まり、長調と短調との間をさまよいながら、抑制しようとしても抑制しきれない激しい感情を露にしていく。この楽章はソナタ形式でもロンド形式でも変奏曲でもない。しいて言えば変則ロンド形式だが、やはり幻想曲と呼ぶのが最もふさわしいだろう。短調に転調したところなどは、何かショパンでも聴いているかのような叙情的な雰囲気が漂う。ブレンデル・マリナーの演奏は特に感銘する名演で、私は初めて聴いたとき感激のあまり落涙しそうになったほどである。
 第3楽章は楽しく快活に、またきわめてさわやかに流れていく。モーツァルトが飼っていたムクドリがこの楽章の第1主題を歌うことができたのはよく知られた話しだが、確かに小鳥が歌うには最もふさわしい旋律ではないだろうか。完全なる調和は自然の秩序の一つのかたちであり、自然の中に生きる鳥たちは自ずとそれに共鳴する。私たち人間も社会の喧騒から離れて、鳥のさえずりに耳を傾ける時のように、心を澄ましてモーツァルトの音楽に向かい合うならば、何か自らの生命の中にもともとあったものが響きを始めるのである。
 このような美しい音楽をモーツァルトはどうして作ることができたのであろう。
 私には一つの憶測がある。モーツァルト研究家の誰も認めない根拠のない憶測だが、私の感性で敢えて言いたい。それは、この曲と14番とを捧げたとされる、バルバラ・フォン・プロイヤーという、弟子にあたる女流ピアニストの存在である。モーツァルトは父親にこれら二曲は自分と彼女以外の誰のものでもないから他人の手に渡してはならないと手紙で伝えている。彼には当時既にコンスタンツェという妻がいたが、妻への愛情がさめていたかどうかはわからない。ともあれ、どうしてもモーツァルトはバルバラに対して特別な愛情を持っていたと思いたくなるのである。14番と言い、17番と言い、特に第2楽章の、長調と短調とを超えて高く昇華された音楽は、いかに天才のモーツァルトといえども魂の高揚なくしては書くことのできない音楽である。バルバラという女性がいかなる女性でモーツァルトとどのような関係だったか私は何も調査していない。むしろ、私には歴史的事実よりも私の感性における事実を信じたいと思うのである。
 真実の恋は、人の魂を高みに上らせる。自身の命とつながるあるもう一つの生命は、永遠に離れることのできない故郷である。そして、それは自己の生命と宇宙の生命とが融合する接点である。恋は人間の最も醜い生命から昇華された最も崇高な生命である。人間は決して恋を蔑んではならない。恋を蔑む者は、自らの生命に唾を吐く者である。真実の恋を見いだした者は、自らが宇宙の中の一つの生命の営みを厳然と営んでいることに不思議を感じ、大宇宙に向かって歓喜の声を叫ぶべきなのである。生命に約束された高貴なるものが自身の五体を貫いていることを知って、宇宙に向かって謙虚になるべきなのである。
 17番という名曲がこのような魂の高みにおいて書かれたことを信じるのは、私にとって誠に自然なことである。私の生命が宇宙に還った暁にも、この音楽はきっと永遠に私とともに宇宙に充満しているに違いない。
 28歳のモーツァルトとの出会いは紛れもなく、私自身のまだ見ぬ真実の恋との出会いでもあった。そして今、28歳の私に別れを告げる前に、私に真実の恋の姿を教えてくれた同い年のモーツァルトに、私はただ感謝の花束を送りたいのである。

(『Oracion』Vol.18 <1991.6> モス・クラブ刊より)


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