魂の激励──創大パイオニア吹奏楽団の原点
山岡政紀(YAMAOKA Masaki)
創大の教員として勤務して16年目になる。姉妹校の学園(創中・創高)で学んだわたくしは、ご恩返しのつもりで創大に赴任したのだったが、実際のところ、創大ではご恩返しどころか、学ばせていただくことのほうが多い15年間だったように思う。それはすべてにおいて創立者・池田
大作先生の人間教育の指針がキャンパスの隅々まで行き渡っていて、学生がそれに見事に応えていく、その姿に何度となく触れることができたからである。大学院まで、研究者としての訓練しか受けてこなかった自分が、教育者として成長できたのは、創大でこの人間教育に触れたからこそである。そう思える大きな出会いの一つが、この吹奏楽部・パイオニア吹奏楽団と過ごした日々であった。
創大に赴任して2年目に当たる1991年からは吹奏楽部の顧問を拝命した。ちょうどその前年に前顧問の教授が逝去されて顧問が空席であったところに、中学から大学まで吹奏楽の経験があるわたくしが若手教員として赴任したので、当時の高村学生部長が適任ではないかと吹奏楽部の執行部に紹介してくれたのだ。
以来、吹奏楽部とともに過ごした14年間には宝の思い出がたくさん詰まっている。もちろんいいことばかりではなく、辛かったこともある。しかし、学生と
ともに泣き笑いし、こんなにも大きな財産をいただけた大学教員はそうはいないのではないかと、心から感謝している。
そのなかで、生涯忘れることのできない出来事を一つここに記したいと思う。それは5年前の2000年10月15日のことであった。
この年の9月3日、吹奏楽部は創部以来の悲願であった吹奏楽コンクール東京都大会で金賞を初受賞し、全国大会への初出場を決めていた。学生たちは後期の授業に出席しながら、10月21日に上野の東京文化会館で行われる全国大会に向けて、毎夜、猛練習に取り組んでいた。その直前の15日に、創大の記念講堂では卒業生の同窓の集いが開催されることになり、その実行委員会より吹奏楽部は出演依頼を受けたのだった。
学生たちは全国大会という未知の舞台に立つ6日前に別の曲を演奏しなければならない緊張感はあったものの、日本全国から卒業生が母校に集ってくる大切な行事への依頼を喜んで引き受けた。当日は二部構成の行事となり、第一部は同窓会、第二部として、創立者・池田大作先生に対するインド・ブンデルカンド大学
からの名誉文学博士号・終身名誉教授称号の授与式が予定されていた。
吹奏楽部は客席の上手側前方の一角を陣取った。わたくしはこのとき、役員として楽団の最前列に着席していた。吹奏楽部は第一部の同窓会で一曲、幕間に一曲を演奏した。その際、場内アナウンスは吹奏楽部が初の全国大会出場を勝ち取ったことを紹介。場内から大きな拍手が起きた。
しばらくの待機ののち、第二部の授与式開始と共に創立者並びに来賓一行が入場する。目の前の上手側壇上には先方のブンデルカンド大学の総長はじめ来賓一
行が着席。創立者はじめ大学首脳は下手側に着席した。そして、式典の冒頭、吹奏楽部は記念演奏として、ワーグナーのタンホイザー大行進曲を演奏した。
荘厳な授与式が粛々と進行していく。先方の大学からの授与の辞につづいて、創立者に対する名誉称号の証書、ガウン、記念品が授与される。そして創立者がその場に集った卒業生への歓迎と、先方の大学一行に対する厚い謝辞をスピーチし、式典は感動のなか、終りを告げようとしていた。創立者は下手側から上手側
の来賓の席に歩み寄り、一行の方々の手を取って感謝の言葉を告げている様子だった。
そのときだった。突然、創立者が客席側を振り返り、「吹奏楽団!」と声をかけられたのだ。学生たちは「はい!」と答えたが、驚きのせいかその声はまばらだった。予想外の出来事が始まったのだ。脇役に過ぎなかった吹奏楽部に、その瞬間から創立者がスポットライトを当てられて、彼らと創立者だけの異次元の空間に誘われたかのようであった。創立者の強い声が響き渡った。
「弱い!お客さまの前でみっともない!もっと力強くやりなさい!大学の歌をやってごらん」
まさか声をかけてもらえると思っていなかった吹奏楽部の学生たちの多くは呆然としていた。しかし、紛れもなくそれは叱責の言葉だった。「ああ、池田先生
が私たちを叱られている!」。全員が、うたた寝からたたき起こされ、突然に血の流れが逆流し始めたような瞬間だった。とにかく学生歌を演奏しなければ!数 秒のうちに準備が整い、学生指揮者の学生が力強くタクトを振り、勇ましい「創大学生歌」が始まった。みな、無我夢中で演奏した。まさに眠りから揺り動かされた吹奏楽部の演奏は、火の出るような力強い演奏となった。歌のワンコーラス目の数小節を演奏したところで創立者は「もういい、もういい」と演奏を止め
た。そしてすべてを包み込む温かな笑顔で、「初めから、そうやればよかったんだよ」と学生たちに優しく語りかけたのだった。式次第にもなく、進行役員も想 定外の出来事はまだつづいた。学生指揮者を務めた女子学生に「もっと大きく振るんだよ」と激励されたり、もっと明るいステージ衣装にしてあげたいなと提案
をしてくださったり、その間、インドのお客さまを待たせたままの、たった数分間かもしれないが、わたくしたちにとって、長い、長い時間が過ぎた。
創立者と来賓が退場され、すべてが終わって控え室に戻ってみると、部員の半数以上は泣いていた。創立者の温かい真心に包まれた喜びと大事なお客さまの前で失敗演奏をしたという後悔と、いろいろなものが混じっての涙だったろう。猛練習の末に都大会で勝った誇り、そして心のどこかでその成果をほめてもらえるのではないかという期待、それがすべて逆になったことへのショックもあっただろう。その日の興奮はしばらく収まることがなかった。
今振り返ってもそのタンホイザーが特別下手だったわけでもなかったように思う。ただ、上手に演奏しよう、きれいに聞こえるように演奏しよう、失敗しない演奏をしよう、などと、内向きの小さくなった生命境涯での演奏だったことは確かだった。それは、大事なお客さまを心から歓迎しようとの思いもなければ、会場に集った卒業生が元気になるような演奏をしようと思えるような生命境涯でもなかったのだ。大勢集った講堂内で唯一の現役学生であり、最も若い年代の参加者であった彼らが、その若さ、瑞々しさを発揮することなく、小さな演奏をし、逆に、70歳を超える高齢の創立者が、烈々たる気迫で学生たちの眠っていた魂を揺り動かしたのである。生命力がなかったら、人に勇気と希望を与えることはできない。創大生の眼はどこまでも民衆の方向に向いていなければならない。一部のインテリが満足するような小賢しい器用な演奏ではなく、絶望の淵に沈んでいる貧しく弱い人々に今一度立ち上がる勇気と希望を与えられるような、そういう演奏こそが創立者が示された音楽なのである。コンクールという客観的評価を得られる場所で勝つことはもちろん大事だ。しかし、それが創大のクラブとしての最終目的ではなかったのだ。
式典の冒頭だった吹奏楽部の記念演奏から1時間近くが経過しての出来事だった。その演奏の時点で創立者は学生たちの境涯を見抜き、彼らをあとで激励しようと思われたのであろう。しかし、式典でのスピーチといい、所作といい、大事な客人であるインドの方々への、心のこもった謝辞。場内に集った卒業生への歓迎と激励。自分だったらどれか一つでも精一杯で他のことに神経を向ける余裕もないであろう。にもかかわらず、創立者は、式典では脇役に過ぎなかった学生の演奏にまで心を配られ、全魂の激励をされたのである。その生命境涯の大きさが桁違いであることを改めて実感させられた。
学業においても生命境涯は大切である。いかに才能豊かで、また、多くの知識を蓄えても、それを平和のために、社会のために役立てていこうという広い心とそれを支える強い生命力がなければ、結局は知識におぼれ、名声におぼれ、せっかくの才能をも無駄にしてしまう。大学という高等教育の場で、すべてをプラスに活かしていける生命境涯ということを、創立者は身をもって教えてくださったのである。それは創立者自らによる魂のレッスンであり、真の人間教育の光景で
あった。
わたくしにとって池田大作先生は人生の師匠である。社会でどのように誤解され、中傷されようと、わたくしは生涯をかけて師匠の恩義に報いていくことを決意している。もしわたくしが池田先生の弟子を名乗ることで自分自身も中傷されるようなことがあるなら、喜んで受けていきたいと思っている。そうであるならば、そのことがますますわたくしを奮い立たせてくれるであろう。仏典に「もし師が二度打たれるならばそのうちの一度は弟子が引き受けるべきである」という
主旨の言葉がある。そのためにはわたくし自身もどうしても力をつけなければならない。と同時に、同じ思いの同門の青年を一人でも増やしていかなければなら ないと思っている。
一瞬にして人の心を揺さぶる、力強い勇猛の境涯。多くの事柄の本質、また、大勢の人々のそれぞれの本質を瞬時に見抜き、心に収めていける、広大なる智慧
の境涯。そして青年を慈しみ、その成長を願い、励まし続けていく慈悲の境涯。リーダーとして求められる三つの要素を兼ね備えているのが池田先生である。こ の日、多くの学生たちがそのことを実感したと思う。人生の師匠は他人から言われて決めるものではない。むしろ、誰に何と言おうと、批判されようとけなされ
ようと自分の師匠はこの人だと自ら言い切れるものでなければ、師弟とは言えない。そして、そう言い切れる師匠を持つことほど、人生の尊い財産はないと確信 する。学生たちは今日、その第一歩を経験したのだ。
その次の日の吹奏楽部の練習会場を訪れて、わたくしは驚いた。何と言っても音が力強さに満ちているのである。そしてサウンド全体が不思議な一体感に包まれていた。振り返れば、都大会を終えてからの約40日という長いインターバルのなかで、中だるみの時期もあった。しかし、今この場には、あの創立者によって揺り起こされた魂の響きが紛れもなく充満していた。次の日も、そのまた次の日もそのサウンドがかすむことはなかった。
10月21日、全国大会のその日、彼らは、創立者に教えていただいた通りの生命力に満ちた演奏を、堂々と東京文化会館のホールに響かせた。演奏終了とともに、場内からはどよめきが起きた。誰もが勝利を確信した瞬間だった。そして、創大吹奏楽部は全国大会初出場で金賞を獲得し、まさに日本一の大勝利を獲得
することができたのだった。
それ以来、「創大学生歌」は、吹奏楽部にとって永遠のテーマ曲となった。いかに優雅なクラシックの名曲を演奏する時でも、聴く人のもとに出向いて行って
心が一体になれるようなそういう強い生命力をもって演奏することを、学生たちは「学生歌」を演奏するたびに思い出すのである。それは確実に伝統となった。
その年の12月、創立者は吹奏楽部に、平和・文化の開拓者たれとの思いを込めて、「パイオニア吹奏楽団」と命名してくださった。以来、既に五年が経ち、
あの2000年10月15日のその場にいた学生は全員が卒業してしまった。しかし、その創立者のレッスンと永遠の精神は見事に継承され、むしろ今日、その勢いは年々増してきている。
2000年10月15日はわたくしにとってもう一つ意味があった。この年の3月にわたくしは出身校の筑波大学より言語学の博士号を取得した。そして、その学位論文を自身の最初の単著として出版することとなり、その発行日に指定したのがたまたまこの2000年10月15日だった。不思議な偶然の一致だった。
わたくしは吹奏楽部の学生たちといっしょに自分も創立者の叱咤激励を頂いたのだと今でも思っている。プロの言語学者としての仕事を評価してもらうことができた。こうやって本も出版できた。しかし、それがどうしたというのだ。まだまだ弱い!自己満足の研究じゃないか!人々に勇気と希望を与えられずして、何のための研究か!何のための学問か!そう、叱咤されたのだと今でも思っている。吹奏楽部が全国大会に出場したからと言ってまだ目的は達成されていなかったように、わたくしもまた、博士号を取り、本を出したからと言って人生の目的はまだ達成されていないのだ。そのことをわたくしはあの日、創立者から教えていただいたと思っている。その日は、わたくしにとっても人生の大きな原点の日となったのである。
2005.12.23 ※在外研究中に記した「バークレー日記」より抜粋