日本の大学の生きる道


 98年6月30日、文部省の大学審議会は、21世紀の大学像のあり方についての「中間まとめ」を報告した。それによると、日本では18歳人口が年々減少を続けており、大学合格率(志願者総数に対する大学・短大入学者数の比率)は、10年後の平成20年頃には100%に達すると見られる*1。つまり、志願者は全員大学に入れることになる。当然人気のない大学は定員割れを起こす。かくして、今起きている金融業界のビッグバンに続き、私立大学のビッグバンが起きる、という警告はもはや単なる脅しではない。

 「中間まとめ」では、「入るのは難しく出るのは簡単」と言われてきた日本の大学の更なる大衆化に歯止めをかけるべく、「入るのは易しく出るのは難しい」アメリカ型の大学に変貌させるために、厳格な成績評価法の導入などを提言している。しかし、果たしてそのような小手先の方法で学生たちは勉強するようになるのだろうか。

 この問題の背景には日本の大学の没個性が原因しているのではないだろうか。日本では受験産業が大学のいわゆる偏差値をはじき出して一本の線の上に序列化する。受験生は自分の学力と各大学の偏差値とをはかりにかけて、入り得る最高の大学に入ろうと必死に勉強する。その結果、各大学には同程度の学力を持つ均質的な「偏差値輪切り」の学生が集まることになる。企業も大学の名前を見て「実力」を推し量って採用する。受験生は大学に合格した時にはもう疲れ切っている。そしてもう「学歴」を手にしている。勉強しなくなるのも当然ではないだろうか。

 アメリカでは、一流大学の多くが私立大学であるために、経済的な理由から多くの優秀な学生が地元の州立大学に進学する。企業もそれを知っているから、採用の際に「大学の名前」ではなく、「実力」を測ろうとする*2。学生も実力をつけるべく、一生懸命に勉強する――アメリカの大学事情を肌で体験した数学者・藤原正彦氏はそう分析している(『若き数学者のアメリカ』新潮文庫より*3)。

 状況が異なる日本で、特に偏差値で下位にランクされているような私立大学が生き残るには、大学が個性を打ち出し、可能性豊かな学生たちの心を捉えることである。そのことによって「大学に入ってから学ぶこと」の価値を高め、各企業にもその価値をアピールしていけばよい。

 私の好きな言葉に「桜梅桃李」という言葉がある*4。桜と梅と桃と李とに序列がないように、一人一人の人間の個性に優劣はなく、それぞれに価値があることを意味する。大学もまたかくあるべきである。各大学が個性を発揮することで、序列化に対抗していくことが、大学の生き残る道なのである。
 


*1
 なお、平成10年度入試における「大学合格率」は75.9%である。

*2 アメリカの企業のリクルート方法としては、マイクロソフト社などは出身大学を無視してインターンとして仮採用し、約一年間の研修期間に実力を判定して、本採用を決定するなどの事例がある。

*3 参考文献(藤原正彦著『若き数学者のアメリカ』新潮文庫)については要約して引用した。原文の当該箇所については、以下の通りである。

 アメリカの学生も、成績にこだわるという点に関しては、日本と変わりはない。ただ、日本の学生が大学に入学してからは、それほどでもなくなるのに対し、彼らは、むしろ大学に入ってからの方が成績に一喜一憂する。それには理由がある。日本ではどの大学に入るかが、その学生の将来に大きな影響を及ぼすのに反して、アメリカでは、卒業した大学の名は、さほど問題にされない。確かに、アメリカにも一流大学と呼ばれるハーバード、エール、プリンストン等があるが、日本の一流大学とは一流の意味が少々異なる。日本の一流大学には、最優秀の教授および学生が、全国各地からかき集められていると言えようが、アメリカでは、教授は別としても、最優秀の学生が集められているとは限らない。彼ら学生たちが、或るレベル以上に優秀であることは事実だが、同程度に優秀な学生は、アメリカ中の大学に、小さな地方大学にさえも、いくらでも散らばっている。一流大学の多くが私立であるため、州立大学に比べてはるかに多額の学資を必要とするから、いくら成績抜群な学生でも、親がよほどの金持でもなければ、遠くの一流大学には行けず、地元の州立大学へ行くからである。大学の名前による差があまりないとすると、卒業時点において、他人に差をつけるには、成績を良くする他にない。従って、それに一喜一憂するのである。良い就職先を得るために、良い大学院に進学するために猛烈に頑張る。彼らは、六〇年代の学生と違って、政治運動などの形でエネルギーを外界に向けることをしないし、不景気により、就職、進学も容易ではなくなっているから、なおさら勉強に精を出す。日本の平均的学生よりはるかによく勉強すると言える。

*4 「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見す」(日蓮大聖人御書全集784頁)から取った言葉。この文は、桜、梅、桃、李のそれぞれの花がもともと持っているありのままの姿を改めることなく、桜は桜らしく、梅は梅らしく咲ききっていくことが仏法の生き方である、ということを説いたもの。桜が梅になろうとしたり、梅が桃をうらやんだりするのは、自らがもともともっている尊厳に気づかないことから起きる。このように、人の尊厳もまた、他者との比較ではなく、自分らしさを発現しきるところにあるということを教えている。

1998.7.9


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