斎藤秀雄が生誕して100年を迎えた。チェリスト・指揮者としてよりも、教育者としてその真価を示した斎藤秀雄の生涯は、幕末の吉田松陰を彷彿とさせる。
教育者が名声を得たければ優秀な弟子を育てればよい。しかし、斎藤秀雄はそうではなかった。彼の最も著名な愛弟子である小澤征爾は、対談の中でこう語っている。
「普通の先生は、ピラミッドの一番上が目立つからそこを教えたがる。あの先生は、底辺の生徒を教えたがった。教育者として一番おもしろいのは、できないやつが、少しでもできるようになることだって」(新潮文庫『音楽』より)
優秀でない生徒にこそ、最も真剣に力を入れて教える──それは教育の目的を生徒自身に置いていることの証(あかし)であり、創価教育の精神に通じる。彼の情熱的で献身的な指導のもとからは、大勢の音楽家が育った。小澤ら代表的な弟子は、その裾野の広さを象徴する存在なのだ。
斎藤秀雄門下の弟子たちは、毎年夏に集まって数週間の公演を行う。サイトウ・キネン・オーケストラと名づけられたその楽団は世界最高とも言われる絶妙のアンサンブルを誇る。
彼らのテーマ曲とも言うべきモーツァルトの嬉遊曲(ディヴェルティメント)は、斎藤秀雄が死の間際に、医師の制止を振り切って合宿に参加し、弟子たちに命懸けの指導をした思い出の曲だという。彼らの演奏会では毎年、この嬉遊曲を演奏する。そして、必ずだれかが泣き出すと、小澤征爾は語っている。あの日の師匠がまぶたに浮かんでくるのだという。それは小澤自身の思いでもあろう。
師匠の偉大さは弟子によって証明されるものだ。大勢の愛弟子の活躍を、斎藤秀雄は頼もしく見守っているに違いない。
2002.8.15(『聖教新聞』2002年8月15日付 文化欄コラム「智剣」より)