バークレー日記

山岡政紀(YAMAOKA Masaki)


 

Feb/1/2006  英語の世界(6) 英語を学んで30年

 
 昨年の5月18日に、「英語の世界(1) 生きた英語に触れて」を書いてこの日記に載せた。しかし、実はそのとき、別の文章を書いたのだが、気が変わって載せるのをやめて、全く違う文章を書いて載せたのがそれだった。その冒頭にもこう書いている。「自分が中高時代以来、いかに英語が苦手だった か、そのことが自分の進路をも左右したということを書いてみようかと思ったが、まだまだ完全に苦手意識を払拭しきれていない今の自分が書くより、もう少しレベルアップしてからにしようと思い直して、それはやめることにした」と。

 わたくしが恥をしのんで自らの英語体験を日記に書いているのは、創大生がこれを読んだときに少しでも励みになるものであってほしいと思うからである。し かし、そのとき書いたものは、あまり若い人の励みになると思えなかったのだ。しかし、そろそろ帰国が近づいてきて、もういいかなと思うようになった。こん な文章だ。まずは、そのまま載せることにする。

              
 
 「英語を学んで30年」という、非常に恥ずかしい題名を思いついた。中学1年生、12歳のときに初めて英語を学んで以来、もう30年も経つのだが、それ でこの程度かとつくづく思う。

 中学1年の時は英語は得意科目だった。たしか、中学2年か3年のときに「関係代名詞」を習った時につまずいた。関係代名詞そのものが難しかったのではない。これを習ったときに、中学校の英語の先生が、「関係代名詞は難しいから簡単にはわからない」と何度も言うのである。自分はわかったつもりになっていた が、この教師の言葉で、自分の知らない何かがあるのだろうと暗示にかかった。自分が何がわからないのかがわからない、その暗たんたる気分で英語が嫌になっ た。それ以来、英語の成績が急激に落ちていった。しかし、私の最初の理解で十分だったのだということが、かなりあとになってからわかり、しまった、あの教 師にだまされたと気づいたときにはもう遅かった。だますつもりはなかったのだろうが、私はだまされた。

 高校時代に英語に対する苦手意識が定着して以来、その意識は今だに消えずに、私のなかでこびりついている。当時、私は性格的に好きなことにはとことん打ち込むが、嫌いと思ったことにはほとんど手をつけなくなるという傾向性があり、得意科目と苦手科目の成績の差は拡がる一方だった。得意だったのは国語と倫 理社会と音楽。特に、古文、漢文は試験のたびに毎回ほぼ満点を取っていた。しかし、それ以外の、地理、歴史、数学、理科、体育など、ほとんどの科目は苦手 となり、そのなかに英語も入ってしまっていた。

 こうまで得意不得意がはっきりしていると、大学への進学は自分の得意科目を活かせる専攻を取りたいと思うようになるのも自然なことだった。現在の勤務先 である創価大学文学部には、当時、英文学科と社会学科しかなく、日本語日本文学科はまだなかった。父は私が創価大学に進学することを希望していたし、私自 身も創価大学に入りたい意思はあったが、それ以上に、大学で好きになれない科目に囲まれて、意欲をもって勉学に取り組める自信が当時はなかった。その意味 では、やはり創大に学部がないために他大学に進学せざるを得なかった理系クラスの同期生たちと自分の置かれた立場は似ていたと思う。それで、国語国文学 (日本語日本文学)専攻では関東 でトップクラスと言われていた筑波大学を第一志望にしたが、もし現役で合格できなかったら、自分の得意科目はその程度なのだとあきらめて、創大に入学 して苦手分野に挑戦しようと考えていた。

 それにしても、大学受験勉強は本当に苦しかった。いくら国語国文学専攻を希望していても、入試では国語だけで受験するわけにはいかない。しかも、国公 立大学に共通一次試験があった時代なので、英語、数学、理科、社会も含めた5教科をすべて受験しなければならなかった。今までサボるだけサボってきたつけ は大きく、それら苦手科目に取り組むことは本当に苦痛だった。

 受験勉強時代の英語学習はひたすら文法と単語を丸暗記するシンプルな学習法で、気分的に嫌で嫌でしょうがなかったのだが、本当に試験に合格するためだけ の英語学習に的を絞って、苦痛に耐えながら勉強しぬいた。このような勉強法には語学が身につくことの喜びがまるでない。古典文法のほうは、覚えれば覚える ほど、当 時、趣味としても読んでいた源氏物語や今昔物語などがより読みやすくなるという喜びがあったが、英語の文法や単語を学んでも何の得にもならなかった。

 幸い、筑波大学には辛うじて現役合格できたが、入学してから最初の英語の授業は能力別クラス分けテストだった。それがなんと、すべて放送問題によるリス ニング・テストだった。共通一次でも、二次試験でも、一度も聴解問題などなく、単語と文法を覚えて乗り切ったわたくしのような学生に、すべてリスニングの みのテストを課すなどというのは詐欺にも等しい行為だと思えた。そして、ほとんどの問題がまともに聞き取れず、結果は惨敗。A、B、Cの三つのクラスに分 けられたうち、予想どおり、わたくしはCクラスとなった。そして、毎週毎週この英語のクラスでは、英語のビデオを見せられたが、何度見せられてもほとんど 聞き取れていなかった。かくしてわたくしの英語コンプレックスはエスカレートしていった。

 わたくしが国語国文学専攻に進んだのも、英語コンプレックスが一因。つまり、創大ではなく筑波大に進んだことも英語コンプレックスのせい。そして、大 学・大学院時代を通じて、一度も留学しようと思わなかったことも、英語コンプレックスによるものだったと言えよう。かなりわたくしの進路を左右してきたと 言える。

 そんなわたくしが、大学を卒業して20年後に、アメリカに一年間の在外研究に来ることになろうとは、当時は全く予想だにしなかった。もとはと言えば、大 学院時代のこと。真剣に日本語学を研鑽しようと思えば、結局、さまざまな英語の文献を読まなければならないことを教授陣から教わり、嫌というほど文献を読 んだ。大学院の授業はすべてがゼミ形式。必ず自分がプレゼンテーションをしなければならない順番が回ってくる。あるときは、一週間で英文の専門書一冊を読 んで、その内容をレポートするという重い課題も受けた。それはもう、死に物狂いで何晩も徹夜して読んだものだ。そのなかで本当に刺激を受けたものもいくつ かあった。Leech Principles of Pragmatics などはその一つだ。だが、何と言っても、いちばん影響を受けたのは、J. Searle Expression and Meaning であった。そのことが、今日の在外研究のきっかけとなったのだ。しかし、その当時は辞書を引きながら黙読で読んでいて、ある意味それは源氏物語を読むとき の読み方と変わらず、使える英語とはほど遠かった。

 途中を省略して今振り返ってみると、どんなに英語から逃げようとしても、まじめに学問に勤めていると、結局は英語の能力は必要になるのである。大学院時 代から最近に至るまで、文献の読解能力さえあればよかったものが、実際にこうやって在外研究に来てみると、会話能力も必要、教授の講義も聴講できなければならない、自分の意見を英語で表明することも必要、そういういろいろな必要にも迫られてくる。どんなに苦手でも逃げられないというのが現実なのだ。さて さて、この一年間、どういうことになるのやら。

              

 アメリカに来て11ヶ月めとなった。上の文章を書いてからも10ヶ月が経った。いま、毎週、サール教授のゼミナールに出席している。ものすごい量の文献 を読み、激しい討議が行われるこのゼミナールは実に刺激に満ちている。わたくしは英語を学びに来たわけではなく、言語哲学を学びに来たのだ。不思議なもの で、日常会話もまだどこかぎこちないわたくしの英語力で、このゼミナールの内容に参加できているから不思議だ。とにかく事前に文献を読まされるというところがミソだ。事前に文献を読んでいるので、何が問題かも予めわかっている し、実際にどのような用語が用いられ、どのような議論が提起されるかも、頭のなかで準備ができている。英語というフィルターを通し て、その向こう側にある言語哲学の議論に耳を傾け、その刺激を楽しんでいるのである。英語そのものを細部まで書き取ることはできなくても、議論の骨子はわかる、そういう状態だ。自分が求めていた必要最小限の能力はものにしたと言える。

 この経験は貴重だ。できることなら学生時代にもっと英語を、それも使える英語を勉強しておきたかった。しかし、そんな苦手意識の強い自分でも、必要に迫 られ、そういう環境に飛び込めば、必ず使えるようになるものなのだ。やはり学問のメッカはアメリカである。勇気をもって、そして貪欲に、学問を学ぶこと、 それはどんなに苦手でも必ず開けるということ、そのことを、わたくしは自分の経験を通して創大生に伝えていきたいと思っている。


 

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