バークレー日記

山岡政紀(YAMAOKA Masaki)



May/5/2005  サール先生の講義を振り返って


 ジョン・R・サールと言えば、現代思想家として既に人口に膾炙している人物名であるだけに、敬称をつけない方が一般的だが、この文章を書いているうちに、やはりお世話になっている方をサールと呼び捨てにするのは失礼のような気がしてきて、ここでは「サール先生」と呼ぶことにした。もちろん、彼は日本人ではないから実際にそのように呼ぶ機会はない。英語では、「サール教授」と呼んでいるが、日本語で「サール教授」と言っても敬称の程度としては物足りなく感じる。なにしろ、自分のような者でも教授なのだから。

 彼はしばしば自著の表紙に自分の顔写真を載せるので、顔はよく知っていたし、メールでは何度もやり取りしていたが、実際に会うのは、4月12日が初めてだった。少々緊張したが、研究室のドアをノックして名乗ると、彼は「よくきた、ようこそ!」と、温かく迎え入れてくれた。メールの文面からは、世界的権威を確立している人とは思えないぐらい親切な方だとわかっていたが、会ってみてその感をいっそう強くした。私が持参したささやかな御礼の品のループタイを、その場で開けて、つけて見せてくれた。とても似合っていると思った。また、講義の聴講を願い出たところ、曜日、時間帯、教室も詳しく教えてくれて、わざわざ学内地図に印をつけて持たせてくれた。ともかく、まだ会ったこともない私のために、客員研究員の推薦状を書いてくれたことに対して、私は丁重な御礼を述べた。サール先生はそのぐらいのことは何でもないというふうに応じてくれた。

 サール先生が担当している授業は、「The Philosophy of Language(言語哲学)」という名の講義が週2回と、「Intentionality(志向性)」をテーマとするゼミナールが週1回だ。ゼミナールは2コマ分行うから、彼の授業コマ数は4コマ分ということになる。今セメスターも終盤にさしかかっている4月半ばからいきなりゼミナールに参加するのは無理があると思ったので、講義だけ聴講させてもらうことにした。

 さて、若い学生たちに混じって講義を聴講するということ自体も久しぶりだったが、まずは講義に出席している学生たちに驚いた。講義は出席をいっさい取らないのだが、約200人程度入る大講義室は毎回ほぼ満員だった。ただ単にサール先生が有名な教授だからというのではなく、彼の講義が知的刺激に満ちていて、学び甲斐があるからであろう。講義中教室を見渡してみても居眠りをしている学生は一人もいない。みな、サール先生にじっと視線を向けている。講義そのものの密度の濃さと、思索をもって講義に臨み、どのタイミングでも声を発して質問を投げかける学生たちの積極的態度とが相まって、一つの作品のような講義が成立していたと言ってよい。

 講義は1コマ90分だが、サール先生の「言語哲学」は実際のところ、毎回75分程度であった。しかし、その75分がとにかく密度が濃かった。先生は手許にメモのような原稿を持っているが、時折、それをチラッと見る程度で、ほとんど頭の中にあることを、立て板に水の勢いで放出しつづけるのである。しかし、そのような勢いの最中にも学生は挙手あるいは声を出して質問を開始する。サール先生は、話を遮られたというような不快そうな顔はいっさいせずに、質問を促す。それに対する回答もまた、そういう質問が出ることを予見していたかのように、立て板に水で答えていく。サール先生が理解したかと訊き、質問者が"Yes"と答えると、再びもとの話の流れに戻って話しつづける。その繰り返しである。常に左手にはミネラル・ウォーターのペットボトルを持っていて、学生の質問を聴くタイミングで、話しつづけた喉を潤していた。資料の配付等はいっさい行わないが、要点は板書してくれた。全講義を録音させてもらったので、帰宅してから聴き返したりもした。板書もすべてノートに取ってある。これらは貴重な資料である。

 講義の進め方としては、毎回一つのテーマを掲げて、そのテーマについての要点を約75分で完全に話しきってしまう。少し残ったのでつづきは次回、などということは絶対にしない。学生の側からすれば、仮に事情で一日欠席しても、一回一回の内容が完結しているので、次回からまた出席すれば、落ちこぼれる心配は全くない。私が受講した計6回の講義のうち、テーマが決まっていた5回は、以下のとおりである。

  4月14日(木) Metaphor(比喩)
  4月19日(火) Pictures as acts(行為として見た絵)
  4月26日(火) What is the performative?(遂行的とはいかなることか)
  4月28日(木) Language Aquisition Device(言語獲得装置)
  5月3日(火)  What is Language?(言語とは何か)

 特に、私が啓発されたのは、19日の「行為として見た絵」についてである。「言語哲学」という講義なのに、この日のサール先生は言語の話をほとんどせず、絵の話ばかりしていた。言語学と言語哲学との違いを一言で言うならば、言語学は言語の内部構造を見ているが、言語哲学は言語を用いる人間の振る舞いを言語の外から見ているという点である。言語学の方法論を言語以外のものに向けても意味をなさないが、言語哲学の視点は、角度を変えて別のものを見つめることもできる普遍性を持っている。この回の講義はそのことを学生に理解させるのに十分なもので、実に知的刺激に満ちた講義であった。

 ともあれ、各回の講義内容はきちんと整理しておこうと思う。しかし、もったいないので人に見せるのはやめておこう。創価大学に戻ったときに、創大生にだけは提供していきたいと考えている。それも、ただ聴いたことを受け売りするのではなく、自分自身の中で思索を深めておきたいと思う。

 そして、今日5月5日は今セメスターの最終回ということで、質問の時間となった。質問が途切れたらその時点で終了することになっていたが、90分間、質問は途切れなかった。どの質問にもサール先生は淀みなく答えきった。いつもより長く、本当に90分を過ぎようという時間に、先生は「諸君、聴講ありがとう。期末試験の健闘を祈る」と宣して終了を告げた。期せずして、教室内の学生たちから拍手が起こり、しばし鳴りやまなかった。

 明日、私は出張で南カリフォルニアにある、勤務先の姉妹校、アメリカ創価大学に向けて出発することになっている。出発の前日にこの名講義の最終回に接しられたことは、いい区切りとなった。この感慨をよく覚えておこうと思う。しばらくの長いバケーションを経て、8月下旬には新年度のセメスターが開始となる。それまで自身の研鑽をしっかり積んでおこうと思っている。




創価大学ホームページへ
日文ホームページへ
山岡ホームページ表紙へ