山岡政紀 書評集


名著読後記『三十光年の星たち』(上・下) 宮本輝著/毎日新聞社刊/201131日 発行/定価各1500円/ISBN(上) 978-4-620-10767-7 C0093(下) 978-4-620-10768-4 C0093


 宮本輝氏が1978年芥川賞受賞から三十年を機に構想・執筆した記念碑的な意欲作『三十光年の星たち』は、2010年元日から大晦日までの毎日新聞連載を経て、2011年に単行本化された。そのテーマを一言で言うなら「師弟の物語」。人が人を育てるとはどういうことか、人の意思が世代を超えて継承されていくとはどういうことか、を教えてくれる作品である。

 主人公は大阪の二流私大を出たあと、何をやってもうまく行かずに転職を繰り返していた30歳の青年・坪木仁志。彼は京都・下京区の平屋に恋人・美奈代と共に住んでいたが、美奈代が手造り革製品の工房を始めると言うのでそれを助けるために同じ平屋に住む老人・佐伯平蔵から80万円の金を借りた。しかし、製品が全く売れない美奈代はある夜、仁志に何の相談もなく工房を閉めて行方をくらましてしまった。途方に暮れた仁志は、自分の車を売って出来る30万円だけでも先に返済をと佐伯に申し出るが、佐伯はその車は売らずに使わせてほしい、そして、自分が会いたい幾人かの人たちに会いに行く旅の運転手として一緒に現地に行ってもらえないかと申し出る。日当分を借金から差し引くというその提案に仁志が応じ、その最初の旅へ出発する場面から物語は始まっている。

 佐伯は75歳独身でかなりの資産を持ち、20人を超える女性たちに個人で融資をしていたが、認可を得た金融業者ではなかった。借り手に金利を求めることはなく、返済の際に自分が思うだけの「礼金」をくれればそれでいいという異例の金貸しであった。そして今彼は思うところあって、自分が貸した金を完済していない女性たちを訪ねる旅に出かけようとしていたのだった。旅の車中、仁志は自分の身なりや振る舞いに一つ一つ厳しく注文をつける佐伯に反発を感じていたが、社会経験の豊富さを物語る教養の広さや多くの人の信頼を得てきたと感じさせる品格に触れ、その不思議な魅力と大きさに次第に気づいていく。最初の訪問先は福知山から京都北端・久美浜に居を移していた55歳の女性・北里千満子であった。32年前、彼女の夫は妻に知らせずに200万円を佐伯から借り、その直後に自殺した。夫の死後、幼子二人を抱えた千満子は借金の存在を知らされ愕然とするが、たとえ三千円ずつでも必ず毎月送金すると佐伯に約束する。そして、32年間、その約束通り毎月少額を返済し続け、残金は109千円となっていた。久美浜に到着し、京都の料亭の工場で健気に働く千満子の姿を見つけた佐伯は、借用書を千満子に返してくるよう仁志に命じる。それは、約束を守り通してきた千満子の借金を終了させる旅だったのだ。

 その後、次第に佐伯の過去や素性が明らかになっていく。佐伯にはかつて30代の頃、妻子がいたが、ある会社の社長を乗せた車が事故の弾みで佐伯の自宅前に突っ込み、そのことが元で起きた火災に妻と子が巻き込まれ、二人は非業の死を遂げていたのだ。当時の佐伯は最愛の妻子を突然失ったショックで生きる希望を失い、死地を求めてさまようが、次第に様々な人との出会いをきっかけに立ち直っていく。そして、事故を起こした社長が全面的に非を認めて支払った高額補償を元手に、少しの資金さえあれば必ず商売に成功できる勇敢さと勤勉さ、可能性を持った女性に対して、チャンスと勇気を与える、言わば人生の激励のような金貸しを、親友の三浦紀明と共に始めていくのである。最初に融資の対象となったのは、二人の幼い子を育てながら小料理屋の下働きを勤勉に続けていた赤尾月子だった。彼女は、板長の料理を見て覚えたレシピを七冊ものノートに書きつけていた。彼女の料理の才能と几帳面さ、そして金銭に対する潔癖さを見込み、融資を申し出ると共に独立して料理店を開くことを奨める。そうして開店したスパゲティ料理店「ツッキッコ」はソースの独特の味が評判を呼び、見事に繁盛する。

 そのようにして佐伯が金を貸した女性たちの多くは完済して心からの礼金を払っていたが、最初から返す気がないと思われた女性が3人いた。四日市の南田まり子、松江の平尾哲子、そして京都伏見の有村富恵であった。佐伯はこの3人の女から金を取り返す仕事を仁志に託す。彼女たちを訪ねる車の旅は、沿道の風景と共に一つ一つがドラマになっており、その展開にもわくわく、やきもきさせられる。まり子と哲子はいずれも仁志に対して当初は返済の意思を見せなかったが、やがて彼の誠実さに胸打たれ、返済への勇気・決意へと心を動かされていく。そのシーンだけを取り出せば、庶民版「走れメロス」とも言えるだろう。凍り付いた心の不信を溶かし、信ずることへの勇気へと昇華させ得るのは、人間の本当の誠実さしかない。「正直者が馬鹿を見る」世の中であっても正直な心は尊く美しい。そしてそれを単にきれいごとで終わらせず、それこそが人間の真実であることを訴えかけようとする力強さがこの作品にはある。最後の富恵だけは兄を名乗る男に言いくるめられて追い返され、すべてが理想通りに行かないが、その現実の厳しさがあるからこそ、誠実さへの勇気ということの価値が高まるのではないか。

 そしてその3人だけでなく、この信頼と誠実だけを拠り所とする金貸し業を、佐伯はすべて仁志に継承させることを心に決め、仁志に伝える。驚いた仁志は何度も断ろうとするが、やがて佐伯への信頼だけを頼りに、この人に自分の人生を預けようと決意し、引き受ける。佐伯はその金貸し業に亡き息子の名を取って「ヒロキ基金」と名付けていた。それはずっと温めてきた息子への思いを仁志に託す行為でもあった。しかし、それは単に息子の代わりではなく、それ以上のものだった。他人でありながら結ばれる師弟の絆というものは、師の峻厳な鍛えとそれを受けきる弟子の成長とを経て結ばれるがゆえに、長遠な時を超えゆくほどの強固なものとなる。かくして師弟というものは実の親子以上に強く尊いものなのだということを、この作品は教えてくれる。

 さらに佐伯と仁志の師弟以外にも、いくつかの師弟が作品中に描かれている。一つは、北里千満子の息子であり、仁志の同居人ともなる北里虎雄の、勤め先の陶器商「新田」の主人とのエピソードである。虎雄は自身の慢心から起こした出来事を機に主人から三年間も口を利いてもらえないという無言の叱責を受けたことを明かす。しかしそれをすべて受け止め、葛藤を乗り越えて成長した虎雄は今、心からの尊敬をもって主人を「先生」と呼んでいる。もう一つは、佐伯の少年時代の柔道の師・矢田先生との出会いである。自身の生き方を高めてくれる師という存在のありがたさ。そして、その矢田先生もまた先師・宮尾先生から教わった「型」を四十六年間、一日も欠かさずに続けてきたという。宮尾−矢田−佐伯と伝わる三代の姿が示すものは、本物の師弟というのは生死を超えて一つの生命として継承されていくものであるという師弟不二の原理であろう。そこに必要なのは時を超える「不変」の信念であり、その一つの目安が三十年なのだ。

 仁志は「ヒロキ基金」を継承しただけでなく、病気で引退した赤尾月子に変わり、「ツッキッコ」を再興して経営していくことにもなった。それまで転職続きだった仁志が、この道を貫く自身の姿を三十年後の佐伯に必ず見せることを心に誓う。佐伯がその時この世にいるかいないかはもはや問題ではないのだ。このように佐伯との出会いは仁志の人生を大きく転換させたが、かといって別人にすり替わったわけでもない。最初に仁志が車を売って金を返すことを佐伯に申し出た時に、佐伯は仁志の清廉潔白さ、純粋さを既に見抜いていた。それは特別なことでも何でもない普通の青年が持っている平凡な一つの種子に過ぎなかったかもしれない。しかし、それが佐伯という縁に触れて芽を出し、鍛えられながらまっすぐに伸び、大きく花を咲かせようとしている。佐伯にしても最大の苦難の時に柔道の師・矢田先生から受けた教えが支えとなってそこから希望を見いだし、その後の佐伯の人生を決定づけている。平凡な人を平凡なまま偉大な人生に転換する――それほどに師弟というのは人を大きく育てるものなのだ。

 三十光年とは本来、秒速30万qで進む光が30年かけて到達する距離のことを指す。だが、このタイトルの意味する真意は単に字義通りのものではなく、「不変」ということにあるのではないだろうか。作品中の「新田」の先生の言葉に次のような一文がある。「そういう言語を絶する途轍もない大宇宙のなかに、自分という、地球の人間の姿をした同じ宇宙があると考えれば、一年後も一光年先もたいした違いはない」と。「不変」という原理をひとたび確立すれば、まっすぐに走る光が不変であるように、一年後も百万年後も変わることはない。そして、自身の生き方を、生死を超えた不変の道へと導く縁(よすが)となるのが師弟なのである。本物の師弟が心にあれば誰に何を言われても言われなくても、誰が見ていても見ていなくても、毎日毎日同じ道を淡々と歩み続けるであろう。そして傍目には見えなかったその道程がある種の凄みを持って形に表れてくるのが三十年という時間なのである。しかし、それもまた永遠から見れば一つの指標に過ぎないのだろう。輝く星たちはもっと不変で、もっと永遠なのだ。

あとがきには「三十年前、ある人は私の作家としてのこれからの決意を聞くなり、お前の決意をどう信じろというのか、三十年後の姿を見せろ、と言ってくれたのだ。その言葉は、以来、かたときも私の心から消えたことはなかった。」とある。この言葉から読み取れるのは、この作品は宮本輝氏自身が「ある人」を師として一つの道を生き抜いてきた、その三十年間の総決算であり、心の自叙伝なのではないだろうか。

2015.8.12


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