山岡政紀 書評集


読後記『戦後70年目のシベリア抑留中死亡者慰霊巡拝〜かすかな記憶から確かな記録を残す〜』 平成27年度旧ソ連抑留中死亡者慰霊巡拝者一同著/2016422日発行/(非売品)

 

201891日、夏季大学講座の講演を終えた私のもとに、一人の老齢の、それでいてかくしゃくとした男性が歩み寄り、「これを読んでください」と一冊の冊子を私に手渡した。その方、斎藤さんは70代後半ながら背筋はピンと伸びて小柄な体躯にも威厳があふれていた。

帰宅後、その冊子を手にとってページをめくってみると、色鮮やかなカラー写真、挿絵とともに読みやすい大きな活字の美しい文集だった。しかしそこに記されていたのは、心ならずも極寒の異国で命を落とした、愛する父、叔父たちへの優しく温かく、そして切なくて悲しい慰霊の言葉たちであった。

1945年(昭和20年)815日、日本は終戦を迎えた。そのとき満州国に駐留していた日本兵の運命は二手に分かれ、日本へ帰国の途に就く聯隊もあったが、多くの聯隊は終戦の直前に北から満州に侵攻したソ連軍の捕虜となって、北海道よりも樺太よりももっともっと寒い、冬場には零下30度を下回る極寒のシベリアの地へと連行されて行ったのだ。その数、70万人という。彼らは森林伐採、鉄道建設、炭鉱掘削などの重労働を強制され、粗悪な食糧がわずかに与えられるのみで、飢えと寒さと伝染病により多くの青年兵士がその地で命を落とした。青年兵士たちの帰還を、首を長くして待つ妻や幼子たちの元に届いたのは、一片の紙切れに記された兵士死亡の知らせだった。そこには「病名、栄養失調症。死亡地にて埋没。遺留品なし」のわずかな文字しかなかった。こんな紙切れでどうやって故人との別れを受け入れればよいのか。想像もつかない北の最果ての地に埋没した故人の精霊をどうやって弔えばよいのか。残された人々の嘆きと苦悩は、当時幼子だった人たちの心にも深く刻まれ、70年以上もの長い間、遺骨もなく墓参もできずにその思いを抱え続けて生きてきたのだ。

2015年(平成27年)8月、厚生労働省社会・援護局の主催により、「平成27年度旧ソ連抑留中死亡者慰霊巡拝」が実施されることになり、彼の地で抑留中に命を落とした兵士の遺族が慰霊・墓参の案内を受けた。そしてそこに集った遺族はいずれも70代、80代の方々10名。うち実父を亡くされた方6名、叔父を亡くされた方4名。優しかった父、自分を抱きしめてくれた叔父の魂が眠る彼の地への鎮魂の旅がようやく実現したのだった。成田空港からハバロフスクまで飛行機でわずか2時間10分のところに来るのに、なぜ70年もの時間を要したのかと、冊子の巻頭言には記されている。

斎藤さんの両親は昭和15年頃に理想国家と信じた満州に渡る。父は満州鉄道の下請け会社で働き、安定した生活の中で昭和17年に斎藤さんが、昭和19年に弟が生まれ、穏やかな生活を送っていたという。しかし、戦況の悪化と共に父は現地招集され、終戦直後にソ連軍の捕虜となってシベリアの奥地に送られたのち、消息不明となった。母は生き抜くために幼子二人を連れて日本へ帰国。実家や親戚を転々とするも、どの家庭も逼迫していて歓迎されず、和裁と洋裁の技術を活かして一人で子供たちを育てる道を選ぶ。子どもたちのために来る日も来る日も働き通した母だったが、盲腸の手術の失敗で腹膜炎から腎炎を併発し、重症患者に。小学5年生だった斎藤さんは毎朝病院で母の看病をしてそこから登校する毎日を送った。そして、病床の枕元で母は戦争の悲惨さ、国家権力が個人の幸福を奪う矛盾を夜な夜な我が子に語った。夫はまだシベリアで生きていると信じ、日本政府がソ連と交渉して一日も早い抑留者の帰還を実現してほしいと訴えたという。そして、叔母に「二人の子の養育を頼みます」と言い残して昭和29年に病没。享年39歳。幼少期に父と生き別れ、そしてたった一人の大事な、大事な母とも11歳にして永遠に別れた斎藤さんの悲しみ、悔しさ、寂しさはいかばかりであったろうか。

その後は幸い叔母夫妻に温かく育てられるが、中学3年のときに知人の伝手で父の消息が知らされる。昭和20年、終戦のその年にシベリアの奥地で森林伐採の重労働を強いられていた最中、大木の下敷きとなって亡くなったのだという。その父が眠るシベリアの地をこのたび70年ぶりに訪問し、極寒の異国で無念の死を遂げた父の精霊に愛情深く語りかけ、祈りを捧げた。今回参加した遺族10名のそれぞれが、万感の思いを込めて、父、叔父の御霊を慰める祈りを捧げ、「お父さん、一緒に帰りましょう」と呼びかけた。

印象的なのは現地のロシア人との交流だ。斎藤さんの父が眠るイズベストコーバヤでは女性町長の歓迎を受けた。町長は美味しい食事やお菓子でもてなしてくれ、さらに、日本をイメージしたという「海の彼方の朝日の絵」を記念に贈ってくれた。優しそうな女性町長と10名の遺族の方々は笑顔で記念写真に納まっている。また、移動途中でちょうど結婚式を挙げようとしていた美男美女のカップルとその友人たちの集団と出会う。偶然の出会いではあったが、10人の遺族の方々は祝福の言葉をかけて献杯。70年前に父、叔父たちを苦しめ、命を奪った者たちの子孫というわだかまりは全くなく、むしろ未来志向の平和のために友好交流できたことへの誠実な喜びが記されていた。

文集をよく読んでいくと歴史への正確な理解が寛容の心を支えていることがわかる。巡拝のガイドを務めた男性との対話のなかで斎藤さんは、個人の自由を否定して全体主義の圧政を行ったスターリンと、全人類的価値のために自身の権力をも捨ててペレストロイカを断行したゴルバチョフとの対比を熱く語っている。一人の庶民でありながらこの透徹した知性はどこで学ばれたものであろうか。人間主義、平和主義の精神を共有できる人々とならどの国の人であれ、どんな歴史を背負っていようとも、友情を結べることを斎藤さんは知っているのである。

巡拝の旅で出会い、八日間を共にした10名の遺族の方々には不思議な絆が結ばれていた。悲しい旅のはずだったが、互いの父、叔父のために共に祈りを送り合い、時には風景や食事を楽しみながら、積年の胸のつかえがすっかり取れて素晴らしい思い出の旅となった感慨が随所に記されていた。この感動を忘れまいと斎藤さんが提案し、帰国後も写真と文章を持ち寄って完成したのがこの文集だった。そしてこの文集を自分たちの思い出のためだけでなく、平和の尊さを子や孫、青年たちに伝えたかったのである。この冊子を手にし、その尊い思いに触発された者の務めとして、私はこの読後記を記した次第である。

※満州国=現在の中国遼寧省・吉林省・黒竜江省に当たる東北地方にかつて日本が建国した傀儡国家

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2018.10.1


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