山岡政紀 書評集


読後記『ペスト』 アルベール・カミュ著/宮崎嶺雄訳/新潮文庫/2017310日 発行/原著は La Peste, Albert Camus, 1947, Gallimard


感染症ペストの恐怖と都市封鎖の苦悩

20205月、COVID-19による緊急事態宣言下、自宅にこもって読んだ小説『ペスト』に私は熱中した。第二次世界大戦終戦直後の1947年。無辜の市民が巻き込まれる不条理、そして大量死の生々しい記憶のなか、この作品は発表されている。舞台はフランス領アルジェリアの地中海に面する港町オラン。現在のイスラム圏となっている独立アルジェリアの都市としてではなく、カトリックが精神基盤にある欧州フランスの一都市として描かれている。登場人物の多くは名前や風貌からフランス人と見られるが、一部にスペイン系らしき人物も登場している。アラブ系の人物の影は薄い。

作品中の港町オランはその年の4月にペストの大流行が惹起した設定となっている。致死率の高い感染症のペストは、リンパ節の腫瘍が肥大化するとともに高熱に苦しみ、皮下出血のために全身のあちこちが黒くなって最期を迎えるため、黒死病とも呼ばれて恐れられた。毎日膨大な犠牲者が死屍累々と積み重なっていく。ペストは人類史上、何度も大流行して大量死を引き起こしていたから、その恐怖は多くの人の知るところであった。

この感染症の病原菌を封じ込めるために、オラン市は翌年1月までの約10か月間、完全なる都市封鎖を行う。都市封鎖は病原菌を他地域に及ぼさないための措置であるから、逆に言えばその内側にいる人は、もはや見捨てられた存在であった。市境を越える道路も鉄道もすべて遮断され、港の船の発着は一切途絶える。人々は、家族、友人、恋人との別離を余儀なくされる。あたかもオラン市という名の牢獄に監禁された流刑者のごとく。逃げ出すことはいっさい許されず、脱出を試みた者は市境の警備員に捉えられて犯罪者扱いとなった。たまたま仕事や旅行でこの街を訪れていた者は、愛する家族のもとへ帰してくれと泣いて懇願するが、例外は一切認められなかった。流通が途絶えることにより、商業も壊滅状態に陥る。死者は増加の一途であったから、この都市封鎖がいつまで続くのか、いつになったら解放されるのか、誰にもわからなかった。人々は感染の恐怖に脅えながら絶望の日々を送るしかなかったのだ。

生の聖者リウーと死の聖者タルー

物語は、このオランの都市封鎖のなかにいてペストに立ち向かっていった男たちによって展開される。主人公は、ペスト患者の治療に当たり続ける勇敢な医師ベルナール・リウー。彼がこの作品の語り手でもあったことは終盤に明かされる。そして、リウーに問いを投げかけ、その思想を引き出す存在として重要な役割を果たす裏の主人公がジャン・タルー。素性は明かされないが、この地の者ではないらしく、市内のホテルで暮らしている。タルーの手帳に記された状況描写は、リウーの語りとは異なる冷徹で理知的な第二の語りとして位置づけられる。

この二人の主人公の位置から等距離で離れた位置にいて、前半は反感をもって、後半は共感をもって描かれる第三の人物が、博学なイエズス会士のパヌルー神父であった。都市封鎖後の教会での集団祈祷において、パヌルー神父は動揺する市民たちに説教を行う。感染症の不幸は人間の原罪によるものであり、悔い改めて皆が信仰に勤しむことを神は待っているのだ、と。このパヌルーの説教がリウーとタルーとの対話において重要なトピックとなる。

その後、タルーはリウーのもとを訪れ、二人の対話が展開される。県の保健課はペスト患者の治療に懸命に当たるリウーら医師たちのもとで隔離や消毒などの作業を補佐する保健隊を義務的に招集しようとしていた。タルーはリウーに、義務的招集ではなく志願者を募るべきだと主張し、自分自身の志願の意思を伝える。これに対してリウーは歓迎の意を示すが、念のため質問する。この作品が思想の深まりを見せるのはここからだ。タルーは質問に答えずに質問で返すので、結果的にリウー自身の思想が引き出されていく。

リウー「しかし、この仕事は命にかかわるかもしれませんからね。(中略)あなたはよく考えてごらんになりましたか?」
タルー「パヌルーの説教についてどうお考えです、あなたは?」

リウーはタルーの問い返しに対し、パヌルーが説く集団的懲罰の思想は机上の抽象的理論だとして不同意を表明する。そして、ペスト患者の悲惨と苦痛を見たら、医師として救いたいと思うのは当然のことだと述べる。リウーはもう一度質問するが、タルーはまたもや質問に質問で返す。この問答の主要な部分をざっくりつなぐと、こうだ。

リウー「ところで、さっきの返事をまだうかがっていませんが。あなたはよく考えてごらんになりましたか?」
タルー「神を信じていますか、あなたは?」
リウー「信じていません」
タルー「なぜ、あなた自身は、そんなに献身的にやるんですか、神を信じていないといわれるのに?」

リウーはこれに対して、神がどうあれ、あるがままの被造世界と戦うことが真理への路上にあるとする信念を語る。リウーは人々の病の苦しみや死の恐怖に対して敏感で、彼らの苦痛を少しでも和らげ、寿命を長らえるように全力で立ち向かおうとする常識的で誠実な医師であった。一人の女性の「いや、いや、死ぬのはいや!」と叫ぶ声を絶対に忘れない。生きようとする人の意志を、生かそうとする意志へと昇華して彼は戦っている。リウーは生きようとする人の生への意志を象徴する存在だ。

いっぽうのタルーは、人は誰でもいつか必ず死を迎えることを達観している。極論すれば人間の致死率は100%であって、全員がいつかは死ぬ死刑宣告を受けている。ペストは日頃目を背けているその事実に目を向けさせてくれているだけなのだ。このペストを戦争と置き換えてもいいだろう。死から逃げて結局捕まって死ぬぐらいなら、自ら死に立ち向かって戦って死にたい。保健隊への義務的招集という名の死刑宣告を受けるよりも、自ら志願して参加して敢えて死に立ち向かう意志を選択する。タルーは死と対峙する意志を象徴する存在だ。

リウーは生の尊さを守るために戦い、タルーは死に直面する勇気をもって生き抜くために戦う。両者は立ち位置が異なっていたが、結果的に力を合わせてペストと戦う同志となり、親友となった。本来、表裏一体のものである生と死は我々人間には隔絶したものに見えている。カミュはそれを生のリウー、死のタルーと、二人の人物に分離して描いてみせたのではないだろうか。両者の立ち位置の違いゆえに二人の対話には最後まで葛藤がつきまとう。しかし、それは我々人間が本然的に持っている葛藤そのものなのだ。両者が一定の距離を保ちながらも最終的に一致していくのは一人の人間が生死の葛藤を乗り越えて生き抜いていく姿を象徴しているのかもしれない。

二人とも神を信じていないことを表明するが、別の何かを信じることが彼らの行動の原動力となった。タルーの言葉を借りて言えば「人は神によらずして聖者になりうる」のだ。リウーが信じたもの、それは生きようとする生命のエネルギーそのものの尊厳とは言えまいか。生命の尊厳を行動規範の根幹に据える生き方は、ヒューマニズムの領域に入っていた。ただしそれは、すべての人間が宿命づけられている生死への洞察を欠いた不完全なヒューマニズムだった。一方のタルーが信じたもの、それは生が死を内包することによって帯びる生命の本質的な聖性ではなかったか。つまり、タルーはリウーのヒューマニズムに欠けていた宗教的な聖性を補完する役割を果たしたのだ。そして、リウーは最後まで生の側にいて、一度もペストに感染することなく、力強く貢献を続ける生の聖者となり、タルーはペストが終息して平穏が訪れたあとにとうとう感染し、自らの病と戦いながら最後は殉じていく死の聖者となった。この作品では既存の教会の宗派的な世界観を否定的に描いているが、それでいて二人の主役が宗派性を超えた普遍的な宗教性を帯びていることを見逃してはならないと思う。

少年の死とパヌルー神父の変化

リウーとタルーの二人には他の人物の生き方に影響を与え、人間を変容させていく力があった。そのことが、彼らが(神を信じなくとも)聖者であったことの証ではなかっただろうか。二人から特に大きな影響を受けたのは若い新聞記者ランベールとパヌルー神父であった(注)。ランベールはパリにいる妻のもとに帰るべく、何度も都市封鎖からの脱出を試みるが、失敗を重ねていくうちに患者のために献身するリウーやタルーらの姿に打たれ、最終的には自らの意思で保健隊の一員として残る道を選択する。そして、10か月を経た終息後にパリからやってきた妻と抱き合って再会を喜ぶ。

もう一人のパヌルーも神父の権威的な地位に留まることを良しとせず、保健隊を志願して貢献する道を選ぶ。そして、オトン判事の息子フィリップ少年のペスト感染死に遭遇する。10歳程度と思われる少年の最期の苦しみの描写は実に残酷で痛々しい。リンパ腺腫、麻痺、痙攣、断末魔の苦しみ、うめき声、焼けつくような熱、狂おしいほどの頭の動き、大粒の涙、長い悲鳴の絶叫。そして、パヌルーがベッドの脇にひざまずき、「神よ、この子を救いたまえ」と祈るなか、少年は息絶える。リウー、タルー、ランベールらもその瞬間を看取った。リウーはパヌルーに告げる。「まったく、あの子だけは、少なくとも罪のない者でした。あなたもそれはご存じのはずです!」と。

その後に開かれた男子のためのミサではパヌルーの説教が再び行われる。彼は「ペストのもたらした光景を解釈してはならぬ、ただそこから学びうるものを学びとろうと努めるべきである」と説く。これは明らかにあの集団祈祷の際の説教から変化していた。無辜の少年の苦しみを罪のゆえだと断じることの理不尽さを認めているのだ。そして、このように言う。「すべてを信じるか、さもなければすべてを否定するかであります。そして、私どものなかで、いったい誰が、すべてを否定することを、あえてなしうるでしょう?」と。

どんなに不条理な現実を目の前にしても彼自身の神への信仰は揺らいではいなかった。ただ、このペストの状況下で無条件に信じ抜くことの激烈さに向き合い、権威の高みから述べることをやめ、自身の信仰の貫徹をもって示そうとしたのである。18世紀にマルセイユで起きた猛ペストの際に救援活動に貢献したとして賛嘆されているベルザンス司教が、実は最後は疫病から逃げるために食糧を蓄えて家に閉じこもったことをパヌルーは批判する。信仰が本物なら最後まで一人になっても踏みとどまるべきだと。やがてパヌルーは自らペストに感染するが、彼自身は医師の治療を受けることを拒み続ける。リウーがパヌルーのもとに駆け付けたときには既に手遅れ状態だった。そして、少年がそうであったように、高熱、咳、吐血に苦しみながら死んでいく。最後まで手に握った十字架だけは離さなかった。彼は自らの言葉どおり殉教をもって信仰を貫徹したのだ。

パヌルーの最初の説教では、神の名のもとに抽象的な罪を説いて現実の不条理に目を向けない権威者として忌まわしい印象を受ける。しかし、その後のパヌルーは保健隊に参加して自ら危険な仕事にも従事して汗を流す愛すべき人へと印象が変わる。そして少年の死の不条理さを受け止め、なおかつ神への信仰を貫いて殉教したことで、彼自身の信仰の純粋性が証明される。結局のところ、パヌルーの善性はリウーやタルーと同じく現実の不条理と戦って病疫に立ち向かっていった行為によって認められるものであった。ただ、その意思を貫かせる力が信仰のなかにあったのだとすれば、そのことによってこそ彼の信仰の聖性は保持されたと言えるのではないか。言い換えれば、聖書にどう書いてあるかではなく、聖書を信じた人がどう生きたかということにこそ聖性があるのではないかということを、パヌルーは物語っているように思える。

この作品に対して、少年の死後に起きたパヌルーの変化は、カトリックからプロテスタントへの転向であったと解釈した評論もある。確かに、聖職者が聖書に基づいて世界を合理的に解釈し、それを人々に教えるスタイルを取るカトリックと、信仰者個人が聖書を自分で解釈し、合理であれ非合理であれ、自身の信仰のもとに受け入れるスタイルを取るプロテスタントとの対比に照らせば、まさにパヌルーの変化は宗派の転向であったと言えるであろう。ただ、そうであったとしても、この作品のなかでパヌルーは決して主役の地位を与えられてはいない。神への信仰を持たなかったリウーとタルーの生き方に影響されて自身の信仰の純化を図ったパヌルーの姿は、むしろ宗派性を超えた普遍的宗教性という主人公を際立たせるための脇役の位置に置かれているように思える。

現実の不条理を受け止めることの宗教性

現実の不条理の象徴として、この作品は無辜の少年の犠牲を敢えて残酷に描いている。正直なところ、その部分を読むのも辛かった。しかし、よくよく考えると、何の罪のない善良な市民が犠牲となる不条理は現実社会に満ち溢れている。戦争と疫病はその最たるものだが、地震や水害などの災害で亡くなる方もいる。交通事故や犯罪の被害者となって命を落とす方もいる。13歳の少女が他国の国家犯罪によって拉致されるなどという不条理も現実にあった。死だけでなく生の不条理もある。例えば、不自由な四肢をもって生まれた子供は自我の芽生えとともに、なぜ自分がそのような障害を背負って生まれたのかを悩むだろう。そもそも人種、民族、地域、家庭、性別等、あらゆる観点で、なぜ自分がこの人間として生まれたのかということ自体、当人の捉え方次第で大いに不条理となる。他者から見れば何でもない当たり前のように思えることであっても当人にとっては深刻な悩みだということもあるのだ。

カミュは代表作『異邦人』をはじめ、この世の不条理を一貫して作品のテーマにしたとされている。彼自身の信仰がどうであったかは十分に精査していないが、作品を見る限りでは、リウーの母のリウー夫人が敬虔なカトリックの信仰者であることは記されていたし、パヌルーの最初の説教がシニカルに描写されているとは言え、決して全否定するほどの批判的論調で描かれているわけではない。パヌルー神父を決して悪役で終わらせずに善人として描いているという面もある。彼のなかに消極的な信仰があったと見ても矛盾はしない。仮にカミュが内心に信仰を持っていてそれを捨ててはいないのだとしても、全知全能の神が創造したこの世になぜかくも不条理が存在するのかを、その信仰だけで納得し、乗り越えることはできないという葛藤があって、作品を通してその葛藤を正直に吐露しているのではないかと思う。

リウー、タルー、ランベール、パヌルーの四者はそれぞれに何かを象徴する役割を担った記号として解釈できる。生を象徴するリウーとランベールに、死を象徴するタルーとパヌルー。変化しないリウーとタルーに、変化するランベールとパヌルー。神を信じないリウーとタルーに、神を信じるランベールとパヌルー。いくつもの対比を持って人物が象徴的に描かれている。それでも、立場の異なるこの四者がなぜ最終的にペストと立ち向かう同志として協力できたか。それは生命の聖性という一つの普遍的宗教性の核があったからだと私は見ている。

ペストは今日において有効な治療薬と対策が確立し、かつてほどの流行はなくなったが、今回の新型コロナウィルスのように、新たな感染症の発生と人類は戦い続けていかなければならない。人々が健康で幸福な人生を享受できるように、人類は英知の限りを尽くして戦っていかなければならない。そのときその戦いの先頭に立つのはワクチンをはじめとする有効な対処法を開発する医学者であり、患者の治療に当たる医師ら医療従事者である。リウーはこれらの人々の代表でもある。そして、その戦いは医学者・医療従事者だけでも成功しない。一般市民が主体者となって、地域や家庭で「感染経路」を遮断するための啓発や協力に取り組む必要があるし、個々人のレベルで睡眠や食事に注意して免疫力を高めることも大切だ。そこには一般市民全体が感染症と戦う意思や互いを思いやる共感の心を共有することが求められる。タルーが見せた戦う強い意思、ランベールが見せた愛する人のために生き抜く意思、パヌルーが見せた神の愛に報いるための人々への愛は、そうした戦う一般市民を代表している。

私自身は仏法の信仰者として、他者の苦しみに同苦すること、そして人類がこの試練と戦い続けて一歩でも二歩でも前進することを日々祈っている。そしてその祈りを原動力にして、市民の一人として今できるベストを尽くすように心がけている。身近なことで言えば、外出の自粛、マスクの着用、一日10回以上のうがい手洗い。また、医療従事者の方々と触れる機会には心からの感謝と労いを伝えるように心がけている。ブログを通じて文章を発するときは、感染症対策に関連して対立や分断を煽る論調には同調せず、協調や連帯の方向へ貢献できるように意識している。これらも自身の信仰の実践のつもりである。そしてそれは、すべての人々と共有可能なヒューマニズムを志向していると信じている。

作品の最後、ペストが終息したオラン市内には喜悦の叫びがあちこちに立ち上るが、最後は敢えてハッピーエンドではなく、リウーの警告で作品の幕を閉じている。「ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、(中略)そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを」と。人類が幸福と平和の社会を目指す戦いの最中にあることを忘れるな、そして、そのための連帯の一員として日々戦いのなかに身を置けと呼びかけるメッセージだと私は受け止めている。

 

(注)

他の登場人物としては、小説を書き続ける老吏ジョセフ・グラン。都市封鎖に乗じて逮捕を免れている密輸犯罪者コタール。愛児フィリップをペストで失う予審判事オトン。リウーと共に医療に取り組む同僚医師リシャール。先輩の老医師カステル。ペストの最初の犠牲者となった警備員ミッシェル。名前が示されないぜんそく持ちの爺さん。等々。主人公リウーには妻子がいるが、妻はペストが流行する前に病気のため、山の療養所に移って不在。代わって孫の世話をするためにリウーの老母が来て同居していた。

2020.6.13

 


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