山岡政紀 書評集


映画鑑賞記『カメラを止めるな!』 上田慎一郎監督・脚本/2018623日公開/ENBUゼミナール製作

 

8月に東北大学で集中講義をした際、一人の学生さんが、最近観た『カメラを止めるな!』という映画が非常に面白かった、という話をしてくれた。そのことが印象に残ってこの長期出張期間を利用して一本通して観た。結論から言うと、たしかに面白かった。彼が内容をいっさい言わないでくれたおかげで、何の先入観もなしに観ることができた。一つだけキャッチコピーの「この映画は二度はじまる」だけは頭の片隅に置いておいたのだが。

 さて実際に通して視聴。正直に言えば前半の方はわけがわからなかった。いわゆるゾンビ映画である。絶叫ばかりで有意味なセリフが少なく、ストーリー性が感じられず、これだけであんなに面白がるはずはないだろうなと。でもこの映画は二度始まるらしいから、とにかく最後まで観ようと。すると、途中から時間が遡って“二度め”が始まった。どうやら今度は映画製作を仕事にする父親と、同じ職種で助手をしながら父親の生き方に誇りが持てなくて反発する娘が登場するホームドラマのようだ。父親がゾンビ映画製作のオファーを受ける場面になって、最初のゾンビ映画がこの父親が製作した「劇中劇」だったことがわかる。

 せっかく学生さんがネタバレをしないでいてくれたのに私がネタバレするのも、これから観る方に申し訳ないのであらすじはここまでに留める。ただ、以下の感想からネタバレになってしまう部分があったとしたらお許しいただきたい。

 この映画の最大の面白さは視聴者に知的な刺激を与える部分だと思う。今夏まで放送されていたNHK朝ドラ「なつぞら」でも過去回の放送での登場人物のセリフの真意がだいぶ後になってわかるというような「伏線―回収」の妙が話題になった。ただ、「なつぞら」は熱心に毎日視ている視聴者には評価が高かったが、視たり視なかったりの視聴者には不評だった。伏線の回を視ていないと回収できないからだ。その点、一本の映画での前半と後半で「伏線―回収」が巧みに織り込まれると、「あれってこういうことだったのか」という気づきが見逃すことなく訪れるので、それがワクワク感になる。その結果、別にそんなに面白くもないなと思って見ていた前半部分が後半になって意味が出てきて遡って面白くなるのである。そして、ホラーだと思っていた前半が実はコメディだったとわかったときの落差もまたいい。急に肩の力が抜けていく快感。

 このような知的な仕掛けを作り出すために「メタ構造」が用いられている。私は「言語で言語を分析する」という自己言及的な科学である言語学を専攻している。「人間が人間を探究する」人間学もメタ的である。「俳優が俳優を演じ」たり、「映画の中で映画が流れ」たりする入れ子構造を私は勝手に「メタ構造」と呼んでいる。本来、俳優は医者とか銀行マンとか自分ではないものを演じるものだが、その登場人物がたまたま俳優という人生を生きる人物の場合にはメタ構造になる。すると、「演じる姿を演じる」部分も発生する。

 メタ構造であることそれ自体が面白いわけではないが、「伏線―回収」をやるには好都合な構造だ。その理由はこういうことである。

 優秀な俳優が演じた人物は視聴者にとってそれが演じられたものであることを忘れさせてくれる。NHK大河ドラマ「真田丸」で真田幸村を演じた俳優堺雅人の演技は素晴らしかった。このとき、視聴者は堺雅人の人生ではなく真田幸村の人生を視聴して楽しむ。つまり、演じた俳優の存在は無にして歴史上の人物が描かれていく。しかし、『カメラを止めるな!』の場合は前半がメタ構造であったことを後半に種明かしすることで、「演じられた人物」から「それを演じた俳優」に視点が移る。「ゾンビ映画」そのものから「ゾンビ映画を演じた俳優、製作した製作者たち」に視点が移るのである。そして、ホラーがコメディに変わる。ちょっと理屈っぽい説明になってしまった。

 そして、この映画のもう一つの面白さは、回収されてからのホームドラマがほんわかした親子の愛情物語になっていて、知的なストーリーにホットな潤いを与えて終わる点である。「ああ、よかったな」とほっとして笑顔で見終われる。この点もこの映画の好感度の高さの秘訣ではないだろうか。

 

2019.12.8

 


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