名著読後記  井原西鶴作『好色五人女』                              山岡政紀

【キーワード】 江戸文学、浮世草子、西鶴、好色、性描写、封建社会、儒教道徳、不倫、処刑、恋愛

【あらすじ】

@  姿姫路清十郎物語

室津港の酒造の息子・清十郎は色男で、十四の年から遊郭遊びが絶えず、遊女たちからひっきりなしに恋文を受け取っていた。息子の放蕩ぶりを見るに見かねた父親が遊郭に乗り込み、清十郎に勘当を言い渡してしまった。そのとき、多くの遊女たちは身寄りを失った清十郎を見捨てて去って行ったが、清十郎が最も懇意にした皆川という女郎は清十郎に心中を訴え、結局、一人で自害してしまった。清十郎は自身の行状を猛省し、姫路の但馬屋に奉公することとなり、心を入れ替えてまじめに働いた。但馬屋には主人の妹にお夏という十六の美しい娘がいた。ある夜、清十郎の帯を修繕していると、かつて清十郎が受け取った遊女たちからの恋文が出てきた。お夏はそこに記された、清十郎を慕う一途な文章を片っ端から読んでいくうちに、自分自身が恋の心に満たされてしまい、清十郎を恋い慕うようになってしまった。お夏と、その心を知った清十郎とは互いに恋し合う間柄となり、花見の折に幕の陰で二人は結ばれる。清十郎はその後、大坂に小さな所帯をもって二人で暮らしたいと考え、お夏を盗み出して舟で駈落ちを図った。しかし、舟に乗り合わせた飛脚が状箱を宿に忘れたと言って港に引き返したところ、二人は捕らえられて引き戻されてしまった。ちょうど折り悪く但馬屋では七百両が紛失する事件が置き、清十郎はその嫌疑をかけられて打ち首となり、二十五才で帰らぬ人となった。清十郎の死を知ったお夏は発狂して自害しようとしたが果たせず、説得されて出家し、尼となった。

A  情けを入れし樽屋物語

 大坂天満の町家に奉公するおせんは色白で働き者で気立てがいいと評判だった。そこに出入りしていた樽屋の男がこのおせんに惚れて恋文を送るが、おせんの方は不器用で男性とのつきあい方もわからず、どんな男性からの誘いにも目もくれず、ただ仕事に精を出す慎ましやかな女性だった。樽屋はどうにかしておせんをものにしたいと、老女・こさんの老獪な援助を得て、おせんを伊勢参りの旅に連れ出す。途中、久七という男が二人の邪魔をするが、最終的に帰路の京都で二人はめでたく結ばれ、その後結婚する。二人は仲良く、理想的なおしどり夫婦となった。ある夜、近所の麹屋が法事をするというのでおせんは手伝いに行った。麹屋の主人・長左衞門に頼まれて菓子の盛り付けをしていると、長左衛門が棚から入小鉢を落とし、それがおせんの頭に当たり、髪結いをほどいてしまった。おせんの髪が解けているのを見た麹屋の女房は、二人が不倫をしていたのではないかと疑い、罵声を浴びせる。腹が立ったおせんは「こんなに疑われてしまうくらいなら、いっそ長左衛門と恋仲になって、あの女房の鼻を明かせてやろう」と思い始める。その後、二人は忍びの恋を交わす仲となり、ある夜、樽屋が寝入ったすきに長左衛門が夜這いに行く。二人が着物を脱ぎ捨て、いよいよというところで樽屋に見つかり、おせんは錐鉋で自害。長左衛門も磔獄門となった。

B  中段に見る暦屋物語

 京都で遊び人たちが夕暮れに藤見帰りの女性たちを品定めしていると、いろいろな美女が通り過ぎたあとに、それまでの女性たちがすべて吹き飛んでしまうような、非の打ち所のない十三、四才の美少女の姿があった。それは「今小町」と評判の娘だった。都の大経師(暦屋)が、この娘おさんに一目惚れし、何としても娶りたいと仲人嬶に頼み込み、とうとう嫁に迎えることができた。夫婦は仲睦まじく子にも恵まれ、平穏に暮らしていたあるとき、夫の大経師が江戸に旅する用事ができた。おさんの実家ではおさんが一人で留守番することを心配し、実直な茂右衛門という手代を留守中の手伝いに遣わした。茂右衛門が腰元のりんに灸を据えてもらったことをきっかけに二人は両想いとなり、浮き名が立った。しかし、りんは字が書けなかったため、りんの茂右衛門への恋文をおさんが代筆した。茂右衛門はおさんが書いたとは知らず、相手をからかうような返事を寄こしたが、それを読んだおさんは腹を立て、茂右衛門が夜這いに来たときに驚かせて鼻を明かしてやろうと考え、りんの寝床に入れ替わって寝ていたところ、うっかり熟睡してしまった。茂右衛門は相手がおさんであるとは気づかぬまま、二人は不意の契りを交わしてしまった。目覚めてそのことに気づいたおさんは「こうなったからには死ぬ覚悟で浮き名を立て、茂右衛門を死出の旅路に道連れに」と心に決める。相手がおさんだと知った茂右衛門もおさんに情が移り、毎夜おさんのもとに通いつめる。二人で石山寺参りに出かけたついでに琵琶湖の舟に漕ぎ出した。実ることなき不倫の愛を二人で嘆いたが、心中したことにして駆け落ちしようと決意。茂右衛門は、死にそうになったおさんを背負って歩き続ける。丹波の里で兄妹と偽って助けを求めると、猟師の妻にされかけて慌てて逃げた。何とか丹波の村でひっそりと暮らし始めたが、結局、大経師に見つけ出されて連れ戻され、二人は処刑されてはかない露と消えた。

C恋草からげし八百屋物語

 お七は十六。本郷の八百屋の娘だった。あるとき、江戸に大火があって、お七の一家も寺に避難した。そこへ同じく避難してきた若衆は、指にささったとげを抜いてほしいとお七の母に頼む。目が悪い母に代わってお七が若衆のとげを抜いたところ、若衆はお七の手を強く握り、お七は若衆を追いかけてその手を握り返した。彼の名は小野川吉三郎。同い年、十六の美男子だった。その後、二人は恋文を交わす間柄となり、ある夜とうとうお七が吉三郎の部屋に夜這いして契りを交わし、永遠の愛を誓う。しかし、二人は引き離されて会えない日々が続く。お七は吉三郎に会いたい一心が募り、再び火事があればまた会えるのではないかと放火を働き、その罪を問われて火あぶりの刑に処せられる。お七の死を知った吉三郎は嘆き悲しんで自害を図るが、辛うじて引き留められ、出家する。

C  恋の山源五兵衛物語

 薩摩国の源五兵衛は専ら男色に明け暮れて今は二十六才であった。久しく思いを寄せる美少年・中村八十郎とは深い契りを結んでいたが、ある夜突然源五兵衛との添い寝の最中に苦しみだし息絶える。悲しみに暮れる源五兵衛は自害を考えたが、思いとどまって出家し、高野山へ三年間弔いの旅に出ることに。その道中、ある鳥刺しをしていた若衆に惹かれ、打ち明け話から互いに打ち解け、一夜愛し合う。高野山に登り、再び若衆を訪ねると父親が出て、「息子は死んだ。熱にうなされながら、お坊さん、お坊さんと、あなたのことを言っていた」と。源五兵衛は人の命の無常を嘆き、世をはかなんで草庵にひっそり暮らす。その源五兵衛を恋い慕う十六の娘がいた。名をおまんと言った。恋文を何通も送ったが、源五兵衛は女性に一切興味がなく、返事も寄こさなかった。源五兵衛が出家したことを知ったおまんはそのことを悔しがり、せめて草庵を訪ねて思いを伝えようと決心する。おまんは男装して美少年の姿となり、源五兵衛のもとへ。源五兵衛は喜び、「女色は絶つと誓った出家の身だが、美少年を愛することは仏様も許すだろう」と言っておまんを抱く。いよいよという段になっておまんが女性であることに気づくが、高まった思いは止められず、そのまま結ばれる。源五兵衛は還俗して二人で小さな所帯を持ち、共稼ぎの大道芸人となる。そのうち、おまんの両親が二人を探し出して連れ戻すと、その家は大金持ちで源五兵衛は思いがけず豊かに暮らすのだった。

【書評】

近世文学の代表作品の一つである『好色五人女』は、江戸時代初期、貞享3(西暦1686)に井原西鶴が著したとされる浮世草子である。『好色一代男』、『好色一代女』などと並ぶ、西鶴の好色物の一つとしてよく知られている。

独立した五つの物語から成り、いずれも実在した女性を主人公として、その悲劇の恋を描いている。現代の「好色」は愛情を抜き去った性的欲求だけを表していていわゆる「下ネタ」に近いコミカルな響きを伴うが、この作品にはそういったコミカルさは全くない。喜劇ではなく、むしろ悲劇である。西鶴の意を汲んで意訳をするならば、「愛に生きた五人の女たち」となるだろうか。アイヴァン・モリスの英訳のタイトルは”Five women who chose love”(愛を選んだ5人の女たち)となっている。

男性と女性との間にある、からだの愛と心の愛。本来それは表裏一体であって決して切り離されるものではないのだが、文学においては時に身体の性を捨象する。幼少期に伊藤左千夫の『野菊の墓』を読んで涙したことを思い出すが、あの作品の政夫と民子の純愛に、身体の性は片鱗すら描かれていなかった。一方、『好色五人女』には、性がはっきりと描写されている。しかしながらそれは時代状況や表現技法のうえでの差異であって、『好色五人女』に描かれているのも結局のところ一人の男性を真剣に愛し抜く女性の姿だった。やはり文学の題材となるのは心の愛なのだ。

 しかし、その心の愛が、この五つの物語ではいずれも極めて非日常の不思議なストーリー展開のなかで語られる。いずれも恋のきっかけに実体がないのである。ある意味で言えば、誤解から始まった恋とも言える。お夏は清十郎が持っていた恋文を読んだことで清十郎に恋心を抱く。おせんは麹屋の女房から不倫を疑われたところから本当に不倫に走る。おさんは茂右衛門の鼻を明かすつもりでりんの身代わりに寝ていたが、茂右衛門に抱かれてしまって真剣な不倫に到る。お七は火事で焼け出された非常時に吉三郎と出会って恋してしまう。おまんの物語だけは主人公が男性だが、男色の源五兵衛がおまんを男性と思い込んで抱いたところから本当の恋に到る。恋そのものは真剣で本物だが、そのきっかけはどれも理不尽で強引な結ばれ方である。この五つの物語はすべて実話だというから驚かされる。もちろん西鶴の脚色が多分に入っているにしても、である。

 こうした実体のない恋というのは、かつて丸山圭三郎氏や岸田秀氏らが論じた文化のフェティシズムの観点からも論じることができよう。フェティシズムというのはもともと物神崇拝を表す宗教学の用語だが、心理学では性愛の対象が異性そのものから象徴化された物品に転化される異常性愛・性的倒錯を指す。岸田秀氏は、人間は動物と違って本能が壊れているために、性教育が必要な唯一の動物だが、性愛の対象がそのように後天的・文化的に規定されるために、本来の(生理的に妥当な)性愛も、いわゆる異常性愛も質的には等価であり、むしろいわゆる異常性愛こそ最も人間らしい性愛のあり方だと主張している。その観点から言えば、お夏が手紙を読んで抱いた恋心も、お七が火事の火と重ね合わせた恋心も、その対象はフェティッシュだったということになる。

当時の日本という儒教道徳が支配的な封建社会にあって、彼女たちの真剣な愛は時に社会規範から外れ、罪を背負いながら、命懸けの人生を強いることとなる。恋を忍ぶことも苦なら、恋に生きることも苦。同じ苦ならばと、恋に生きる道を選んだ5人の女性が、この物語の主人公たちなのである。人の道に外れた愛が時に真剣で本物の愛でもあるという人間の真実の姿を西鶴は描きたかったのではないだろうか。そのためにはありのままの性描写はむしろ不可欠だったのではないだろうか。そこに、自らに正直に生きようとする女の情念、ある種の生命力の迸りのようなものが感じられるからだ。


【現代語訳】

『現代語訳 好色五人女』 井原西鶴作/吉行淳之介・丹羽文雄訳/1971年日本古典文庫/2007年河出文庫/河出書房新社
『好色五人女 現代語訳』 井原西鶴/暉峻康隆訳/1977年井原西鶴全集/1992年小学館ライブラリー/小学館
『新版 好色五人女』 井原西鶴/谷脇理史訳/2008年角川ソフィア文庫/角川学芸出版


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