山岡政紀 書評集


〔書評〕『平和の世紀へ 民衆の挑戦』 ケビン・クレメンツ、池田大作著/潮出版社刊/20161226日 発行/定価1600円/ISBN 978-4-267-02071-1 C0095

 

キーワード:核廃絶、生命尊厳、共生社会、人権文化、国際連合、ニュージーランド

 


1.ケビン・クレメンツと池田大作

世界的な平和学者ケビン・クレメンツ博士と仏法の平和精神を行動で体現してきた池田大作博士――世界平和のために献身的な行動を続けてきた二人は1996年に出会って以来、たびたびの対話と交流を重ね、平和のために戦う共戦の同志としての友情と連帯を強固にしてきた。その一環として総合月刊誌「潮」誌上で2013年から2014年にかけて13回にわたって連載された両者の対談が、一冊の対談集として結実したのが本書である(以下、敬称略)。

ケビン・クレメンツは1946年生まれ。ニュージーランドのヴィクトリア大学で社会学の博士号を取得した後、一貫して平和学の研究に取り組み、米国のジョージメイソン大学紛争分析解決研究所・所長、英国のNGO「インターナショナル・アラート」の事務総長、豪州のクイーンズ大学では国立平和紛争研究所所長を歴任するなど、主要各国における国際平和研究組織の中核を担い続けてきた。国際平和研究学会(IPRA)会長、アジア太平洋平和研究学会(APPRA)事務局長も歴任し、現在はオタゴ大学国立平和紛争研究所の所長を務めている。

一方の池田大作は1928年生れ。創価学会インタナショナル会長として著名であるが、いわゆる聖職者ではなく在家指導者として日蓮仏法の世界宗教化を図り、その生命哲学を普遍的かつ具体的な平和・文化・教育の運動へと昇華させ、実効性のある平和貢献を行ってきた。幼稚園から大学までの一貫教育機関、民主音楽協会、富士美術館等の文化機関、東洋哲学研究所、戸田記念国際平和研究所等の学術機関など、平和・文化・教育の諸機関を設立。1968年の日中国交正常化提言をはじめとして、対立する二国間の仲介役を民間人として果たしたいくつかの事例がある。英国の歴史家A・トインビー博士との対談『二十一世紀への対話』をはじめとして、世界の知識人との対談集は78冊に上る(本書は77冊め)。今日において文明間対話、宗教間対話を実践している代表的人物である。

クレメンツと池田の共通点は、平和構築のカギは政治次元の国家間交渉のみに委ねられるものではなく、市民一人一人が平和を志向する意識を強く持ち、それによって政治も経済も教育も含んだ人間の文化すべてを平和の方向へと向かわせていこうとする信念にある。クレメンツは、市民を平和構築の主体者と位置づける「強靱な市民社会」を理想社会と掲げる。一方の池田もまた庶民に根差した「平和文化の創造」を重視し、創価学会インタナショナル(SGI)の活動を通じて平和を希求する庶民の連帯を築いてきた。そして、それを基盤に文明間対話、宗教間対話にも取り組んできたのである。

両者が本質的に同じ方向を志向してきたことを深い次元で互いに理解し合う二人であるからこそ、その友情と連帯は強固である。この対談においても、両者の共感と信頼をもとに平和を希求する本音をぶつけあい、躍動感のある生き生きとした対談となっている。

クレメンツは、池田との平和の連帯の証として、池田が創立した戸田記念国際平和研究所の国際アドバイザーに就任し、同研究所の国際会議や研究プロジェクトを支援してきた。2009年からは総合所長、20177月には所長に就任している。20173月には東京都内で開催された同研究所主催の総合研究会議「激動する現代世界における地球的平和への挑戦」の公開セッションにおいてクレメンツは、幅広い人脈を活かして米国、英国、豪州、ノルウェー、タイから15名の平和研究者を招聘し、コーディネーターとして会議の采配を振るった。様々な議論を建設的に集約していく勇姿は70歳と思えないほど若々しく、その柔軟で高邁な知性と、諸氏の信望を集める人格とに、評者もまたその場に参加した一人として感銘を受けた。

2.核廃絶への挑戦

本書の随所に見られる二人の共鳴・合意の中から特に印象深い事柄をいくつか挙げたい。

その筆頭に挙げるべきは第2章「「核兵器のない世界」への挑戦」。そのタイトルの通り、地球上から核兵器を廃絶せんとする悲願、そしてそのための方途が語られている。

池田の心には恩師・戸田城聖が195798日に行った「原水爆禁止宣言」が常に胸中にあった。戸田は、核兵器の使用は生命の尊厳を真っ向から否定する絶対悪であり、いかなる論理をもってしても正当化することのできない悪魔の所業であることを、宗教者の責務として5万人の青年の前で宣言したのである。その年から「潮」対談時点(2013年)で56周年、本年(2017年)は満60周年を迎える。

核兵器を保持する者は常に抑止を大義とするが、実際に使用された時の悪魔的な破壊力は広島と長崎の事例に刻印されている。それは軍人や兵士ではない一般市民すべてを巻き込み、それのみならずそこに生きる動物も植物もすべて死滅させてしまうほどの威力を有している。その大義のためには不必要なはずの甚大な破壊能力を持った兵器を、あくまでも手段として保持するというのは、論理的に破綻している。

ニュージーランドは米国・英国の「核の傘」によって守られる同盟国と位置づけられてきたが、米国・英国が1956年に太平洋で行った核実験が降らした「死の灰」の影響を自国が受けなければならない矛盾に、幼少期のクレメンツは疑問を抱いたという。そして、1954年には洋上で操業していた日本の漁船が米国の水爆実験の「死の灰」を被った「第五福竜丸事件」が発生し、その3年後に戸田が原水爆禁止宣言を行う契機の一つとなったことを池田は語る(p.51)。1962年にも米国がハワイ上空で行った巨大核実験は大気への甚大な影響をもたらした。太平洋を舞台にたびたび行われた核実験がもたらした災禍の数々は、広島・長崎と共に核兵器の悪魔性を如実に表している。二人は、「安全のため」「抑止のため」との大義は虚言であり、断じて容認できないことをこの章で強く主張している。

近年、NPT(核拡散防止条約)やその検討過程での共同声明など、国連を中心とした核廃絶への取り組みは懸命に続けられているが、最終的にそれが実効性をもって真に勝ち取られるには、市民レベルでその気運を高めていくことが不可欠である。ニュージーランドでは核保有国に対する市民団体の抗議活動や、家庭や団体といった小単位での「非核宣言」が自発的に各所で行われ、現在、地方自治体レベルでの「非核宣言」へと発展している。クレメンツ自身もそうした市民運動に対する支援活動や啓発活動に注力することによって、政治家や官僚にもその責任や使命を自覚させるよう促しているのである。

池田もまた、戸田の宣言が5万人の青年に向けて行われた事実を、その場に集った当時29歳の青年として胸に刻んでいた。そして60年後の本年1月、池田は「第42SGIの日記念提言」において、師匠の宣言を21世紀の今日に再宣言するかの如く、その意義を高らかに訴えている。核廃絶に向けての具体的な提案としては、@米露首脳会談の早期開催、A核保有国の国連会議に被爆国日本が参加を働きかけること、B市民社会ごとの「核なき世界の民衆宣言」を集約して核兵器禁止条約の礎石とすること、以上3項目を挙げているが、このうちのBについては、師匠の宣言を全世界の市民の声へと高めゆくための方途として、本対談でクレメンツが語ったニュージーランドにおける市民レベルの「非核宣言」に示唆を得たものであることは疑いないところである。

3.太平洋の隣人として

クレメンツの平和貢献は単に研究分野に留まるのではなく、ニュージーランド、オーストラリア、イギリス、スウェーデン、オランダ各国政府の紛争防止・平和・防衛・安全保障政策顧問を務めるなど、実践分野においても国家間の融和と協調を創出するための献身的な努力を重ねてきたことにある。特にアジア太平洋地域の連携の創出には力を注いできた。太平洋によって隔たった東アジアと南西アジアの平和研究を分断することなく、アジア太平洋平和研究学会(APPRA)を通じて一つの「アジア太平洋研究」として融合させ、国際会議を各国持ち回りで開催してきた。

クレメンツは第5章で、池田が提唱した「太平洋の隣人」という概念への共鳴を吐露するが、これに対して池田はその世界観について、先師である牧口常三郎が『人生地理学』の中で示したものであることを紹介している(p.162)。つまり、海が障壁となって隔絶を生むのではなく、海を人と人とを結びつける交流の幹線道としていく発想の転換は、先師である牧口の思想から継承したものなのだ。池田の会長就任後最初の海外訪問地がハワイであることも、創価学会インタナショナル発足をグアムで行ったことも、太平洋を戦争の海から平和の海へと転換する願いから来るものだった真情を池田はここで述べている。クレメンツは、牧口の思想を実践に移してきた池田の理念と行動に深い賛同を示しつつ、ニュージーランドと日本という太平洋上の二つの島国が連携し協調していくことの意義を強調する。

クレメンツは海の三つの恩恵をこう述べている。@潮の満ち引きが自然のリズム、人間の命の満ち引きを想起させる。A海が通信や交易のための「道」となり、人と人との心を結ぶ幹線道となる。B海は皆のものであり、私たちの生命維持に不可欠な食糧や資源を供給してきた、と(pp.165-166)。

海に囲まれた両国には豊かな自然、四季の変化など、共通点が多くあり、自治体レベルでも共に温泉が豊富な別府市とロトルア市、箱根町とタウポ市が姉妹交流を結んでいる。2011年には222日にニュージーランド南島でクライストチャーチ地震が発生し、直後の311日に日本では東日本大震災が発生した。被災地どうしが支援し合いながらそれぞれに復興に取り組んできた経緯については第6章で詳細に語られている。

第二次世界大戦中には両国が交戦した不幸な過去もあったが、そうした過去の歴史と真摯に向き合いながら未来志向の友好を構築していくことが21世紀に生きる我々の使命なのである。クレメンツが在籍するオタゴ大学と池田が創立した創価大学も交流協定を結んでおり、1991年からはオタゴ大学での創価大学生による英語語学研修が実施されている。二人は両国の青年が互いに往来し、友好交流を促進する道を共に築いているのである。

4.先住民への共感と多様性の尊重

クレメンツがニュージーランドの先住民マオリとの共生をめぐってその思いを語る第8章もまた、彼の公平な人間観が表れ出て印象深い。

歴史上、西欧諸国が他の大陸や島国に移住することで先住民の土地を奪って追い出し、同じ人間としての人権を認めず、彼らの固有の文化を独善的で一方的な蔑視政策によって否定するということが横行してきた。彼らの存在を否定するか、存在を認めたとしても西欧文化への同化を強制してきた。

今日、植民地の多くが独立を果たしてはいるが、先住民に対する人権意識は現在もなお地域によって濃淡がある。ニュージーランドでは1950年代頃まではマオリに対する差別が横行していたが、その後の70年代、80年代にマオリの文化や言語の復権を求める「マオリ・ルネサンス」を受容して共生を図り、二文化主義の先進的な人権国家を形成するに到っている。現在もマオリはニュージーランドの人口の15%を占めている。

池田は創価学会インタナショナルの活動を通じて人権文化形成のための啓発活動を一貫して行ってきた。具体的には世界40都市での「現代世界の人権」展の開催や「国連人権教育の10年」への協力支援などを行っている。また、例年1月に発表する「SGIの日記念提言」のなかで「多様性の尊重」というキーワードをたびたび用いて人権意識の向上を呼びかけてきた。2007年にはニュージーランドでの「マオリ言語推進週間」記念式典にメッセージも寄せている。式典の主催者だったその視点から池田はニュージーランドにおけるマオリとの共生に強い関心を寄せ、クレメンツもそれに呼応して自身が取り組んできた人権問題の取り組みについて熱く語っている。

クレメンツがマオリの人々や文化を語る言葉は同情や協力などではなく、敬意があふれている。例えば、「マオリの歌と踊りは、何度触れても感動します。生命と文化が躍動する“生きた芸術”と言うべきものです」(p.256)と。マオリの集いの場「マラエ」で彼らと24時間を共に過ごし、白人の植民地主義によって自らの土地を追われた彼らの苦しみや痛みをひたすら聴き続けるという経験もしている。興味本位や社交辞令などを一切排して誠実な敬意をもって彼らと交流し続けた結果、あるマオリ女性は彼を抱きしめてこう言ったという。「あなたの言動から、あなたのワイルア(魂)が感じられます。あなたがマオリと尊重し合う関係を築きたいと願っていることがわかります」と。印象的なエピソードである。

英国移民の血を引くクレメンツがこのようにマオリと対等な相互尊重の関係を築いたことは、ニュージーランドが人権文化の先進国であることを象徴している。また、多くの欧州系住民が彼の行動や態度から啓発を受けてマオリの尊厳を感じ取っていることは疑いない。

これらのエピソードを読んで評者は、キューバ独立の英雄ホセ・マルティが宗主国スペインから派遣された軍人の息子でありながら被支配者であったアフリカ系の奴隷たちに強く共感して植民地主義に対する言論闘争を開始したことを想起した。本書では人間主義という言葉はことさら用いられてはいないが、これらの事例に普遍的な人間主義が通底していることは疑いのないところである。

高い人権意識や多様性の尊重は、女性の人権を語る態度にも表れている。ニュージーランドは1893年に、世界で初となる国政レベルでの女性参政権を認めた国でもあるが、第7章では、その実現のための意識啓発や署名運動に奔走した女性リーダーであるケイト・シェパードの功績を振り返りながら、女性の持つ豊かな可能性、女性の活躍が平和文化の創造に寄与するとする信念が語られている。人間主義という同じ根から発現し開花した人権文化の成功事例と言えるのではないだろうか。

5.生命の尊厳を語る眼差しと普遍的宗教性

クレメンツと池田の平和思想が深部で共鳴するのは、いずれもその行動規範に「生命の尊厳」があって両者のあいだで流れ通っているからではないだろうか。そのことは第3章「生命尊厳の思想を時代精神に」を中心に、本書全編を通じて一貫している。

「生命の尊厳」を見つめる眼は常に宗教的に動機づけられたものであることは疑いないのだが、クレメンツはキリスト教、池田は仏教という異なる宗教の間でそうした普遍的精神が共有されている事実に改めて注目したい。

オークランドでメソジスト教会(プロテスタントの一派)の牧師を務めていたクレメンツの父は第二次世界大戦の最中、その宗教的信念に基づいて良心的兵役拒否を表明し、1942年から終戦の年まで投獄されている。そのメソジスト教会すらも政府の戦争遂行を支持するなかで、いかなる理由であれ殺人への荷担を一切拒否するという個人の信仰に基づく決断であった。父は釈放後も周囲の人々から様々な嫌がらせや中傷を浴びる。

池田の先師牧口常三郎と恩師戸田城聖もまた、同じ頃日本で国家神道への従属を拒否して逮捕投獄されたのは、日蓮正宗の宗門が軍部に迎合する中で個人として法華経の信仰を断固と貫いた結果であった。クレメンツの父と池田の師は宗派を異にするものの、普遍的な宗教精神に基づく人間主義の闘争を共にしていたのだ。

クレメンツ自身も父から信仰とそれに基づく行動を受け継ぎ、高校時代には軍事訓練への良心的参加拒否を表明している(p.105)。また、父が地域の少年院で教誨師を務めていた頃、恵まれない境遇にあるマオリの子どもたちに接して心を痛めていたことがクレメンツの心に刻まれていた。母もマオリの神話や伝説に関する本を与えてくれた。こうした両親の先住民に対する公平な態度もまた、キリスト教の信仰が育んだ人間主義の精神であった。クレメンツがマオリに対して正視眼で接することができたのも、両親から信仰と哲学を譲り受けていたからにほかならなかった。

そして、池田が誠実に宗教間対話を行ってきたことをクレメンツは熟知していた。戸田記念国際平和研究所の初代所長を務めたのはイスラム教徒のマジッド・テヘラニアン博士であった。池田とテヘラニアンは対談集『二十一世紀への選択』を2000年に刊行し、仏教文化とイスラム文化の共通性やイスラムに根づく人間主義思想について語り合っている。クレメンツとテヘラニアンも共編著を2005年に刊行している。クレメンツを池田に引き合わせたのもテヘラニアンであった。三者の友情は、仏教徒、イスラム教徒、キリスト教徒の三教徒による人間主義の超宗教対話でもあった。第13章ではヒンドゥー教徒だったマハトマ・ガンジーの非暴力闘争への尊敬と共鳴が語られる。理念が理念に留まっているうちは宗派の差異は超えられない。その理念を、生命尊厳を守る行動に移していく時、それは共通言語に翻訳され、一つの平和精神へと融和するのである。

池田は「第38SGIの日記念提言」の中で生命の尊厳を守るための三つのメルクマール(指標)を提起したことに本書で再度言及する(p.111)。

一、他者と苦楽を共にしようとする意志

一、生命の無限の可能性に対する信頼

一、多様性を喜び合い、守り抜く誓い

 

そして、この「意志」「信頼」「誓い」がやむにやまれぬ内発的精神であることを述べ、すべての人に呼びかけた次の言葉(p.112)を、本対談から学んだ精神性の精華として心肝に刻み、本評の結語としたい。

「生命の尊厳」を守る力は、法律や制度だけにあるのではない。すべての人間に内在している豊かな精神性を啓発し、発揮していくなかで、無限の力が湧き出てくる――そのことに目を向けてこそ、平和と共生の地球社会を建設するための挑戦は大きく前進していくのではないでしょうか。

 

参考文献(年代順)

A.J.トインビー/池田大作(1975)『二十一世紀への対話』文芸春秋

M.テヘラニアン/池田大作(2000)『二十一世紀への選択』潮出版社

Tehranian, Majid & Kevin P. Clements (eds.) (2005) America and the World: The Double Bind: Volume 9, Peace and Policy

池田大作(2013)2030年へ平和と共生の大潮流」第38SGIの日記念提言 聖教新聞201312627日付

池田大作(2017)「希望の暁鐘 青年の大連帯」第42SGIの日記念提言 聖教新聞201712627日付

 

2018.11.18(石塚義高編『価値創造学体系序説 第二巻』幻冬舎、所収)


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