前著『身体』(七七年、創文社刊)をもとにした文庫版だが、大幅な加筆がなされており、新刊として評価できる書である。
西洋的物心二元論にとって、自己の身体は主体と客体のいずれかとの問いは、難題である。人間が身体の延長として道具を用いるということは、身体も既に道具として客体化されていることを意味する。一方、主体たる自己意識もまた身体とは不可分で、知覚世界も身体的制約のもとにある。
本書はこの両義性をつきぬけるものとして、伝統的な東洋の心身一如の思想を位置づけている。そこでは、自己意識の表層で理論として真理を求めるのではなく、修行というきわめて実践的な方法によって身体を主体化していき、心身を世界にそのまま投げ出すようなあり方によって全人格的に真理に近づいていこうとするのである。
さらに本書の重要な主張は、身体の両義性に言及した西田幾多郎、ベルクソン、メルロ=ポンティらの西洋(的)思想の延長線上に、右に述べた東洋思想との融合点を見出していることであろう。