山岡政紀 書評集


書評『逆転の創造力』 岡本三成著/潮出版社刊/2020316日 発行/定価818円/ISBN 978-4-267-02215-9 C0095


創価大学が誇る卒業生

  「大学の真価は卒業生で決まる」――創価大学の看板を背負って社会に飛び出ていった卒業生たちの合言葉です。偏差値やランキングも重要な指標であるのは確かですが、そうした数値には現れない、きら星のように輝く卒業生たちの存在こそ、私たち創価大学の教職員、学生、すべてのステークホルダーにとって大きな誇りであり、希望でもあります。

 創価大学の卒業生のなかでもトップクラスの社会進出を果たしていたのが、“世界最強の投資銀行”と称されるゴールドマン・サックスで執行役員を務めていた岡本三成(みつなり)氏でした。彼はグローバル金融の聖地マンハッタンを舞台に世界的企業の最前線で同僚たちや取引先の信頼を勝ち取ってバリバリ働いていたのです。創大生の後輩たちに夢と希望を与える存在として光り輝いていた岡本氏が、201212月、ゴールドマン・サックスを退職して日本に戻り、衆議院議員として立候補すると聞いたときには腰が抜けるほど驚きました。なんてもったいないことをするんだ、本当に真剣に考えたのか、後悔はないのか、いろいろな思いが頭をよぎりました。しかし当の岡本氏は何の迷いもない爽やかな姿で街頭に立ち、無事に初当選を果たします。以来9年間、国会議員が天職であったかのようにここでもバリバリ働き、数々の実績を挙げて私たちを驚かせ続けてくれています。

どうして日本の政治家に

 岡本三成氏にもし会えるならこんな質問がしてみたいとかねてから思っていました。@あなたのような優秀な人物がどうして創価大学に来てくれたのか?Aどうやって世界的企業での信頼を勝ち取っていったのか?そして、それ以上の関心は、Bどうしてそれほどのやり甲斐のある仕事を振り捨ててまで日本の政治家の道を選んだのか?といった問いでした。それらを一挙に知るチャンスとしてこの本を手に取り、そして一気に読みました。すべてはこの本に記してありました。

 この第三の問い、どうして世界的企業の執行役員を辞めて日本の政治家になったのか。その答えの一端が、本書の「はじめに」に記されています(p.3-5)。2011年の某日、岡本氏は公明党から国政への挑戦の打診を受けます。岡本氏も「悩みに悩んだ」と。正直な吐露です。そして、そのとき彼の胸に去来したのは、遡ることその10年前、2001911日、マンハッタンで起きたあの悪夢の同時多発テロを、岡本氏が直に目の当たりにした悲惨な光景だったというのです。そしてそのことが彼を決断させます。「人々が憎しみ合う世の中を変えたい。これまで世界各国で働き、国際金融の最前線で積み重ねてきた経験と培ってきた力は、平和構築のために経済政策や外交分野で必ず生かせるはずだ」と。

生い立ちと創価大学進学

 本書を読み込んでいくと、彼を決意させたのはそれだけではないことがわかります。まず本当に根っからの庶民の生い立ちであることを彼は隠しません。岡本氏は佐賀県鳥栖市の片田舎の貧しい家庭に四人兄弟の末っ子として生を受けました。そして、岡本家ではそれまで大学に進学した者が一人もおらず、三成氏が初めての大学進学者となりました。

 県下有数の進学校に通い、成績も優秀だった三成氏は一家の希望でもありました。理数系科目が得意だった彼は、当初国立大学工学部への進学を考えていました。しかし、高校三年の夏、霧島の渓谷に訪れた創価大学創立者・池田大作先生との出会いが彼の人生を大きく変えます。高校生たちと釣りやスイカを楽しみ、誰とも分け隔てなく接する池田先生の人柄に触れて感激し、先生の創立した大学で学びたいと、創価大学の受験を決めたというのです。当時、創価大学には文系の学部しかありませんでしたが、それでもためらいはなかったと(pp.112-115)。

 父は、自慢の息子・三成氏が国立大学に進学することを望んでいたので、創価大学への進学には案の定反対します。しかし、高校教員との三者面談で同じような反対の態度を示した教師の前で、父は「息子の人生は、先生のものでも私のものでもない。三成自身に決めさせてやってください」と言ってくれたという感激の場面がありました。庶民のなかで揉まれて育った息子の感性を信じた父の偉大さがここにあったと感じます。

 ここで第一の問い、岡本三成氏がなぜ創価大学に進学したのかが氷解しました。庶民のなかで育った家庭環境と池田先生との出会いという二つの要素が、創立者の理念に共鳴した民衆の手によって創立された「民衆立」の創価大学への進学を、彼に決意させたのでした。

創価大学で培った実力と人間力

 創価大学経営学部に進学してからも、決して岡本三成氏は猛勉強に徹したわけではありませんでした。学生寮で後輩の世話に徹したり、大学祭の運営に奔走したりしていたというのです。そして、大学四年を迎える直前の英国の名門グラスゴー大学への派遣留学が始まることを掲示板で知り、自分のための留学制度と確信した岡本氏は志願を即決。そして、派遣留学の権利を得てグラスゴーへ渡ります。

 一年間、英語の語学力を飛躍的に伸ばし、英語での経済学を猛勉強した岡本氏は大きく力をつけて帰国します。そして、就職活動でも「創価大学からまだ誰も進んでいない業界」を探して果敢にチャレンジ。その思いは「後輩たちの道を開きたい」との一心だったというのです。履歴書を送っても「創価大学」という名前だけで門前払いされることも多かったようですが、いかにして自分の能力と意欲と個性を目に留めてもらうか、工夫を重ね、何度も挑戦し、最終的に外資系金融機関のシティバンクから内定を勝ち取ります。

 岡本氏には、常に「自分のため」ではなく「人のため、友のため、後輩のため」という生き方の全身に染みついているようです。その原点は創価大学で仲間と切磋琢磨したなかで磨いたものなのです。

国際金融の最前線で

シティバンクで岡本氏はめきめき頭角を現します。入社6年目にはコーポレートガバナンスという重要部門での業績が評価され、社内で最も価値のある仕事を成し遂げた社員に贈られる「ディール・オブ・ザ・イヤー」を受賞します。しかし、そのわずか半年後には更なるステップアップのために思い切ってシティバンクを退社し、MBA(経営学修士)の取得を目指してケロッグ経営大学院に進学します。その思いきりの良さも岡本氏の身上なのでしょう。そして大学院での2年目にはサマージョブと称するインターシップでゴールドマン・サックスのオフィスへ。そして、同社の社員たちの仕事ぶりや価値観に共鳴し、楽しく仕事をしているうちに認められ、ケロッグ卒業後にゴールドマン・サックスに正式入社します。

 ゴールドマン・サックスでの彼の仕事は非常に大規模なものばかりで、財政難に苦しむ欧州の国々に対する財政アドバイス、ある州の有料道路の民営化、ダイムラークライスラーによる三菱自動車の買収などにも関わったといいます。その詳細は不眠不休の激務の連続ですが、岡本氏も同僚たちもそれを楽しみます。彼らは、顧客のため、自分自身のために全力で働くことが、同僚のため、会社のため、ひいては社会のためになるという同社の企業文化にほれ込んでいたのです。そして、「仕事はチームでするもの」という文化が根付いていて、取り引きが成功したときも、主語を<I>(私)ではなく<We>(私たち)で報告することが習慣づけられていたというのです。その経験が国会議員となった今も生きていると岡本氏は語っています。

 高い見識と能力を身につけても、常に他者を敬い、仲間を尊重し、チームワークを大切にする。そこに、岡本氏がその実力を世界的企業の最前線で遺憾なく発揮できた要因があるようです。このことが最初の第二の問い、どうやって世界的企業での信頼を勝ち取っていったのか、への答えになります。チームワークを大切にする彼の周りには有能な人物が自然と集まってきて、高い志を共有し、進めていく推進力になります。本書には、国際政治学者・三浦瑠璃氏、日本文化に造詣の深い英国人のデービッド・アトキンソン氏、渋沢栄一の玄孫・渋澤健氏との対談が収録されていますが、それぞれ仕事を通じた信頼の深さが伝わる興味深い対談で、岡本三成氏の人脈の広さを象徴しています。特にアトキンソン氏と渋澤氏はゴールドマン・サックスでかつて同僚だった間柄で、彼らのユニークな発想も岡本氏を通じて現実の政策に活かしていける、そんな希望が持てるダイナミックな対談となっています。

「出たい人より出したい人」

 2005年、岡本氏はゴールドマン・サックス同期入社のなかでは初の執行役員に就任します。たびたびかかってくるヘッドハンティングの電話も、同社を愛するがゆえにすべて断っていたとのこと。それでも日本の公明党からの衆議院議員立候補への誘いには、悩みに悩んだ末、受諾を決断したことを「はじめに」に続き、再び記します(pp.156-158)。本書を読み進めてきて、改めて第三の問いBどうしてやり甲斐のある仕事を振り捨ててまで日本の政治家の道を選んだのか?への答えがより鮮明に伝わってきます。公明党と言えば、「出たい人より出したい人」で有名です。権力を手にしたい野心家や自己顕示欲の強い「出たがり」には政治を託せない。無名の庶民が自分たちの代表として「出したい」人物を政界に送り込んでいくのが公明党の伝統です。政治家として必要な知識、見識、経験を持ち合わせつつも、どこまでも庶民の側でいつづけられる、そんな稀有な人物を草の根を分けても探し出し、白羽の矢を立てて決意させ、政界に送り出してきたのが公明党なのです。岡本三成氏の庶民のなかから育ってきた生い立ち、民衆立の創価大学で学んだことの誇り、そして常に持ち続けてきた「人のため、友のため、社会のため」に徹する生き方、それらすべてが、庶民が送り出したい政治家像そのものと合致していました。そして、熟慮の末にそのことを自身の使命として自覚した岡本氏は庶民派政治家として生き抜く人生を決断したのです。

逆転の創造力

 本書の対談で三浦瑠璃氏はとても興味深いことを述べています。その一つは「転職のすすめ」です(p.36)。転職をしない文化はよくないとして、組織のなかで人材が硬直化することを戒めます。特に女性は、性差別的な職場で昇進が阻まれるような時は転職によって斜め上にキャリアアップしていけばいいと。安定を求める発想を逆転させることで新たな可能性を創造する、とても前向きな発想です。よく考えてみれば、岡本三成氏自身がゴールドマン・サックスから政治家へと転身したこと、それ自体が本書のタイトルでもある「逆転の創造力」そのものだなと実感します。

 また、同じく三浦瑠璃氏がとの対談で岡本氏は「私は、世界中の政治家のミッションは世界平和でなければならないと思っています」と述べます。岡本氏の国会議員としての実績の一つにシリア難民の受け入れがあります。2015年の予算委員会で岡本氏はシリア難民を留学生として日本に受け入れることを提案し、それが実現して2017年から実際に日本への受け入れが行われています。創価大学でもその一人を留学生として受け入れていますが、極めて優秀で、むしろ日本へ、創価大学へ来てくれてありがとうと感謝しているほどです。国家の制度改革もややもすれば権力闘争に絡めとられてしまいかねないなかで、理念と哲学を持った政治家がそれを実行に移そうとするときに、「逆転の創造力」が生まれるのだと思います。

 我が町を子育て世代の若い人が集う活気のある町にしたい。そんな願いを持った茨城県の境町に岡本三成氏は一つの提案をしました。「義務教育を終了すれば、皆が英語ペラペラの町」。同市はフィリピンのマリキナ市と姉妹交流を締結していたので、そこから英語を母語とするフィリピン人で同国の教員免許を持った人を招き、市内の全小中学校で英語教育を実施。この取り組みは他の自治体からも注目され、視察も相次いだそうです。高い英語教室の月謝を払わなくても公立学校で英語が身につくことが評判となり、子育て世代の若い家庭がどんどん転入してきたそうです。この取り組みは有名企業や観光資源がなくても地域を活性化していける一つのモデルケースとなりました。岡本三成氏の斬新なアイデアは常に「逆転の創造力」に支えられています。この町で育った子どもたちが将来、世界に飛翔して岡本三成氏のように、日本だけでなく世界平和に貢献する道を歩むことを期待したいものです。岡本三成氏の歩む道には常に希望の未来があります。岡本三成氏、勇敢なる決断と世界平和への献身をありがとう!どうか世界平和への道の先頭を切り拓いていってください。

2021.10.26


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