大相撲の世界は勝ち負けがつきもの。本場所15日間、何度も敗北を味わいながら最後に「8勝7敗」と勝ち越せば、一歩前進だ。人生もそれと同じ。「七転び八起き」という言葉があるように、何度倒れても不屈の精神で立ち上がる。本書はまさにその通りの「人生8勝7敗」を生き抜いてきた尾車親方――1980年代にがぶり寄りを武器に活躍した元大関琴風――が人生を綴った自叙伝である。
親方の名誉のために断っておくならば、大関時代の琴風は在位22場所のうち「8勝7敗」は2度しかない。優勝2回のほか(初優勝は関脇)、21連勝、7場所連続11勝以上、年間70勝、大関在位勝率.658など、最高位大関の力士としては歴代トップクラスの安定した成績を残しており、いわゆる「ハチナナ大関」とは無縁だった。私は現役時代の琴風の大ファンだったから、その当時の活躍ぶりをよく覚えている。
だが、その人生は決して平板ではなく、1978年に20歳で関脇に昇進するも左膝の大けがで幕下30枚目まで陥落。不屈の闘志でカムバックするが大関目前でまたも左膝を大けがして手術。そのたびに師匠の叱咤激励や家族の応援を支えに再び立ち上がり、度重なる苦難を乗り越えて勝ち取った大関の地位、そして大活躍であった。
引退後は尾車親方として部屋を創設し、以来今日まで多くの弟子を育ててきた。2012年1月には日本相撲協会の理事となった。その最中同年4月、巡業部長として福井県小浜市の市民体育館で館内を見回りしていた際、養生シートに足を取られて転倒。頸椎捻挫で全身麻痺、七ヶ月に及ぶ長期入院を余儀なくされた。ベッド上でただ天井を見つめるだけの苦しい日々の中から、絶対に治すと決めきっている妻の微動だにしない強さに支えられ、時には今は亡き師匠が「心の強さ」を説くかつての姿がまぶたに浮かび、一枚一枚薄皮をはがすように苦しいリハビリにも耐えて奇跡的な回復を果たす。そしてとうとう同年11月18日、七ヶ月ぶり本場所に復帰し、NHKサンデースポーツへの出演も果たしたのである。本書はその復帰のシーンからスタートしている。
本書の中でも特に心に残るのは師匠である先代・佐渡ケ嶽親方(元横綱琴櫻)との出会いから別れに至るまでの師弟の絆が克明に記されていることである。琴風は師匠がまだ現役の大関だった時代に内弟子として入門しており、以来二人には親子以上の強い絆があった。親方は琴風を誰よりも厳しく鍛えた。大怪我で負けそうになった時も昇進や優勝がかかる大一番に臨む時も、いつも親方は弟子を奮い立たせる強烈な言葉を送っている。2度目の優勝を果たした1983年初場所。朝潮との優勝決定戦を控えた支度部屋に親方が現れ、こう檄を飛ばしたという。「いままでどれだけ稽古をやってきたんだ。どんな苦労をしてきたんだ。どんな嫌な思いをしてきたんだ。思い出せ!それを全部ぶつけろ!」と。
厳しい師匠だが、人情味も厚く、どうも涙もろかったようだ。そして師匠の心を受けきった弟子もまた同じ涙を流した。本書にはたびたび師弟の涙が描かれている。琴風が初優勝で大関昇進を決めた時の二人の涙も印象深いが、更に感動的なのは引退の決意を告げた時。「医者に、お前の左膝は難しい状態だと言われていた。それでも、お前に親孝行させてやりたかった。憎まれてもいい。お前に対しては、他の者より三倍辛く当たった。」との言葉に二人して号泣。そして、「人は生まれつきでも、血筋でも、センスでもない。やる気があれば、できないことはない。お前みたいな若い者に、そういうことを教わるとは思わなかった」と初めて褒められた、と。2007年に親方が死去した際には、一人になった弟子は涙が枯れるほど泣いたという。そして、棺に手を合わせながら「親方、ありがとうございました」と心の中で叫んだ、と。師匠と呼べる人と出会えることの幸せを語る言葉からは、本心からの感謝が伝わってきて誠に清々しい。それと同時に本物の師弟というのはかくも人を育て、人を強くするのかと教えられる。
そして今、尾車親方は師匠への恩返しとして弟子の育成に全身全霊を込めて当たっている。入院中のある日、弟子たちが見舞いに訪れるが、その時も親方は号泣。「この子たちのために、この子を自分に預けてくれた親御さんのために絶対に復活する」と決意し、再起へのバネにしている。弱気になった弟子が電話してきたときには「バカヤロー!お前がおれに気合いを入れるくらいにならなくてどうするんだ。お前はおれと違って体が動いているじゃないか。とにかく頑張れ!」と病床から叱咤している。師弟というのは、このように師匠から弟子、師匠から弟子へと受け継がれていくものなのだ。近年の関脇豪風関、小結嘉風関など、弟子たちの活躍は目覚ましく、更に今場所(2015年春場所)は、尾車部屋9人目の関取として天風関が新十両に昇進している。いつかここから夢の大関、横綱が誕生する日を親方は見つめ続け、今も弟子たちと共に戦っている。
いかなる苦境にあっても自身の可能性を信じ抜き、今日一日の一歩の勝利を積み重ね、最後は「8勝7敗」と勝ち越す。それこそが人生の大勝利者であり、優勝者なのだ。そしてその姿が多くの人に苦難に挑戦する勇気を与えてくれる。今まさに苦境にあるというその人に、本書の一読をぜひお薦めしたい。
2015.3.7
創価大学ホームページ へ
日文ホームページへ
山岡ホームページへ