山岡政紀 書評集


書評『生命とは何だろう?』 長沼毅著/集英社インターナショナル刊/2013130日 発行/定価1000円/ISBN 978-4-7976-7243-5


 今、メディアに最もよく登場する日本人科学者の一人で「科学界のインディ・ジョーンズ」との異名を取る長沼毅氏の近著。46億年とされる地球の歴史と38億年とされる生命の歴史。どちらも人智を超えた長大な時間だが、この二つの数字が喚起するのは地球誕生から8億年後にどうして生命が誕生したのかという謎である。かつてすべり台をすべりながら「自分はどこから来てどこへ行くのか?」と自問した幼稚園児・毅少年は、今、科学者として「生命はどこから来たのか?」(=生命はどうやって誕生したのか?)を本書で問う。この問いを化学用語に翻訳すると、「無機物の地球からどのようにしてタンパク質が合成されたのか?」ということである。この問いに対する答えは未だ一つに定まっていないが、「熱水循環説」、「表面代謝説」、はたまた「宇宙起源説」と諸説あるらしい。それらを「スープ派」、「クレープ派」、そして「宅配ピザ派」と喩えて説明するユニークさこそは、長沼氏の真骨頂であろう。

 生命の誕生の謎は、生命という存在そのものの謎でもある。筆者は、生物を非生物から隔てる最大の定義的特徴は「代謝」であるとする。自らの身体の物質を入れ換えながら自らを維持する能力である。そしてそれはシュレーディンガーの「エントロピー説」にもつながっている。自らを維持する力――それこそが生命の素性そのものだとするならば、それは我々素人の素朴な生命観とも合致している。

 そうして地球上に誕生した生命がどうやって今日の複雑で精巧な生物体へと、そして知性を持つ人間へと進化したのか。合目的的な形質だけが遺伝されていくとした、かつてのラマルク進化論は今や否定され、現在は、偶然による突然変異の積み重ねと適者生存を骨子とするダーウィン進化論が最も有力とされている。すべては偶然の産物であって、ホモ・サピエンスもまた最高の存在(=進化の目標)として目指されたものではなく、38億年の偶然の進化の一つの結果に過ぎないという。

 24〜22億年ほど前、地球上の酸素濃度が急激に高まった「大酸化イベント」。約22億年前と約7億年前の二度の「全球凍結」。その後も地球は五度にわたって急激な環境変化を経験し、生物がそのたびに大量絶滅したという「ビッグファイブ」。しかし、大量絶滅の陰でしぶとく生き延びた生物群は、むしろ大きな進化を遂げていったという。約4億4千万年前の大量絶滅では、生き残った生物が「上陸」を果たす。約2億年前、三畳紀末には陸上の酸素濃度が下がって昆虫類が大量絶滅した後は、爬虫類の恐竜が進化を遂げる。そして、6550万年前には隕石衝突によってその恐竜たちも絶滅。今度はそれまで大きな恐竜の陰で小さく生きていた哺乳類が進化を遂げる――そうして、様々な生命たちの絶滅の屍を乗り越えて今、哺乳動物、そして我々人間が地球上で隆盛を誇っている。

 人間中心主義の色彩を帯びたラマルク進化論と違って、ダーウィン進化論はあらゆる生物を平等に見ている。それはダーウィンの哲学的な生命観が平等主義だからなのではなくて、客観世界の生命それ自体が平等だからなのに違いない。そうであっても、地球上のたびたびの環境変化に耐え抜いて私たちが今日ここにいるということに、ある種の感動を覚えないわけにはいかない。あらゆる生命が持っている生命維持の力。生き抜く力。その結晶が今、ここに生きる私たち一人ひとりであることを本書は教えてくれる。

 数万年後には地球上に再び氷期が訪れるという。そのとき人類は、その英知で耐え抜いて生き延び、更なる進化を遂げるであろうか。かつての少年の「自分は(生命は)どこへ行くのか?」との問いに、今、科学者はこう答えて本書を結んでいる。「平和な知的生命体として生き残るために知力を使い、進化の方向性を自ら決めるのも、ホモ・サピエンスらしい進化のあり方だと思う」、と。


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