山岡政紀 書評集


『問題な日本語』北原保雄編/大修館書店/2004年12月10日発行/定価800円

 2002年12月に大修館書店から刊行された『明鏡国語辞典』(以下、『明鏡』)の編者と編集委員[] が、全く同じ顔ぶれで今度はコンパクトでユニークな単行本を出した。その名も『問題な日本語』。巷(ちまた)ではおじさん、おばさんが「最近の若者のこと ばは問題≠セ」。大学でも教授が「学生の言葉づかいの乱れは問題≠セ」と。まさに問題′トばわりされている表現を集めて「問題な日本語」という、い くぶんコミカルなタイトルの本を作るところが、茶化しているようにも思えておもしろい。取り上げた表現は35項目。いずれも「この表現、問題≠カゃあ りませんか?」というような〔質問〕に対する〔答え〕というQ&A形式を取っているが、これ、実際は〔質問〕というより〔文句〕。で、〔答え〕はという と、「まあまあ、そんないきり立ちなさんな。この表現にもちゃんとわけがあるんだから」といった具合で、〔答え〕というより〔カウンセリング〕みたいなも の。適度に肩の力が抜けているところがいい[2]。 特にところどころに添えられた、いのうえさきこさん[3]の マンガが、読者を思いきり脱力させてくれて楽しい[]

すごいおいしい[5]

 若者が話しことばでよく使う「すごいおいしい」、「すごいうれしかった」の「すごい」。それを言うなら「すごくおいしい」だろう、とおじさん たちは訂正したがる[]。 しかしこの本によると、こうした用法は著名な作家の作品にも見られるらしい。「恐ろしい沢山書いたね」(夏目漱石)、「ものすごいまずい」(野坂昭 如)、「すごい立派な干菓子」(曽野綾子)のように。関西方言の「えらいきつい性格やな」といった表現も古くからあり、関西人なら年輩の人でも使う。そし て、これらは「形容詞の形をした副詞」なのだと結論づけている。なかなかおもしろい。いや、すごいおもしろいではないか。

わたし的にはOKです[7]

 たとえば、「わたし的にはうれしいです」のような用法[]。 これもよく耳にする。大学入試の面接でこの「わたし的には」を連発する受験生がいて、かくも高校生のあいだではふつうの表現になってしまっているのかと 驚いたこともある。この本ではまずこの用法の広がりを報告している。「暮らし的には変わりがない」のように、そのあとに述べようとすることがらの範囲を限 定する用法[9]。 「『嫌ならやめろ』的な考え」のように、少々長い句を受ける用法[10] 、などなど。「〜的」ということばの便利さをまさにフル活用していると言える。驚くのは、これまた「突拍子もねえことを言やあがる的になる」(二葉亭四 迷)との用例[11] が紹介されている点だ。明治時代にもこういう表現はあったのだ。

全然いい[12]

 数年前にカップラーメンのTVコマーシャルで、「麺が全然いい」というコピーが画面いっぱいに現れ、男性タレントがこれを叫ぶのを聞いて驚い たことがある。「全然」とくれば「全然わからない」とか「気分が全然晴れない」のように否定表現(〜ない)といっしょに用いるのがふつうだ。だが、この本 によると、こうした肯定表現での用例は、これまた古くからあるのだという。「下人は始めて明白に、この老婆の生死が、全然自分の意志に支配されていると云 う事を意識した」(芥川龍之介)。
 さらに、こうした肯定表現での「全然」は、ただ程度を強めているだけではなく、「相手の心配や否定的な懸念に反して」という意味に限定されているのだと いう[13] 。たしかにそのカップラーメンの麺のおいしさをだれもが知っていて、いつもどおりおいしかった、というような時には「麺が全然いい」とは言わない。もっと まずいと思っていたが、食べてみると予想に反して麺がおいしい、というようなときにこのように言う[14] 。そうなると、この用法は、「とても」や「非常に」と重なってはおらず、独自の意味をもっていて、それなりの存在価値があるというわけだ。

猫に餌をあげる[15]

 本来「あげる」は「やる」の謙譲語であって、尊敬する相手に対する行為を表すのだという。つまり、「猫に餌をあげる」や「花に水をあげる」 は、猫や花を尊敬しているかのような表現となってしまっておかしいわけだ。しかし今では、この表現に違和感を覚える人のほうが少なくなっている。「やる」 は品がないことばだと感じられるので、上品な言い方にするために「あげる」を使うのだという。つまり、相手に対する敬意は関係ないということだ。つまり、 この「あげる」は謙譲語ではなく、美化語なのだ[16]
 むしろ、「あげる」は今や謙譲語としては使えなくなっているという。たしかに、目上の人に対して、「先生のカバンを持ってあげます」と言うのは相当失礼 な感じだ[17]。 一ランク上の謙譲語「さしあげます」がふつうになって、「あげる」は美化語に降格したわけだ。

「独擅場(どくせんじょう)」VS「独壇場(どくだんじょう)」どっち?

 この本のほとんどのページに「使うのはどっち?」というミニコラムがある[18] 。全部で百8編。さて、問題。「映画の話となると彼の(独擅場・独壇場)だな」は、どちらが正解か。もともとは「独擅場」が正しい。「擅(せん)」の字は 「ほしいまま」の意だが、「壇」と誤読したのがそのまま定着したということだ。さらに、「今では、小説や新聞でも『独壇場』が優勢で誤用と断じがたい状況 だ」と記されている。だれか数人だけが勘違いしているだけなら誤用だが、多くの人がそれを使うようになると誤用ではなくなるということだ[19]

へんな日本語にも理由(わけ)がある

 読者の皆さんは学者≠ニいうとどのような人種を思い浮かべるだろうか。若者ことばをやり玉にあげたがる大学教授≠フような規範性の高い人 種、つまり、規則を重視して人の行動を抑制しようという意識が強い人種というイメージが多かれ少なかれあると思う。この本の編者たちもいわゆる学者≠ナ はあるが、この本が行っている試みはというと、一見、規則から外れていると見えるものから隠されている規則を発見したり、あるいは、たしかに規則から外れ ているが、どうしてそのような現象が発生したかという理由を発見したりしている。この本の帯には「へんな日本語にも理由(わけ)がある。」と書いてある。 いわば、この編者たちは若者のことばの乱れ≠容認し、むしろそれに理屈を与えて弁護しようとしているとも言える。そうしてこの本は、カウンセリングっ ぽいQ&Aにできあがったというわけだ。ただ頭が固いだけの学者よりもなんだかありがたくはないか――実は本来、言語学者というのはそういうものなのでは あるが。

辞書を読む楽しみ

 もともと『明鏡』は、規範性よりも記述性[20]を 重視した点に特徴のある国語辞典であるから[21] 、こうした最新の語法も積極的に取り入れている。たとえば、「すごい」の項@の語釈に、語法として「話し言葉では、『すごい』のままで、『すごく』同様、 連用修飾に使われることがある」とある。そういう用法が良いか悪いかではなく、事実そういう言語実態があるのだからそれを記述しているのである。こんなふ うに、この本が取り上げている語彙が『明鏡』にどのように記されているか、試しに引いてみるのもおもしろいのではないだろうか。新しい日本語について考え る楽しみと辞書を読む楽しみがセットで味わえると思う[22]

目次一覧

 親しみやすい本だと思わせてくれる要因はマンガだけではない。目次もそうだ。目次のページを開いてみると、まず項目がちゃんと列になって並ん でいない。マンガの吹き出しのような枠に入って、ページのあちこちにふわふわ浮いている感じだ。こういうレイアウトを考える編集者もなかなかのものだ。お まけに、ページの順番になっていない。この本、前から順番に読むのがいいのか、目次を見ておもしろそうなページを拾って読めばいいのか──まあ、読者の自 由だが。さらに、各項目に短いことばが添えられている。「なので」の吹き出しのそばに、「日本語は難しい。なので、辞書を引きました。『なので』って接続 詞?」と書いてある。どういう用法のことかがわかって、しかも楽しい感じ。うまくできている。
 書評に目次への評を書くなんていうのも珍しいことだが、せっかくなので、この目次をふつうの目次に直したものをここに載せることにする。項目番号はもと もとついていないが、ここでは便宜的につけた。ついでに、分野を、〔形態〕、〔活用〕、〔語彙〕、〔敬語〕、〔統語〕、〔表記〕、〔新語法〕、〔ぼかし〕 の8種に(あくまで便宜的に)分けたラベルと、筆者名も添えておいた。現時点では誤用、あるいはなるべく使わない方がよい表現とされているものに、「*」 と印をつけておいた。少しはこの本の読者に役立てばと思う。

1  おビールをお持ちしました *〔敬語〕(北原) 12
2  全然いい 〔統語〕(小林) 17
3  私って……じゃないですか *〔新語法〕(砂川) 22
4  コーヒーのほうをお持ちしました 〔ぼかし〕(鳥飼) 26
5  こちら〜になります[23]  *〔敬語〕(矢澤) 30
6  よろしかったでしょうか 〔敬語〕(北原) 35
7  っていうか *〔新語法〕(砂川) 39
8  なので *〔新語法〕(矢澤) 44
9  理由は特にないです[24]  〔活用〕(鳥飼) 47
10 知らなさそうだ 〔活用〕(小林) 52
11 いただいてください 〔敬語〕(北原) 56
12 ふいんき/ふんいき 〔形態〕(鳥飼) 60
13 真っ茶 〔語彙〕(小林) 64
14 やむおえない *〔表記〕(小林) 68
15 わたし的にはOKです 〔ぼかし〕(砂川) 71
16 すごいおいしい 〔統語〕(矢澤) 76
17 お連絡/ご連絡 〔敬語〕(北原) 80
18 メイル/メール 〔表記〕(鳥飼) 87
19 こんにちわ/こんにちは 〔表記〕(鳥飼) 90
20 台風が上陸する可能性があります 〔統語〕(小林) 94
21 おざなり/なおざり *〔語彙〕(小林) 98
22 二個上の先輩[25]  *〔語彙〕(北原) 102
23 昔、その公園で遊んだときがある *〔統語〕(鳥飼) 106
24 とんでもありません 〔活用〕(矢澤) 111
25 猫に餌をあげる 〔敬語〕(北原) 114
26 お連れ様がお待ちになっております *〔敬語〕(小林) 119
27 なにげに 〔形態〕(矢澤) 123
28 きもい・きしょい・うざい 〔形態〕(砂川) 128
29 これってどうよ 〔新語法〕(砂川) 134
30 いう/ゆう 〔表記〕(鳥飼) 139
31 違かった・違くて 〔活用〕(北原) 144
32 みたいな *〔ぼかし〕(矢澤) 147
33 耳ざわりのよい音楽 *〔語彙〕(小林) 151
34 事/こと 〔表記〕(鳥飼) 155
35 話し/話 〔表記〕(鳥飼) 160


参考文献

蒲谷宏・川口義一・坂本惠(1998)『敬語表現』大修館書店
佐藤琢三(1998)「自動詞ナルと計算的推論」、『国語学』192集、国語学会
北原保雄編(2002)『明鏡国語辞典』大修館書店
橋本五郎監修(2003)「新日本語の現場」中公新書
橋本五郎監修(2004)「乱れているか?テレビの言葉(新日本語の現場第2集)」中公新書
山岡政紀(2004)「日本語における配慮表現研究の現状」、『日本語日本文学』第14号、創価大学日本語日本文学会

[]  編者は北原保雄筑波大学名誉教授・独立行政法人日本学生支援機構理事長(『明鏡』刊行時は筑波大学学長)。編集委員は小林賢次東京都立大学教授、砂川有里 子筑波大学教授、辞書学者の鳥飼浩二氏、矢沢真人筑波大学助教授の4氏。なお、評者は『明鏡』執筆協力者として、主に形容詞の項目執筆、校閲を担当した。

[] 本書が肩の力が抜けているのに、その書評が力んだ 文章ではおもしろくないので、適度に脱力した書評にしたい。学術的なコメントは注として添えることにする。用語法も本文では「この本」、注では「本書」と いった使い分けを敢えて意図的に行っている。

[] フリーのイラストレーター。駄洒落が得意らしい(http://www.yz-net.com/inoue/参照)。

[] 「わたし的にはOKです」に「たわし的には桶です」 とか、「老骨にむち打つ」に「トンコツにむちうち」といった駄洒落のイラストや、若者の言葉づかいをコミカルに描いた4コママンガなどが多数掲載されてい る。

[] 担当は矢沢真人氏。

[]  『明鏡』の語釈では「@物事の程度が甚だしく尋常でないさま。A感嘆に値するほどすばらしいさま。B身震いするほど恐ろしいさま。」として、「古くはBの 意。のち、A、@と用法を広げた」との但し書きがある。こうした用法の拡張はそう遠い時代のことではないらしく、若者がほめことばとして「すごい」を用い ることには、「キミの作品、すご〜い!」のような述語用法であっても違和感を覚えるという人が、今でも年輩者には見られる。

[] 担当は砂川有里子氏。

[]  言い換えは、「〜としては」。「わたし的にはうれしい」を例に取ると、感情形容詞文には人称制限があるから、その経験者は第1人称に決まっているはずだ が、本編の説明にもあるように、「他の人はともかく」というニュアンスを付加することになる。つまり、述語の持つ公共性を捨象してその内容を個別化する機 能があると見られる。個別化用法≠ニでも言えようか。「的」は形容動詞を作る接尾語とされる(「比較的、可及的」は副詞)が、この用法では「〜的には」 の形しかなく、「〜のはわたし的だ」とか「わたし的な考え方」などの用法はない。したがって、品詞は「複合提題助詞」とでも呼ぶべきものとなる。

[] 言い換えは、「〜のうえでは」、「〜にかんして は」。主題限定用法≠ニでも言えようか。「結婚生活は暮らし的には変わりがない」のように、二重主題の提示に便利な用法とも言える。これも品詞としては 一種の「複合提題助詞」。

[10]  言い換えは、「〜というような」、「〜といった」か。他者の発言をそのまま引用するのではなく、要約して象徴的な表現にしてから引用する用法と言えよう。 要約引用用法≠ニでも言えようか。直接話法と間接話法の中間的な話法という意味で、引用話法研究においても興味深いテーマとなるであろう。この用法で は、前述の個別化用法や主題限定用法と違って、連体修飾や連用修飾の形があり得る。なお、本書でも取り上げられている「みたいな」にも同様の要約引用用 法≠ェ見られる。

[11] この用例は要約引用用法に当たるだろう。

[12] 担当は小林賢次氏。

[13]  芥川の用例にはこのような意味は見てとれないので、一旦否定との呼応が用法として定着したのちに、この現代的な用法が出現したと考えられる。したがって、 過去の用例とは別物と考えたい。否定との呼応と言っても、形態論的な否定辞との呼応にまで完全に限定されたことはかつてなく、「全然違う」、「全然かけ離 れている」のような意味論的な否定を含む句においてはもともと使用可能であった。今問題にしている現代的用法は、それがさらに、「ケガはない?」、「全然 大丈夫」のように、文脈上の前提を否定するような主張を行うケースにまで発展したものと言える。いわば、語用論的な文脈否定を含むケースにまで使用範囲が 拡大されたということである。つまり、「全然ケガはないよ」、「全然心配は要らないよ」と相手の心配を否定するつもりで「全然大丈夫」と言っているのであ る。

[14]  「全然」には、もう一つの用法として、二つの事柄を比較して、その差の大きいことを強調する用法もあることが述べられている。この用法は「断然」との類似 によるものと推定されている。「麺が全然いい」というコピーも、「他社製品と比べてはるかにいい」とのニュアンスが読み取れなくもない。どちらに解釈して も、商品をアピールする効果はある。どちらかに決まらないからこその多元的な効果もあり得る。

[15] 担当は編者・北原保雄氏。

[16] 日本語の敬語の種類には、従来から知られる尊敬 語、謙譲語、丁寧語のほかに、最近の研究で美化語、丁重語の二つが追加されている。美化語としては、「お花」や「お米」の接頭辞「お」などが指摘されてい る。蒲谷他(1998)など。「減ったうまい めし食おう」に対応する「おなかす いたおいしい ごはん食べよう」の傍線の各語はいずれも 美化語である。本書でも取り上げられている「桜が咲いております」も謙譲語ではなく美化語または丁重語と考えるべきものである。

[17]  この件については、謙譲語のレベルが移行したのとは別次元の要因が働いていると評者は考える。本書にも「『あげる』という行為は、相手に恩恵を与える行為 ですから、どうしても恩を着せる感じを伴うことになり、相手を尊敬することと馴染まなくなるのでしょう」と指摘されているが、他者に対する与益行為を言語 的に表現することを避けたがるのは一種の配慮表現と見られる。山岡(2004)参照。この考えに従えば、「さしあげる」を用いて 「先生のかばんをお持ちしてさしあげます」としても、何となく「先生」に対して失礼な感は免れない。むしろ「先生のかばんを持たせていただきます」のよう に自分を与益者ではなく受益者とする表現の方が好まれる。

[18] 担当者は鳥飼浩二氏。コラムの企画はテレビの料理 番組を意識したものだろうか。

[19]  単に字を誤読したというより、「擅」が見慣れない字であるため、類似の「壇」から「だん」という読みを類推し、「どくだんじょう」という読みの語が定着し たのちに、その音から「独壇場」という表記を逆に類推したのではないか。というのも、「独断場」という表記までもが散見されるが、これなどは字形からの類 推ではあり得ず、「どくだんじょう」という音からの類推としか考えられないのである。果たして「独擅場・独壇場・独断場」、正用と誤用の境界線はどこか、 実は難しい問題である。ちなみに、落語家の立川談志は「独断場」という名の独演会を開いている。さらに、「どくだんば」という読みもあるようだが、さすが にそこまで行くと完全な誤用と言わざるを得ない。

[20]  規範的辞書と記述的辞書の関係をわかりやすくするために、ある政治家が原稿を用意して記者会見したときの、政治家の原稿と記者の筆録の関係にたとえてみた い。原稿どおりに話そうとする政治家の態度は規範的態度であり、話したとおりに記録しようとする記者の態度は記述的態度である。同様に、辞書に記した「正 しい語法」どおりに話者が話すように作られた辞書が規範的辞書であり、いっぽう、話者が実際に使っている語法を写し取ってその実態をまとめた辞書が記述的 辞書である。文法における規範文法と記述文法の関係も全く同じである。ただし、話者は大勢いるので、当該の語法、文法がどの程度浸透しているのかについて は、「ゆれ」などの中間的な段階がある。その実態に即してそうした言語現象を現段階では誤用であると認定することは記述文法においてもあり得る。本書にお いても、表現の存在を認め、その原因を考察しつつも、現時点では誤用と認めるべきとしている項目が少なからずある。浸透度については、聞き取り調査を行っ て統計処理することも必要である。

[21]  こうした特徴が『明鏡』だけに見られて、他の辞書にはないとまで主張するものではないが、特にその意識を強く持った辞書だということは確かである。評者に おいても、項目執筆に当たってはすべて用例検索し、実例での意味・用法を確認しつつ記述的に執筆した。他の辞書との比較については、ここでは省略する。

[22]  「全然」の項――「@《下に否定的な表現を伴って》全面的な否定を表す。A〔俗〕程度の差が明らかであるさま。B〔俗〕非常に。とても。」とある。肯定表 現での用法は、俗用(俗語)との表示つきとはいえ、AとBとして、@とは区別されて語釈、用例が示されている。誤用では辞書には載せないので、俗用では あっても、そのような用法自体は成立していると見なしていることになる。Bの語釈は物足りないが、本書が補完していると考えたい。

「あげる」の項――語釈が40種にも分かれている超 多義語だが、その(29)に は「『やる』を上品にいう語。」との語釈につづいて、次のような但し書きがついている。「本来は相手の人を高めて言うべきものとされるが、今はむしろ同等 またはそれ以下の人に使う。近年は『金魚に餌をやる』『花に水をやる』など動植物に対してもいう。」この点も記述的である。

  「独壇場」の項――見出し語としては載っているが、語釈の代わりに「↓どくせんじょう」と書いてある。「独擅場」の項には「その人だけが思いのままにふる まうことのできる場所や場面」との語釈のあとに、「『擅』を『壇』と誤ったことから『独壇場』の語が生じた」と書いてある。

[23]  佐藤(1998)では、「春男は太郎のいとこにな ります」といった文を成立させるのは、計算的推論という一種の認知プロセスであると主張している。

[24]  評者が勤務する創価大学の卒業生・岸田栄子は卒業 論文で、動詞述語の否定形の二種の使用例を比較し、「食べません」は未来の行為 への 否定意志、「食べないです」は超時的な習慣の描写と使い分けの傾向が見られることを 報告している。

[25]  関西方言に副詞「全然」の意味で否定と呼応する 「いっこも」というのがある。「いっこも知らん」、「そんなこと、いっこも言うてへんで」のように用いるが、語源意識として は「一個も」のはずである。この種の表現が標準語に影響している可能性はないだろうか。


(『日本語日本文学』第15号、創価大学日本語日本文学会より)

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