主師親の三徳の現代的意義

学生部長 山岡政紀


 

日蓮仏法とは、法華経に描かれている「生命の尊厳観」を、信仰者自身の生命において事実として表していくことを信仰の根幹として示した教えである。

 

「生命の尊厳観」には二つの視点がある。一つは法華経迹門十四品(前半14章)で示される「生命の平等性」であり、いま一つは法華経本門十四品(後半14章)で示される「生命の永遠性」である。

法華経はその二つの尊厳観を、単なる静的な真理として述べたのではなく、実際に人間生命に表れる現実の不平等や、生死という自身の消滅の恐怖や苦悩に目を背けることなく、それらとの対峙、挑戦、超克を通して、実践的に獲得されていくべき動的な真理を内包した経典である。

法華経は中国の天台大師智によってその法理が詳細に分析され、仏法東漸の末に、伝教大師最澄によって日本にわたった。そして、法華経の動的な真理を事実の上に現じてみせたのは鎌倉時代の日本に生きた日蓮大聖人(1222-1282)であった。大聖人は、同時代の日本の人々のみならず、後世の全世界の人々すべてがそうした人間の本質的な苦悩を超克し、法華経が説く生命の尊厳を事実として獲得できるようにするために、法華経の文底に秘し沈められていた実践の方途を根本の法(下種仏法)として取り出して示したのである。

だからこそ日蓮仏法は、それを信仰する人間を根本的に変革させる「人間革命の法」と言えるのである。現代の人々に生活のなかに、この「人間革命の法」を事実として顕現させたのは、今日の創価学会である。

 

日蓮大聖人は、実践の方途を万民に示すために、自身が法華経に描かれている通りの人生を現じてみせた。それゆえに、自身が「法」の体現者として尊崇されるべき「仏」であることが説得的に主張されている。つまり、日蓮大聖人こそ、末法の御本仏であり、そのことを最も直接的に表現した御書が「開目抄」である。これをもって、「開目抄」は、日蓮遺文のなかでも重書中の重書たる「人本尊開顕の書」とされるのである。

 「開目抄」において、末法の御本仏の基準として示されているのが「主師親の三徳」である。同抄冒頭は、「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」(全集186頁。現代語訳すべての人が尊び敬うべきものが三つある。いわゆる主・師・親である。)との書き出しで始まる。主人は従者を庇護する徳を有し、師匠は弟子を教導する徳を有し、親は子に慈愛をもって育む徳を有する。古来の儒教やバラモン教なども、それぞれにこの三徳を示しては来たが、その説く法が孕む生命の不平等と有限性のゆえに、それは限定された徳に過ぎなかった。それに対して仏教の肝要たる法華経は、生命の平等性と永遠性を明らかに説いたがゆえに、それを衆生に示す行為こそ、最も尊き主師親の三徳となるのである。あらゆる生命の仏性が平等に説かれるからこそ、その法をもって衆生を庇護し、教導し、慈愛する三徳は偉大であり、また生命の永遠性が説かれるからこそ、三徳は三世にわたる深恩となるのである。

 

生命の平等性と永遠性を、身をもって衆生に示す行為を真に実践している者は誰か、それは日蓮以外にないと、余計な謙遜などをいっさい排して大聖人は高らかに宣言する。その現証として、法華経が予言する通りの三類の強敵の迫害に遭い、乗り越えた自身の人生を述べている。

 法華経の真理に迷った当時の諸宗は、正邪が入り混じり、雑乱を極めていた。その中で邪義を邪義として破折し、真実を訴え抜いたことにより、大聖人は法華経が示す通りの難を受けた。権力者にたびたび襲われ、居住地を追い出され、鎌倉の竜ノ口では斬首刑寸前にまで至り、そして佐渡に流罪となり、文永九年(1272)のそのとき、極寒の冬を越しながら、不自由な環境のなかで開目抄を執筆していたのである。

 その開目抄後半に、本抄の結論・肝要とも言うべき「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」の文言に引き続いて述べられる、「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。」(全集232頁。現代語訳日本の柱となる。私日本の眼目となる。私日本の大船となると誓った願いは断じて破るまい)である。末法の衆生を「柱」として庇護し、「眼目」として教導し、「大船」として慈愛し、育むことは、立宗のときの誓いであった。そしてその誓いを今日まで貫いてきたがゆえに、経文通りの難を受けきってきたのだとの、大確信に基づく断言である。これをもって、自身こそは末法の衆生にとって主であり、師であり、親であり、三徳具備の末法の本仏であることを高らかに宣言している。すなわち、本抄の末尾に当たる箇所に、「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」(全集237頁。現代語訳日蓮は日本国のあらゆる人にとって、主であり、師であり、父母である。)と。

 

 このように見ると、主師親の三徳というのは、決して神秘的なものでも超自然なものでもない。生命の尊厳の法はどこまでも深遠で尊いが、それを衆生に示していく仏の振る舞いは生身の人間的要素に裏付けられたものなのである。すなわち、衆生を庇護する主の徳を支えるのは「勇気」であり、衆生を教導する師の徳を支えるのは「智慧」であり、衆生を育む親の徳を支えるのは「慈悲」である。これはそのまま、現代において求められる指導者像そのものでもある。この「勇気」と「智慧」と「慈悲」をすべて具えた指導者こそ、我らが創立者・池田大作先生、その人である。

 

 先に、日蓮仏法とは「人間革命の法」であると述べた。池田先生はこの「人間革命」について、“智慧”と“慈悲”と“勇気”の「大我」を開きゆくこと、と述べている(池田(1995))。つまり、平和のため、民衆のために生きる、真のリーダーたる徳を自身に備え持つことこそが、「人間革命」なのだと主張しているのである。

さらに、池田先生がかつてコロンビア大学ティーチヤーズ・カレッジで行った講演では、21世紀の人類が目指すべき「地球市民」の条件を3点に要約している(池田(1996))。

一、生命の相関性、すなわち縁起の法を深く認識する「智慧の人」

一、人種や民族や文化の“差異”を恐れたり、拒否したりするのではなく、相互に尊重し合う寛容の心を持ち、成長の糧(かて)としゆく「勇気の人」

一、身近に限らず、遠いところで苦しんでいる人々にも同苦し、連帯しゆく「慈悲の人」

これも、主師親の三徳の現代的展開と言えよう。第一に、他者との相互関係性を理解するには、局所的な利害を超克して、全体観に立ち得る透徹した「智慧」が求められる。これは師の徳による。第二に、民族間の文化的差異につきまとう恐怖や嫌悪感を捨てて、相互尊重の精神に立つには「勇気」が求められる。他者に対する優越感であれ、劣等感であれ、それを超克して絶対的平等の位置に立つには、強い意思と勇気が必要なのである。これは主の徳による。第三に、眼前にいる者のみならず、時空を超えて他者を思いやるには、「慈悲」が求められる。これは親の徳による。

 

創価大学もこの意味において「地球市民」の育成を目指す、人間教育の学舎である。そのことは、本学のミッションステートメントにも記されている通りである。2007年に発足した文学部人間学科に創立者から頂いた三指針の一つには「人類を結ぶ世界市民たれ!」との言葉が示されている。池田先生の比類なきリーダーシップを、あとに続く青年にも継承し、世界平和のための人材の流れを永続せしめんとして、創価大学は創立されたのである。

 

大学は教育の場である以上、その教育哲学は普遍的なものであらねばならない。学生がいかなる信仰を持とうとも持つまいとも、すべての学生は信仰の宗派性を超えて普遍的教育哲学の恩恵に浴する権利があるし、また、教職員は一切の差別なくその恩恵を与えていく義務がある。しかし、そのこととその普遍的教育哲学の底流に仏法の理念が流れているという厳然たる事実とは何ら矛盾しない。本稿でこれまで見てきたように、仏法の哲学は現代の普遍的な言葉で語り得るものであり、創立者もそのような態度で創価大学の教育理念を示してこられた。人間教育のあり方もまた、普遍的教育哲学として開かれていくものである。その意味では、創価大学の日常において、このような仏法の理念が語られることが特に必要であるとは言えないのである。ただ、それを創立者の内心に迫ろうとの内発的な動機づけによって、自ら日蓮仏法を研鑽しようとする生命哲学研究会の学生諸氏の尊き探求心に共鳴し、敢えてこの一文を記した次第である。

 

参考文献

池田大作(1995)平和と人間のための安全保障1995年1月26日、ハワイ東西センター講演、池田大作(1996)『21世紀と大乗仏教』(海外諸大学講演集)聖教新聞社刊所収)

池田大作(1996)「『地球市民』教育への一考察」(1996614日、コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジ講演、『聖教新聞』1996616日付所収)

堀日亨編(1952)『日蓮大聖人御書全集』創価学会(=全集)

第2総東京男子部編(200102)「開目抄現代語訳」(『大白蓮華』20015月号〜200210月号)

 

2008.12.5 (『生哲』第34号 創価大学生命哲学研究会会誌に寄稿)


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