〔寄稿〕 地涌の菩薩とヒューマニズム
はじめに
誰に強制されたのでも、誰に指示されたのでもなく、自らの自発的な思いによって日蓮仏法の大生命哲学を学ぶべく集った生命哲学研究会の諸君の健気な求道心に応えるべく、私自身の最近の信仰活動を通じて強く心に刻んだ日蓮大聖人の御書と師匠池田大作先生の教えをこの際整理し、拙い文章にまとめてみたいと思う。
法華経における地涌の菩薩の出現
仏法には釈尊が説いた八万法蔵と呼ばれるおびただしい数の経典が存在し、それぞれの経典が競い合うかのように「仏」の尊極の姿を描き出していた。日本の浄土宗が信仰した阿弥陀如来も、真言宗が信仰した大日如来も、この現実の濁世とは隔絶した清浄な世界にいることが釈尊の経典に説かれていた。
しかし、それら八万法蔵はすべて仮の教えに過ぎず、釈尊自身が出世の本懐とする究極の真理は、涅槃経を除いて最後に説かれた妙法蓮華経(以下、法華経)にすべて凝縮されている。この法華経には、かつて説かれてきたどの仏よりも長遠な生命を持ち、どの仏にも優る究極の尊厳を表した真実の「仏」が説かれている。それは法華経の主人公であり、したがって仏法の主人公でもある、その尊極の「仏」が「地涌の菩薩」だというのである。
そのこと自体がもはや革命的である。法華経以前の教えにおいては、生命の境涯を十種に立て分けた十界論において、「仏界」と他の「九界」との間には決定的な断絶があった。菩薩は九界の側の衆生であって、いかに利他行で徳を積んでも仏にはどうしてもなれなかった。
私たちは現実の人生において、病気、経済苦、人間関係の悩み、自身に対するコンプレックス等々、様々な苦悩に苛まれている。即ち、@地獄、A餓鬼、B畜生の三悪道、これにC修羅を加えた四悪趣そのものである。平静なるD人界の時もあり、喜びのE天界の時もあって、通常はこの六つの境涯を行ったり来たりしている(六道輪廻)。そして私たち人間は、時に道を求めて他者から学ぼうとし(F声聞)、時に自身の思索によって真理に迫ろうとし(G縁覚)、時には真理を通じて他者を救済しようとする(H菩薩)。このように、九界における最上の境涯が菩薩であった。法華経には地涌の菩薩のほか、釈尊の教化を受けた多くの菩薩たちが登場するのだが、ここで、法華経の展開を振り返りながら菩薩たちの登場の仕方を見てみよう。
その前に法華経の構成を確認したい。法華経は章に当たる28の品から成るが、前半・後半を次のように立て分ける。
迹門 前半14品(序品第1〜安楽行品第14)
本門 後半14品(従地涌出品第15〜普賢菩薩勧発品第28)
いっぽう法華経の説法の舞台は、次の3つに区分され、二処三会と言われる。
前霊鷲山会(序品第1〜法師品第10)
虚空会(見宝塔品第11〜嘱累品第22)
後霊鷲山会(薬王菩薩本事品第23〜普賢菩薩勧発品第28)
霊鷲山は釈尊が実際に説法を行ったとされるインドの実在の地であるのに対し、虚空会は大空に突如、巨大な宝塔が出現し、釈尊と多宝如来の二仏が浮かび上がって宝塔の上から法を説く、壮大な生命のドラマである。
法華経には冒頭の序品から(厳密には開経に当たる無量義経の最初から)8万の諸菩薩が登場する。彼らは法華経以前の経典から、有限の生命である生身の釈尊(始成正覚)の教化を受けて修行を積んできた長いつきあいの弟子たちである。彼らを迹化の菩薩という。その中には地涌の菩薩の姿は全くない。
これに対し、見宝塔品第11からの虚空会が続くなか、後半の本門に入り、従地涌出品第15で六万恒河沙と言われるおびただしい数の地涌の菩薩が地より涌き出でる。一人の地涌の菩薩がさらに六万恒河沙の地涌の菩薩を眷属として引き連れているというから、その数たるや想像を超えた膨大な数である。この地涌の菩薩たちが宝塔を中心に虚空を埋め尽くす。その姿はもともと霊鷲山にいたどの菩薩たちとも異なる荘厳な姿をし、そればかりか過去の仏たちにもまして光り輝いている尊極の姿をしていた。彼ら地涌の菩薩を迹化の菩薩と区別して本化の菩薩という。このように法華経では、同じ菩薩でも迹化の菩薩と本化の菩薩の2種類を厳然と立て分けられている。
では九界の衆生である地涌の菩薩が過去の仏たちよりも尊極の姿をしているというのはどういうことか。そのことを日蓮大聖人の御書「諸法実相抄」(p.1358)をもとに学んでみたい。
地涌の菩薩の本義を説かれた「諸法実相抄」
日蓮大聖人は三度にわたる国家諫暁の末に文永8年9月には斬首刑が未遂となった竜ノ口法難を経て同年11月に佐渡ヶ島に流罪となる。そして、畳の上に雪が積もると言われた佐渡の塚原三昧堂で、日蓮大聖人はふた冬を忍ばれながら「開目抄」(文永9年2月)、「観心本尊抄」(文永10年4月)と2編の重書を著されている。
「諸法実相抄」(文永10年5月)にはこれら両重書のエッセンスが凝縮されていた。しかもそれを「地涌の菩薩」としての生き方へと展開され、弟子に実践を促す指南書とされている。もし勝手に別名をつけることが許されるなら、法華経のエッセンスを集約しているという意味で「法華経抄」、末法において地涌の菩薩に法華経の実践を勧める御書という観点から「法華経の実践抄」、あるいは「地涌の菩薩抄」と呼びたくなるような御書である。
「諸法実相抄」の前半は法華経迹門14品のエッセンスとして、方便品第2の最大の眼目である諸法実相の法理が展開さている。具体的には十如是を通して仏と九界との間に差別が無いことを明らかにする。九界の衆生たちは皆、未来に仏になる記別を受ける。@地獄界の衆生とされた提婆達多も、B畜生界の衆生である竜女も、そして自らの智慧に固執するが故に絶対に成仏しないとされてきた二乗(F声聞とG縁覚)の代表格だった舎利弗も未来成仏の記別を受ける。これらによっと仏と九界の差別がなくなり、一切衆生の平等が説かれる。これは天台大師智によって十界互具、一念三千の法理として示されている。
「諸法実相抄」ではこれについて次のように述べられている(以下、日蓮遺文の頁・行は堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』による)。
されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり(1358頁11〜15行)
釈尊と多宝如来の二仏も、仏の本体そのものではなく、仏の力用(働き)を示すために現れた影のようなものであって、実は凡夫こそが仏の本体なのだという。こんなに苦悩に満ちている私たち凡夫が等しく尊い仏の当体であってその中には全く差別がないのだ、と。仏界即九界、九界即仏界という、それ以前の経典での大前提を根本から覆す革命的な法理が、この「凡夫こそ本仏」との端的な表現の中に示されている。ここに、地涌の菩薩が九界の衆生である菩薩として出現することの本義がある。要は、地涌の菩薩とは凡夫そのものなのである。天から下りてくるのではなく、地から涌いて出てくるのは、空想や幻想の世界の住人ではなく、どろどろとした現実世界の住人であることを意味している。一切衆生の絶対平等を体現した存在である地涌の菩薩を主役とするからこそ、法華経はヒューマニズムの経典と言えるのである。
地涌の菩薩は平等性だけを表しているのではない。一切衆生の絶対尊厳を示すために生命の永遠性を託された存在でもある。引き続き諸法実相抄の一節を拝したい。
地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや(1360頁7行、傍点は本稿の筆者)
法華経前半14品では釈尊は始成正覚の仏であった。しかし、法華経後半に入って従地涌出品第15で地涌の菩薩が出現したことによって迹化の菩薩の一人である弥勒菩薩が疑問を抱き、いったいこれらの菩薩たちをあなたはいつ教化してきたのかと釈尊に問う。これに対する釈尊の答えの一節を、本抄ではこのように引用している。
経に云く「我久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり(1360頁7-8行)
これは間接的に仏の生命の永遠を説いたもので(略開近顕遠)あるが、これが弥勒菩薩に仏の寿命に対する根本的な疑いを抱かせ(動執生疑)、そして続く如来寿量品第16ではこれに答える形で久遠実成、即ち仏の生命の永遠性を正面から説く(広開近顕遠)。生命の永遠性、つまり生命は決して一時的でかりそめのもので、偶然に生まれて偶然に消えていくような儚いものではなく、永遠性という長遠な、深い意味をもって存在しているということである。ゆえに生命の永遠性は生命の絶対尊厳性を表すのである。
久遠実成という真実の仏の寿命は釈尊自身の生命の久遠として述べられるが、それは地涌の菩薩の永遠性を根拠として述べたものであるから、広開近顕遠といえどもまだ間接的である。末法今時においては、地涌の菩薩の永遠性こそが一切の間接性を排した究極の生命の永遠性を体現している。釈尊の弟子としての地涌の菩薩は法華経における比喩的な現れ方にすぎないのであって、本質的に言えば地涌の菩薩は遠い、遠い過去に仏の教化を受けて仏になったのではなく、最初から仏だったのである。「御義口伝」には、「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」(75頁13行)とある。
ゆえに法華経文上において釈尊の久遠実成を明かす立場から言えば日蓮大聖人は地涌の菩薩のリーダーたる上行菩薩の再誕であるが、法華経の文底にある地涌の菩薩こそ究極の久遠の本仏とする立場からは日蓮大聖人を久遠元初自受用身と呼ぶ。この観点から見たとき、地涌の菩薩は生命の絶対尊厳を表していると言うことができる。
このように、法華経の虚空会の主役を釈尊から奪うかのように地から湧いて虚空に出現した地涌の菩薩は、一切衆生の絶対平等と一切衆生の絶対尊厳を表す存在なのである。
弟子たちに地涌の菩薩の自覚と実践を促す
日蓮大聖人は地涌の菩薩のリーダーとして末法広宣流布の使命を託された上行菩薩の実践を経文通りに果たしてきた事実をもって、経文の中の言葉をリアルな現実へと力強く引き寄せていかれる。
地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし、若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば豈に日蓮が弟子檀那地涌の流類に非ずや(1359頁13-15行)
まさに「我こそ地涌の菩薩である!」という宣言である。それと同時に、「私が地涌の菩薩である以上、その弟子となった君たちもまた、地涌の菩薩の眷属でないわけがない」と強く断言されているのである。
末法の衆生は誰もが等しく地涌の菩薩である。しかし、そのことを自覚するのとしないのとでは、生き方が大きく違ってくる。地涌の菩薩であることを自覚することによって、苦悩が成長のための試練に変わり、欠点と思っていたものが長所に変わり、目標を見失っていた自分自身の中に人生の使命を見出すのである。
では、地涌の菩薩であることを自覚するとはどうすることなのか。大聖人は諸法実相抄後半に入り、次のように述べられる。
いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、(1360頁6〜7行)
「信心をいたす」、「日蓮が一門となりとをす」、「日蓮と同意」。日蓮と同じ生き方をすることを勧めたこれらの言葉は、すべて内発性、能動性を含意する言葉である。他人に言われて受け身的に日蓮門下に入っても全く意味がない。自身の本心において「信心を求め」、「日蓮大聖人の弟子としての生き方を貫き」、「日蓮大聖人と不二の心で」実践をしていくことを勧めているのである。日蓮大聖人は大悪大善御書で「上行菩薩の大地よりいで給いしには・をど(踊)りてこそいで給いしか」(1300頁8行)と述べられているが、これに対して池田大作先生は、この「躍り出る」について、自発性を象徴する表現と捉えられている(池田大作(2012)p.198より)。
そして、特に「日蓮と同意」との言葉は重要である。日蓮大聖人は地涌の菩薩の自覚をされたがゆえにたびたびの法難を耐え忍んでこられた。それと同じ不二の心で実践をするということは相当な覚悟を意味する。そして本抄のこの言葉は、その覚悟を敢えて促す激励の言葉と拝したい。
地涌の菩薩が体現するヒューマニズム
「諸法実相抄」では弟子たちに地涌の菩薩の実践を促す文がさらにこう続く。
末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし、ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし、(1360頁8-11行)
日蓮門下となって法華経を弘めようとする人は、誰であれ、男女の別に関わりなく、地涌の菩薩であるとの確信あふれる断言である。この「男女はきらふべからず」は人間を分類していくことの差別観の打破を象徴するものである。鎌倉時代の武家社会における男尊女卑を乗り越えることで、絶対的に尊い使命をもった地涌の菩薩に、相対的な優劣などあるはずがないと訴える。当時の日蓮門下には社会の最下層に位置づけられていた貧しい農民や漁民たちが多く入信していた。この文には、自分のような身分の卑しい者が本当に地涌の菩薩たり得るのだろうかといった弟子の迷いをいっさい打ち払うような力強さがある。彼らがまさに「地から躍り出る」ように、歓喜をもって仏法を伝えていくならば、それはあの虚空会に連なった地涌の菩薩に他ならないという断言であり、そして、広宣流布とはそうした無名の庶民による一人から一人への対話によって実現していくのだという方程式を示されているとも言える。
このように一切衆生の平等性と永遠性を表す「地涌の菩薩」は現代の言葉で言うところのヒューマニズム(人間主義)を体現した存在である。ヒューマニズム(人間主義)とは、一人ひとりのありのままの人間を尊重する精神であり、人間疎外の対概念である。日蓮大聖人の時代には政治と宗教が一体化し、「信教の自由」という概念はまるでなかった。日蓮大聖人は宗教弾圧によって、不当な死罪、流罪にたびたび直面した。こうした幕府による人間疎外に対して日蓮大聖人は敢然と立ち向かって真のヒューマニズムを宣言された。
現代においても、軍国主義を標榜して大東亜帝国の建国を目論んだ第二次世界大戦当時の日本政府は、信教の自由を無視し、人間生命を手段化し、ひたすらに人間疎外の道を盲進していた。その誤りをきっぱりと否定し、国家権力と対峙したことによって、治安維持法違反の罪を問われ、逮捕・投獄を余儀なくされたのが、創価教育の父・牧口常三郎先生とその弟子・戸田城聖先生であった。牧口先生は老齢にも拘わらず転向することなく意思を貫いて1944年11月18日に獄中にて75歳の尊い生涯を閉じられた。戸田先生は過酷な獄中という環境で何度も法華経を読み返し、そして200万遍の唱題の中、地涌の菩薩の使命を自覚される。そして、出獄して終戦を迎えたのち、広宣流布の陣頭指揮を執られ、無名の庶民の一人ひとりに地涌の使命を伝え、本抄の文の通りに「二人、三人、百人と次第に唱えつたえ」ていかれた。まさに地涌の菩薩の使命を実行に移されたのであり、そしてそれは巨大な人間疎外に苦しんだ日本国民に希望の灯をともす偉大なヒューマニズムの戦いであった。
地涌の菩薩の自覚の涙
「諸法実相抄」の終盤は、日蓮遺文のなかでも異例なほど、感情の高まりが文学的な文章で記されている。
日蓮は其の座には住し候はねども経文を見候にすこしもくもりなし、又其の座にもやありけん凡夫なれば過去をしらず、現在は見へて法華経の行者なり又未来は決定として当詣道場なるべし、過去をも是を以て推するに虚空会にもやありつらん、三世各別あるべからず、此くの如く思ひつづけて候へば流人なれども喜悦はかりなしうれしきにもなみだつらきにもなみだなり涙は善悪に通ずるものなり(1360頁13-16行)
日蓮大聖人は、自分が虚空会のその場にはいたのかどうかは凡夫だから過去のことはわからないと、今生に凡夫として生まれてきた立場(示同凡夫)から述べるが、経文に照らして見れば、今このように法華経の行者として戦い、難を受けて佐渡にまで流されているということは、虚空会のその場にいた地涌の菩薩であったことは疑いない、との確信である。そう思いつづけていると、流人だけれども喜びが計り知れない。地涌の菩薩として経文を証明していることの喜びにも涙があふれ、極寒の佐渡で食べ物も乏しいその辛さでも涙があふれる――この文脈で有名な「涙は善悪に通ずるものなり」の一節が生まれ出ている。
彼の千人の阿羅漢仏の事を思ひいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者はなきながら如是我聞と答え給う、余の九百九十人はなくなみだを硯の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり、今日蓮もかくの如し、かかる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり、釈迦仏多宝仏未来日本国の一切衆生のためにとどめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと、かくの如く我も聞きし故ぞかし、現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだせきあへず、鳥と虫とはなけどもなみだをちず、日蓮はなかねどもなみだひまなし、(1360頁16行-1361頁6行)
釈尊滅後の仏典結集の際に、釈尊の弟子たちが師匠の教えを思い出しては涙を流しながら「如是我聞(=このように私は師匠から聞いた)」と述べて経典の文字として書き記して言った。それと同じように、今、日蓮は、末法の一切衆生のために法華経の真実である南無妙法蓮華経をとどめおこうとしているのだ、と。ここでも再び、現在に大難を受ける苦悩の涙と、未来の成仏を思う歓喜の涙との、善悪に通じる涙を流している。そして、「鳥と虫とは啼いても涙は落ちない。日蓮は泣かないが涙が止まらない」と、美しい文章でその深い心情を吐露している。
末法今時において地涌の菩薩の自覚をし、「日蓮と同意」の戦いを起こせば、難はつきものである。しかし、その難を全身で受け止めて歓喜していく境涯、まさに九界即仏界の境涯を弟子たちに全魂込めて伝えようとしているのである。
創価学会第二代会長戸田城聖先生は、国家権力と闘って獄中闘争をされている最中、何度も何度も法華経を通読し、御本尊のない3畳一間の狭い独房で200万遍の唱題をされながら、「日蓮と同意」の境涯を経験された。その時の体験を戸田先生は小説『人間革命』で、自身をモデルとする主人公巌さんの獄中闘争の体験という形で吐露している。独房の巌さんは法華経の真理を知りたいと苦悶し、ひたすら唱題しては法華経を読み、また唱題を重ねていた。そして、従地涌出品第15の地涌の菩薩が出現する経文を読み込むなか、深い思索の末に自分自身がまさにその地涌の菩薩の一人としてその場にいることを確信する。「これは嘘ではない!自分は今、ここにいるんだ!」と。そして両眼から涙があふれ出し、泣き続ける。それは日蓮大聖人が流罪の佐渡の地で流した涙と同じ涙だった。そして胸中にこう叫ぶ。
(おお!おれは地涌の菩薩ぞ!日蓮大聖人が口決相承を受けられた場所に、光栄にも立ち会ったのだぞ!)(中略)(よし!ぼくの一生は決まった!この尊い法華経を流布して、生涯を終るのだ!)(小説『人間革命』pp.464-465)
戸田先生の弟子・池田先生は、師匠の尊い生涯の真実を後世に残すべく、同名の小説『人間革命』全12巻を著すが、この場面はその第4巻「生命の庭」の章(pp.14-20)に、さらに克明に記載されている。戸田先生が戦後の混乱期に、決然たる確信で庶民の一人ひとりに希望の灯火をともし、第二代会長就任の1951年から逝去の1958年までのわずか7年間で、当初3千世帯程度に過ぎなかった創価学会を75万世帯へと発展させ、願業を達成される。まさに「諸法実相抄」に示された通りに、戸田先生一人から二人、三人、百人と唱えつたえ、75万世帯の地涌の菩薩として、大地から出現させたのである。
地涌の実践を継承した戸田先生と池田先生
しかし、その道が多難であったこともまた、池田先生の小説『人間革命』に克明に描かれている。
昭和20年11月18日、牧口常三郎の一周忌法要において多くの牧口門下生が弔辞に立ち、ある者は弁舌さわやかに牧口の教育者としての業績を語り、ある者は戦後民主主義について物知り顔に語る。しかし、戦中に師匠を裏切って転向した彼らの中には「師の遺志を継いで広宣流布をやり遂げる」と述べた者は一人もいなかった。最後に弔辞に立った戸田は牧口の死を聞いたときの悲嘆を吐露したあと、こう述べる。
われわれの生命は、まちがいなく永遠であり、無始無終であります。われわれは、末法に七文字の法華経を流布すべき大任を帯びて、出現したことを自覚いたしました。この境地にまかせて、われわれの位を判ずるならば、所詮、われわれこそ、まさしく本化地涌の菩薩であります。(中略)話に聞いた地涌の菩薩は、どこにいるのでもない、じつに、われわれなのであります。私は、この自覚に立って、いまはっきりと叫ぶものであります。――広宣流布は、誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。(『人間革命』第1巻「一人立つ」の章、p.194、下線部は本稿の筆者)
このように戸田は、地涌の菩薩の自覚をもって、広宣流布の宣言をする。しかし、その場にいた多くの人は怪訝な面持ちで、戸惑っていたという。その法要の帰路、戸田は自作の詩を歌う。
我れいま仏の旨を受け/妙法流布の大願を/高く掲げて一人立つ/味方は少なし敵多し(中略)捨つる命は惜しまねど/旗持つ若人いずこにか/富士の高嶺を知らざるか/競うて来れすみやかに(同p.197)
広宣流布に共に戦う青年の出現を待望する詩の最後の一節に呼応するかのように、2年後の昭和22年8月14日、座談会の場で当時19歳の池田大作青年は戸田先生との出会いを果たす。その場面もまた、池田先生自身が『人間革命』に具に記している。
座談会の質疑応答が終わったあと、山本伸一青年(池田大作先生をモデルとする登場人物)を連れて来た同窓生が戸田に伸一を紹介する。伸一は、「正しい人生とは?」「ほんとうの愛国者とは?」「天皇をどう考えるか?」と、三つの質問を戸田に投げかけるが、戸田は迷いなく、無駄のない懇切丁寧な回答を誠実に答えていく。心打たれた伸一青年が、その場で即興の詩を詠じる。
旅人よ いずこより来り いずこへ往かんとするか・・・(中略)心の暗雲をはらわんと 嵐に動かぬ大樹を求めて われ 地より湧き出でんとするか(『人間革命』第2巻「地湧」の章p.227、下線部は本稿の筆者)
このとき山本伸一青年、すなわち若き日の池田先生は「地涌の菩薩」という言葉を知らなかったという。しかし、この不思議な一致は、戸田先生を人生の師匠として定めようと心に期したがゆえの使命の自覚が迸り出たものであったに違いない。御義口伝に「霊山一会儼然未散」(757頁1行)の不思議なる法則に感動を禁じ得ない。
そして1958年に戸田先生が逝去した2年後、池田先生は32歳の青年会長として第3代会長に就任し、師匠の遺命のままに、750万世帯の達成、世界広宣流布への展開、創価一貫教育の学校創立、原水爆禁止宣言の精神を継承する平和運動、宗教間対話、文明間対話等々を実行に移した。そして、日本だけでなく世界192か国・地域の人々を地涌の菩薩として召し出し、広宣流布を現実のものとした。その大恩に報じるべく、私自身も地涌の菩薩として生涯を生き抜きたいと深く、深く決意している。
参考文献
池田大作『人間革命 第一巻』聖教新聞社 1965
池田大作『人間革命 第二巻』聖教新聞社 1966
池田大作『人間革命 第四巻』聖教新聞社 1968
池田大作「「諸法実相抄」講義」『池田大作全集 第二十四巻』聖教新聞社 1988
池田大作『普及版 法華経の智慧〔中〕――二十一世紀の宗教を語る』聖教新聞社 2012
戸田城聖(妙悟空)『人間革命』和光社 1962
細井日達編『真訓両読 妙法蓮華経 並開結』創価学会 1961
堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』創価学会 1952
務台理作『現代のヒューマニズム』岩波書店 1961
2017.9.20
(『生哲』第39号 創価大学生命哲学研究会会誌より)