池田大作×茂木健一郎往復書簡

「科学と宗教、その間の壁は破れるのか」

(『中央公論』20104月号)を読んで

山岡政紀


  3月半ば、出張に向かう新幹線の中で一気に読破した。

  少なくとも私の専門の言語学に関しては、テレビによく出る学者ほど、学術的な慎重さや誠実さに欠けることが多いものである。他の分野のことは一概に言えないが、茂木健一郎氏に関しては、著書『脳とクオリア』(1997年、日経サイエンス社刊)に触れて以来、その博識はもとより、彼が誠実で真面目な問題意識を持った学者であることを知り、同年代でありながらもある種の敬意を抱いていた。今回、月刊誌「中央公論」に掲載された池田大作先生との対談を読み、私はその感をいっそう強くした。

  池田先生が創立された創価学園で学んだ私にとって、先生は自分の人生を決定づけた無二の恩師であるから、心からの尊敬をもって先生とお呼びしている。その私から見ても、同年代の茂木氏と先生とが互いに「さん」づけで呼び合って対話していることが、この対話の意義として象徴的だと思う。「対話」とは、対等の立場から互いに相手に敬意を払って行われるべきものだからである。宗教者と科学者という異なる領域の二人の対話となればなおさらである。

  さて、私自身もここでは一読者としてこの読後記を記すという意味において、以下、双方の敬称を略して記すことにする。

  茂木の第一信では、まず、「利己的な遺伝子」で有名なドーキンスの宗教批判に科学者として同調し、宗教が持つ独善性について問題提起をしている。しかしその一方で、宗教の信仰が実際の人々の生活に資する何かを持っていることを率直に認め、その相互の関係性について、真摯に回答を得ようとしていることが伝わってくる。批判しながらも宗教を蔑視するのではなく、一定の敬意をもって「対話」しようとしているのである。

  これに対し、池田の第二信では、科学と宗教が共存的関係を築くべきことを提唱する。特に東洋の思想・宗教の探求が、物質世界そのものではなく、物質と相即の関係にある精神的領域に向けられていることを指摘し、ドーキンスの批判に態度留保すべきことを主張している。そして、「独善」の対極にあるものが「対話」であり、池田自身がこれまでの宗教活動において「対話」を重視してきたことを述べて回答としている。池田はこう述べている。

           二十一世紀の知性の最前線で宗教の果たすべき役割とは、宗派を超えて、人類を「対話」で結び、平和の創出に貢献することにほかなりません。

  茂木の第三信は、池田が第二信で提唱した「対話」の重要性に対する共感に貫かれている。人間が他者とのコミュニケーションを成立させるための「協調の原理」[1]を可能にするために、脳内の「ミラーニューロン」という神経細胞が機能しているとする点は、言語学者である私にとっても大変興味深い。

  第三信の後半では、信仰と組織の関係についての新たな問いかけが行われている。ここでは個人を束縛したり統制したりする組織の負の側面に対して率直な違和感が表明されている。

  これに対して池田の第四信では、池田自身もまた創価学会入会以前は「宗教や組織というものは好きになれなかった」との共感が表明される。そのうえで、恩師・戸田会長のもとで理想的な人間連帯の構築に邁進してきたことを述べる。ここでも、組織において個人の差異を尊重しつつ連帯していくには「対話」が必要だと主張している。

  茂木の第五信では、池田の組織観を受け止めつつ、新しい時代のキーワードとして、なおも「脱組織」を主張する。ここで、坂本龍馬の土佐藩脱藩を引き合いに出し、池田も既に社会を「脱藩」しているとする。この文脈からは、彼の言う「組織」が、社会が人々の価値観を制約することも含めた広義の概念であることが次第に見えてくる。要するに茂木は、組織に属することそのものを批判しているのではなく、組織に縛られた受動的な思考法を批判していると言えるのではないだろうか。

  池田の第六信では、茂木の言う「脱藩」の精神こそ、異なる価値観の壁を打ち破り、互いに尊重しながら共存するグローバルな平和の連帯を築くために不可欠な精神であると述べる。結局、池田の「対話」と茂木の「脱藩」は、根底では同じ方向を志向していることになる。茂木は個人の生き方としてそれを目指し、池田は人と人との連帯を作りながらそれを実践している点が、異なるわけである。

  「対話」においては違いを際立たせることよりも共通点を見出すことの方が重要である。その意味において、池田と茂木はこの往復書簡で互いに歩み寄りながら、共通点を印象深くあぶり出すことに成功したと言えるだろう。

  日本国民全体が軍国主義に統制されていた時代に、その軍国主義を拒否して投獄された戸田会長もまた当時の日本を「脱藩」したと言える。そして戦後、戸田会長と池田が庶民の一人ひとりに生命の尊厳を訴え、その結果、覚醒した庶民によって築かれた連帯が創価学会である。そうであるならば、創価学会こそまさに池田が言う「組織のための人間ではない、人間のための組織」であり、茂木の言葉を借りて言えば、「脱藩」者の連帯と言えるのではないだろうか。

  最後に池田は、小学校時代の恩師の「高く茂れる木は、強い風に耐えねばならぬ」との言葉を茂木へのエールとして贈っている。この言葉は、対立の壁を破るべき青年世代への激励であり、一読者に過ぎない私も、勝手ながらこの言葉を師匠から弟子への激励として受け止めさせていただきたいと思っている。

  蛇足になるが、茂木によるクオリア(qualia.感覚質、質感の訳語あり)の研究は、人間生命の物質的側面と精神的側面に橋を架け、近代科学が物心二元論的パラダイムの中で排除してきた精神的実在を自然科学の中に適切に位置づけるため、自然科学の方をパラダイムシフトさせようとする試みであり、新しい心の科学として注目に値する。私たちにとってありありと実感のある「生命の尊厳」のクオリアを自然科学に位置づけることができるならば、それは科学と宗教の架橋ともなるであろう。

2010.4.7


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[1] 山岡政紀・牧原功・小野正樹(2010)『コミュニケーションと配慮表現──日本語語用論入門』明治書院刊 第2章「協調の原理」に詳細な説明あり。