佐藤嘉真先生の思い出
山岡政紀(YAMAOKA Masaki)
佐藤嘉真先生はぼくにとって創価高校2年、3年の二年間、つまり、卒業時の最後の担任だった。よしまさ先生とお読みするが、ぼくらは陰では親しみを込めて「カシンさん」と呼んでいた。2008年11月15日に鬼籍に入られた佐藤先生を偲びつつ、自分自身の思いを込めるために、ここでは「カシン先生」と呼ばせていただく。
東京の小平で過ごした6年間の学園時代の、最後の二年間はぼくにとって激動期だった。カシン先生の思い出はそうした一つ一つの出来事と結びついている。特に高校2年生のときの思い出が多い。
2年のあるとき、ぼくは学園の弁論大会に出場したことがあった。ぼくは大勢の人前に出るのが苦手なのだが、人から推されるとしょうがないと割り切って人前に出てしまう、自分でもよくわからない性格で、そのときも周囲から言われてクラス予選に出たら、いつの間にか学園全体の本大会まで行ってしまった。そのときのぼくの主張は、学園の独特の文化をやや皮肉って、学園生の社会性をもっと高めるべきというような、今にして思えば大変恥ずかしい小生意気なものだった。その弁論大会が終わった時にカシン先生が「ご苦労さん、おめでとう」と握手をしてきてくださり、そのとき、「ぼくも君と同じようなことを感じることがあるよ。まあよく言ってくれたね」というようなことをおっしゃってくださって、それで自分が少し安心したものだ。
これも2年のとき、一度、授業参観の機会があり、京都の実家から母が出てきて、カシン先生の現代国語の授業を参観した。母は、授業の内容よりも「えらい男前の先生やな」と評していた。たしかに長身で男前のカシン先生だった。
北海道の修学旅行も2年のときの貴重な思い出だ。夜行列車と青函連絡船で函館に着いてからは、終始、クラスごとのバス移動だったが、カシン先生はいつも先頭の座席に静かに座られていた。バスガイドがアイヌ語の「ピリカ」という歌を紹介したときに、カシン先生がおもむろに「私が歌いましょう」とマイクを取って歌ってくださった。先生は樺太生まれで北海道育ち、北海道大学卒業と、根っからの道産子だ。いつも冷静沈着で、派手なことを好まないカシン先生が、自分からマイクを取られたことがとても印象的だった。この修学旅行中、カシン先生はいつもニコニコして楽しそうだった。北海道が本当にお好きだったんだろう。
高2から高3へはクラスは持ち上がりではなく、高3では進学先によって、私立文系コース、国立文系コース、理系コースにクラス分けされた。私立文系コースは大半が創価大学に推薦入学する生徒であった。創価大学にはぼくが得意とする国語国文学の学科がなかったため、ぼくは早くから国立大学志望だった。2年の秋頃だっただろうか、進路確認とクラス分けのための担任との個別面談があった。ぼくは筑波大学を第一志望にしている理由を説明した。カシン先生は国語の先生で、ぼくが国語が得意であることもわかってくださっていた。ぜんぶ、ウンウンとうなずきながら静かにぼくの話を聴いてくださったカシン先生が、「創価大学には行きたくないのか?」と訊いてくださった。そのあとのやり取りはこんな感じだ。
山岡「いえ、創価大学にも行きたいんですけど、自分のやりたい勉強をやりたいという気持ちも強いんです。でも、筑波大学に不合格だったら、浪人はしないで創価大学に行くつもりです。他の大学は受けません」。
カシン先生「君の今の成績では筑波大学に受かる保証はない。入試は国語だけじゃない。英語や数学もあるんだ。国立を受けるなら創価大学も受験しなければならなくなる。もう少しよく考えてみてはどうか」
山岡「はい」。
カシン先生「じゃあ、クラスは私立文系コースでいいな」。
山岡「はい」。
創価大学に行きたい思いもあったし、国立大学に行くことそれ自体に執着も自信もなかったので、あっさりと「はい」と答えてしまった。強制されたのではない。もしぼくがどうしても国立コースにこだわればきっと認めてくれただろう。これは、対話のなかで導かれた結果だった。そのぼくを最後まで面倒見てやろうと思ってくださったのかどうかは定かではないが、3年になってみたら、担任はまたカシン先生だった(私立文系コースは当時4クラスあった)。
高校2年の冬、その面談のあとに、もう一つ大きな事件があった。友人と一緒にあるつまらない悪ふざけをしたことが思いがけず問題となり、校長室にまで呼び出され、大目玉を食らったことがあった。辛うじて戒告や停学といった処分にはならなかったが、自分の生活がいちばん惰性に流されていた時期だったこともあって猛省した。そのとき、校長室での叱責に同席してくださったカシン先生だが、結局、先生からは一言も叱られなかった。ぼくは何度も「先生、本当に申し訳ありません」と謝ったが、先生は黙しておられた。一言だけ「もういいよ」だか「わかってるよ」だか、何かおっしゃってくださって、それでぼくは救われた思いがしたことだけははっきりと覚えている。本当に優しい先生だった。この事件の反省をきっかけにぼくは猛勉強をし始めた。
3年になってからは受験の緊張感の薄い賑やかなクラスだったが、学校ではクラスメイトと和気藹々楽しく過ごし、寮に帰ってひたすら猛勉強をする毎日がつづいた。どういうわけか、3年のときのカシン先生との出来事はあまり思い出せない。ただ、クラスメイトとの思い出はたくさんあり、今もつきあいのある仲間も多い。あのクラスに入れていただいたことは今でもありがたかったと思っている。
カシン先生はぼくたちの卒業と同時に兄弟校の関西創価学園に転勤された。先生と卒業後に再会したのは、4年後のことだった。ぼくが筑波大学の4年生で大学院に進むか、高校教師になるか、進路に迷っていた頃、関西創価学園にカシン先生をお訪ねしたことがあった。関西学園は京都の実家から京阪電車で行ける距離にあったが、それまで訪問の機会がなく、ぼくはそのとき初めての関西学園の土を踏んだ。
カシン先生は笑顔でぼくを出迎えてくださった。そして、何人かの先生方と懇談したあと、学園の校内をゆっくりと案内してくださった。蛍が夜になると飛ぶんだよ・・・そんな説明もしてくださった。先生とこんなふうに一対一で長い時間を過ごすのは初めてだった。ぼくは内心、高2のときの失敗を思い出しながら、こんな駄目な教え子にこんなによくしていただいて申し訳ないという恐縮の思いでいっぱいだった。
学園には、生徒に対して一生懸命熱く語ってくださる熱血教師の先生が大勢いた。そのなかでいつも淡々としていたカシン先生はクールだ、ニヒルだ、サラリーマン教師だなどと、一部の生徒には評されていたが、今にして思えば、生徒の考えや立場を尊重して大人として接してくださっていた。また、言葉で多くを語らなくても背中で範を示してくださっていた。これこそ創価教育である。ぼくもそのような教育者でありたいと思う。
その後、故郷の北海道で札幌創価幼稚園の園長を経て、再び関西創価学園に戻り、中学校長も歴任された。
21世紀に入ってから一度だけ、創価大学の行事にお見えになった何かの折に、約20年ぶりにお会いしてご挨拶した。「立派になられたね」と握手してくださった。その優しい表情は昔のままだった。もっともっと思い出を語り、感謝を申し上げたかった。この20秒程度の再会が、カシン先生との最後の出会いとなった。
2008年11月、突然の訃報を伺った。ぼくは創価大学の学生部長を拝命し、最も多忙な時期でどうしても大阪でのご葬儀には参列できなかった。
カシン先生の大らかな包容力を偲び、はたまた、今はロシアの人々が暮らす先生の生まれ故郷、樺太の大地にも思いを馳せ、そして、先生が歌うピリカの歌を心の中に想いながら、心よりご冥福をお祈り申し上げたい。
佐藤嘉真先生の学恩に心からの感謝を捧げつつ。合掌
2010年、猛暑の日に
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