人間学の探究(4) 〜主観から客観を導き出す手法〜

山岡政紀(YAMAOKA Masaki)


はじめに

 

 前稿で、主観世界を巡って次のような対立項を明確にした。舌が食べ物の味を感じ取って「すっぱいレモンだな」と思うことは主観世界の経験として意識されるから〈知覚〉であり、いっぽう胃に入った食べ物を胃壁が感じ取って胃液を分泌するのは客観的事実ではあるが無意識に行われるので{知覚}である。この両者の二項対立を用いて、前稿では{秩序}と〈自由意志〉の対立、{本能}と〈理性〉の対立について述べた。本稿では両者の対立を言語表現の対立として見ていくことにする。

 

1.{好き}と〈好き〉

 

「好き」という形容詞がある。その語義について、『広辞苑第6版』には「気に入って心がそれに向かうこと。その気持。」と記されている。心の中のことであるなら、主観世界の自覚的経験であって、〈好き〉と表記されるべきものである。しかし、実際には違う意味でこの言葉を用いることがある。

筆者が最近経験した事例を挙げてみよう。ある知人女性と談たまたまペットの話題になった。彼女は飼っているネコのことでこんなことを言った。

 

 (1) うちのタマはツナ缶が好きなのよ。

 

それでこちらは聞き返した。「なぜそのように思うのか」と。ネコの嗜好をどのように判断したのか、その根拠を訊いたのだ。無論、ネコが「ぼくはツナ缶が好きなんだ」と発話するわけではあるまい。いくらかわいいからといってネコの心が読めるわけでもないだろう。結局、答えはこうだった。つまり、ツナ缶のふたを開けた時に、そのにおいに反応して飛びついてくる勢いのすごさと、おいしそうに食べるからだと言うのだ。要するに外面から見た姿で判断しているわけである。「好き」ということが広辞苑の言うように心の問題だとしても、少なくとも私たち人間は誰一人としてネコの心を経験したことはないので、それがどういうものかは全く想像がつかない 。従って、A子の発言は、前稿の表記法を用いるなら、次のように表記される。

 

 (2) タマはツナ缶が{好き}だ。

 

しかし、われわれ人間は、自分の心の中を誰にも知られないようにすることもできる。例えば、筆者はタラコが好きだが、6年ほど前に医者から高尿酸血症の傾向があるから魚卵を食べるのは控えなさいと言われ、それ以来、タラコを全く食べていない。しかし、6年ぐらい食べなくてもタラコの味は覚えている。今でもその味は「好き」である。タラコを見れば「食べたいな」「おいしそうだな」と思う。ただ、医者の言いつけを守って食べないだけである。筆者がその嗜好を表明するとすれば、それはこう表記することができる。

 

 (3) わたくしはタラコが〈好き〉だ。

 

しかし、表明しないで黙っている限り、筆者にとってタラコが〈好き〉であることは誰にも気づかれない。筆者の家族であっても、(2)とパラレルな文(4)を言うことはできない。第三人称としての固有名を「まさき」とする。

 

 (4) ?まさきはタラコが{好き}だ。

 

筆者の表明(3)を聞いた友人が、そのことを別の誰かに報告するとすれば、(5)となる。

 

 (5) まさきはタラコが{好き}だそうだ。

 

しかし、心の中では本当はタラコが〈嫌い〉なのに、嘘をついて(3)のように言うこともできるので、伝聞を根拠とする(5)は、様態を根拠とする(2)以上に{好き}と〈好き〉との隔たりがある可能性がある。

逆に、筆者が健康のために毎食のように生野菜を食べている姿を見た人は(6)と言うかもしれない。

 

 (6) まさきは生野菜が{好き}だ。

 

これも実際は生野菜が嫌いで心の中ではうんざりしながら、健康のために我慢して食べているので、本人にとっては(7)が正しい。

 

 (7) わたくしは生野菜が〈嫌い〉だ。

 

まわりくどく書いたが、要するにこういうことである。つまり、「好き」という言葉の意味は本来一つの心理現象を表す語だが、それが極めて主観的経験であり、経験者に帰する絶対的現象であることの帰結として、人はだれでも内的経験〈好き〉と外的経験{好き}という全く異質なものを写像のようにリンクさせている、ということである。

人の心に浮かぶ恋愛感情なども同じことである。思春期に初めて異性を「好き」になるという時はたいてい誰にも言えない片想いとしての〈好き〉である。逆にいつも自分に話しかけてくる異性の行動を見て自分のことを{好き}なのだと誤解してしまうこともある。このような純情な青少年においては心の中の想いこそが重要なのである。

一方、不倫という語が日常語になって久しいが、夫婦の貞操という観点で重視されるのは行動である。夫(妻)ではない別の異性に心の中で一方的な好意を抱いたとしても、一切行動に表さなければ、それを不倫と咎められることはない 。つまり、〈好き〉であっても、{好き}でなければ不倫ではない。この場合、重視する領域が青少年とは異なるわけである。

本節では、{本能}としてのネコの嗜好{好き}と、自覚的な〈意思〉としての人間の嗜好〈好き〉との対比を見てきた。我々人間は、このように全く異質なものを、それぞれが属する{身体}と〈精神〉という異なる領域間を結びつける写像によって同一視している。近代科学が{身体}のみを対象として〈精神〉を捨象することに何ら痛痒を感じないのは、異質な両領域を同一視することで、〈精神〉を{身体}に置き換えて差し支えないという前提を有しているからと言えるだろう。

 

2.心的経験の帰属空間

 

人間の自然言語は常に主観世界における意味的事象であるから、〈 〉を用いて〈言語〉と表示することができる。前節では、人間が客観的事象と主観的事象を同一視していることを、言語表現への表れを通じて見てきた。本節では人間が無意識に行っているこの同一視行為について、「情報帰属理論」の助けを借りて可視化することで再度確認してみたい。

筆者が山岡(2000)において、現代日本語の感情形容詞などに見られる人称制限という文法現象を説明するために提案したのが、「情報帰属理論」と称する図式的表示法である。この理論は文法現象の説明のみならず人間の主観現象の説明にも応用が可能である。

 [図1]は話者の経験空間を仮想した図式のデフォールトの状態である。個人の心の私的空間である主観空間(T)と他者と共有されている客観空間(O)とは、排他的・相補的関係にあり、重複することがない。主観と客観の「内外」「狭広」の関係を図式化するために、ドーナツ(同心円)型の隣接関係とし、両者を実線で区切る。いっぽう、疑似主観空間(S)は客観空間に属する下位空間であり、客観空間の一部であることを示すために点線で区切る。疑似主観空間は、主観空間の写像であるという意味で(S())と記号化する。第三者の主観空間の写像である場合は、Tが変数となって当該人物名が代入される。

 主観空間、疑似主観空間ともに、何かの叙述が行われる場であり、情報構造としては前提(presupposition)に当たるため、日本語では通常、提題助詞「は」によって表示される。

 

[図1]話者の経験空間のデフォールトの状態

 


 客観空間(O)

 


主観空間        疑似主観空間

               (T)           (S()

 

 

 

[図2]は、用例(3)「わたくしはタラコが好きだ」の意識構造を表示したものである。つまり、自覚的に経験される〈好き〉を主観空間における現象として表示している。

 

[図2]主観空間における〈好き〉

 


 (O) 

        (T)

〈好き〉

 

              タラコ

 

(3)「わたくしはタラコが好きだ」

 

 これに対し、ネコのタマの行動に見られる嗜好について記述した用例(2)「タマはツナ缶が好きだ」の意識構造は[図3]のようになる。ここでは、話者の主観空間への写像は行われていないので、属性形容詞文「タマは足が速い」と同じく客観空間上の公共性のある属性叙述という位置づけとなる。

 

[図3]疑似主観空間における{好き}

 


 (O)

(T)            (S(タマ)

 

{好き}

 

                  ツナ缶

 

(2) タマはツナ缶が好きだ」

 

[図4]は、同じく用例(5)「まさきはタラコが好きだそうだ」の表示である。この場合、まさき本人ではなく、他者が客観空間内にまさきの疑似主観空間を仮設し、伝聞を根拠とする疑似経験{好き}が、あたかも主観経験であるかのように主観空間に写像されるさまを記述している。この場合、写像関数として機能するのがモダリティ助動詞「そうだ」である。つまり、伝聞によって他者の嗜好を自身の嗜好経験に写像して類推していることになる。

 

[図4]疑似主観空間から主観空間に写像される{好き}

 


 (O)

(T)               (S(まさき)

                 f

  {好き}

                ソウダ

                     タラコ

 

(5)まさきはタラコが好きだそうだ」

 

 [図3]の{好き}はタマの行動という表象から導き出されたものである。いっぽう、[図4]の{好き}は(5)の発話の先行文脈でまさきが「好きだ」と言ったその発話をメタ的に指示している。いずれも、(2)および(5)の発話者にとっては客観空間に帰属する情報となる。

 以上のことからも、私たち人間が「客観」と呼んでいるものにも多様なものが混在していることがわかる。次節ではそのことに集中して考察することにする。

 

3.人間が客観を導き出す手順の多様性

 

 言語の品詞のうち、人間の主観的知覚を静的状態として表現するのが形容詞であり、客観世界の出来事を動的事象として描写することを主たる機能とする のが動詞である。

形容詞が表現する知覚は本質的にはすべて主観的である。しかし、その知覚が何らかの根拠によって他者と共有可能な知覚であると見なされる時、その知覚には公共性が付与される。要するに、日常に言うところの客観性とは公共性の異名であると言える。

いわゆる感情形容詞とは、公共性を付与されずに、主観空間に帰属する知覚をそのまま表現したものであり、いわゆる属性形容詞とは、公共性を付与されて客観空間に帰属する知覚として表現されたものである。その対比は、山岡(2000)で詳細を述べている。ここで用例を用いて考察してみたい。

 

 (8) 熱い!

 (9) この湯は熱い。

 (10) 湯というものは熱い。

 

[図5](a)は、熱湯に触れて(8)を叫んだときに経験した、私的な知覚経験を表示したものである。これに対し、他者と共有する知覚であると見なされ、知覚に公共性が付与された例が(9),(10)であり、これを表示したのが[図5](b)である。ここでは客観空間内に主題空間(T)を設けて、客観世界の事物を叙述するための前提としている。(9)は特定の湯に対する叙述であり、触覚では知り得ない沸騰中の熱湯を温度計で計測した科学的データや沸騰している様子という表象によってそれが「熱い」ことが広く認知され、公共性が付与される。(10)は湯一般に対する普遍的叙述である。これは「湯」という語の語義に関する叙述であって特定の湯から切り離された論理的な同一性が認められる。

 

[図5]知覚の帰属空間

 (a)                               (b)

 


(O)                   (O)

      (T)                   (T)          (T()

       〈熱い〉                             {熱い}

 


        湯

 

 =(8)「熱い」             =(9)(10)「湯は熱い」

 

 (8)の〈熱い〉は熱さのクオリアから直接に言語化されたもので、(9)(10)の{熱い}は客観的データや表象から言語化されたものである。クオリアも、データ・表象も、その多様性を投影できるほどの能力が言語表現にはないという点では、共通である。

ここで客観的な{熱さ}の根拠として、データと表象を併記したが、この両者もまた本質的には性質を異にする。データは数値化によって主観性を排除しようとするものであるのに対し、表象は他者も同じものを知覚しているという認識によって公共性が付与される。

このような公共性の認定によって、主観的知覚を客観的現象扱いすることは、日常においてもよく行われている。次の用例を見てみよう。

 

(11) (私は)犬がこわい。

(12) 山犬はこわい。

 

形容詞「こわい」はもともと感情形容詞に属するとされ、「熱い」と違って科学的データによる客観性とは一切対応しない語である。しかし、人がペットとして飼う犬は可愛いものだが、それでも苦手な人は「こわい」という。その人の〈感情表出〉が(11)である。いっぽう、山犬(オオカミ)はどう猛な動物とされ、個人差なく人から恐れられているので、(12)のような〈属性叙述〉を形成することができる。

[図6]はこれを表示したものである。(a)は〈感情表出〉文(11)の表示だが、同じく(b)は、山犬の「こわさ」が公共性を有すると判断され、一般化されて対象格名詞句「山犬」が主題化し、「山犬はこわい」という〈属性叙述〉文となったものである。

 

[図6]主観的事象に対する公共性の付与

 (a)                               (b)

 


(O)                    (O)

     (T)                   (T)           (T(山犬)

      〈こわい〉                             {こわい}

 

 

        犬

(11)(私は)犬がこわい」       =(12)「山犬はこわい」

 

 このようにしてみると、本来、主観的な知覚と客観的な知覚とは全く異質なはずのものだが、日常的には両者が同一視されていることに注目したい。

中学校の生徒が女性教師を評して「山田先生は客観的に見て美人だよ」などと言うときの「客観的」はこのような意味で用いられている。公共性、つまり、「多くの人が同じように評する」ということを「客観的」と言い換えているのであって、自然科学的な意味での客観性とは全く異なるものであることは言うまでもない。

これまでに見ただけでも、客観性の獲得の方法には、異なる種類のものが雑多に入っていることがわかる。以下では、それらを整理してみたい。

 

@自然科学における数値的な客観性

 自然科学の客観性は数値的データによって保証されている。そしてそれは、追試可能性、すなわち誰が計算しても同じになる結果になることによって、強力で厳密な公共性が与えられる。

スポーツで言えば、競走、競泳、スピードスケートなどは、機械的に計測して数値化するので、計測員は存在するが、彼らのクオリアで判断しているのではなく、その意味で熟練を要しないため、審査員のように厳選されることはない。

 

A高度な認知機能によって保証される客観性

人間の認知機能は時として機械的な計測を遙かに凌ぐ能力を有する。お酒の銘柄を判別する「利き酒」という技能があり、日本酒の研究団体による「利き酒師」の資格認定も行われている。彼らの熟練した技能を超えた峻別能力を持つ機械を開発することは難しい。彼らは成分分析のようなことを科学的に行っているわけではなく、味覚のクオリアが極めて繊細なのである。

同様に、楽器演奏には明らかな技術の優劣がある。原理的に言えば、音程や刻むリズムの正確さを数値化することは可能なはずだが、高度に熟練した人の耳で繊細に認知されるクオリアによって判断した方が、より説得性のある審査、判定ができる。

スポーツで言えば、体操、シンクロナイズドスイミング、フィギュアスケートなどは、熟練した審査員が採点する。彼らはジャンプの質や回転数などを瞬時に判断する特殊技能を有しており、その技能をもって審査するのであって、情緒的な好悪で判定をしているわけでは決してない。そうした熟練した審査員のクオリアに対する信頼をもって、競技成績の客観性が担保されている。

 

B心理的営為を身体的反応から読み取ることで獲得される客観性

行動主義心理学の創始者とされるジョン・ワトソン(John B. Watson, 1878-1958)は、心の科学である心理学に自然科学的な研究手法を採り入れるために、心理学の対象を刺激と反応の相関に限定する方法論を提唱した。これにより、20世紀の心理学は、心理的実験によって計測される反応データに対して統計処理を行うことをもって、まさしく自然科学的な分析科学となった。この方法には一定の追試可能性があり、科学が求める客観性を提供することに成功した。その一方で、行動主義心理学が探究しているものが本当に「心」の問題なのかどうか、哲学界を中心に大きな議論が展開されて今日に至っている。

 

C言語学における文法判断の客観性

言語学のような構造主義的人文科学においては、主観的な文法性の判断を「誰が見ても正しい文」、「誰が見てもおかしい文」といった公共性に委ねざるを得ない。従って、研究誌に投稿された論文に示される用例の文法性の判断は、経験豊富な複数の査読者がいずれも誤りがないと認めることによって、その「客観性」が保証されることになる。

筆者の内省だけでは判断が難しいような場合には、アンケート調査によって一般の話者の言語直観を調査することがあるが、これもアンケートという形式で多数のサンプルを取って平均化していく。この際のデータ処理には心理学と同様の数学的統計処理法が用いられる。ただし、言語の意味は本質的に主観的なものであり、調査によって平均化されて公共性を付与されたとしても、純粋な意味で客観性ではあり得ず、「客観的な主観性」とでも言うべきものであることに留意しなければならない。

 以前、観衆が審査して高得点のネタのみを放送するお笑い番組があった。この場合、好き嫌いの分かれる主観的判断だが、大多数の支持という公共性をもって「客観的に優れている」という評価が与えられた。これもある種の「客観的な主観性」と言えよう。

 

おわりに

 

 情報帰属理論は、人間の自然言語における主観と客観の写像関係を可視化する一つの手法である。そして、言語表現においてなされている営為はそのまま人間の思考態度全般を支配するものともなっている。人間は誰しも生まれてから死ぬまで主観世界の中に生きているが、他者の主観世界が外からどのように見えるかという知識、そして、絶対的存在であるはずの自分自身を大勢いる人間の一人として相対化する行為によって客観世界は仮設されていく。特に社会の中で生きる時にそのような視点は否応なしに持たざるを得なくなる。今後は、そのようにして形成されている客観世界の自律性や、客観性によって保証されている科学のパラダイムを厳密に分析し、その是非を問う考察について、課題として探求していきたいと考えている。

 

1  ネーゲルの指摘、すなわち、自身が発する超音波反射をもって対象物の距離を知るこうもりの知覚が人間にとって想像不可能であることはわかりやすい例だが、ネコとて同じである。ネコは素早く動く対象物に反射的に飛びつく習性を本能として持っている、例えば、バッタが目の前で飛び跳ねれば反射的に捕捉してこれを食べる。このような習性を持たない人間が、ネコの主観なるものを類推することには矛盾が生じる。

2  配偶者以外の異性に心の中で好意を抱くことは、あからさまにそれを良しとする言説もないが、それを不倫として責め立てる言説もまた殊更あるわけではない。三島由紀夫の小説「美徳のよろめき」は、夫以外の男性に恋心を抱く女性の心の苦しみを描いてはいるが、これは恋心そのものへの自責ではなく、行動を抑制することへの葛藤と見るべきであるし、この作品では結果的に行動に発展している。

3  「主たる機能」としたのは、山岡(2000)で述べた属性動詞や関係動詞のように、形容詞的な動詞というものが少なからず存在するからである。

 

参考文献

茂木健一郎(1997)『脳とクオリアなぜ脳に心が生まれるのか』日経サイエンス社

山岡政紀(1994)「形容詞文の意味と知覚の主観性」『日本語日本文学』第4号、創価大学日本語日本文学会、左13-26

山岡政紀(1995)「第一人称のパラダイム――人間学諸分野の俯瞰」『創価大学創立二十五周年記念論文集』、492-500

山岡政紀(2000)『日本語の述語と文機能』くろしお出版

Nagel, Thomas (1979) Mortal Questions, Cambridge University Press.(邦訳:永井均訳 (1989) 『コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房)

 


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