人間学の探究(3) 〜人間の主観世界をめぐって〜

山岡政紀(YAMAOKA Masaki)


はじめに

 

 デカルト的物心二元論を契機として、自然科学の考察対象から捨象されてきたのが主観世界であるが、それはそれで哲学的人間学の考察対象としてあり続けた。ハイデッガー、フッサール、メルロ=ポンティといった現象学者たちや、その系譜に連なるウィトゲンシュタイン、クワイン、フーコーといった言語哲学者たちは、常に人間の主観世界という、我々にとって最も身近で最も難解な実在を記述しようと試みてきた。

 そうした先人たちの思索についての紹介や論評はひとまず置いて、我々が人間学を探究することの意義を確認し、もう一度スタート地点に立つための試論として、改めて人間の主観性に関する問題提起を行い、人間学が何を問題にしようとしているのかを整理することとしたい。

 

1.人間の主観世界の質を問う

 

 我々人間にとっての自然との接し方を、自我意識の有無に従って二種に区別することができる。それぞれを別の用語で示すことも可能だが、本稿では両者の比較をテーマとし、平行的現象をグループとして把握するために、{ }と〈 〉とで表記しわけることにする。特に比較すべきは無自覚な{知覚}と、主観において自覚される〈知覚〉とである。人間の自由意志のように常に主観的なものは、強調する必要があるときは〈自由意志〉と表記する。この表記法は永井均氏(1951- )のユニークな術語〈私〉とも共通するが、本稿ではさらに対立概念の表示に{ }を用いる。

 胃は、食物の侵入を{知覚}して、胃液を分泌するが、決して〈知覚〉するわけではない。そもそも、自我意識を持つ人間に於いてすら、その肉体の生理的な生命活動は無自覚な部分の方がはるかに大きい。心臓の鼓動にせよ、血液の循環にせよ、無自覚である。血液中の白血球が雑菌の存在を{知覚}することや、肺胞が酸素を空気の中から{知覚}して吸収することも、自然界の{秩序}に従って行われる。

 人間機械論は古くて新しい哲学の命題である。少なくとも無自覚な生命維持行為は一種の極端に複雑な物理現象と見ることもできよう。問題は人間の主観世界、つまり自我意識をどう見るかである。坂本百大氏(1928- )は日本に於いて人間機械論の是非を論じてきた第一人者だが、根本的な未解決の命題は一つに集約されている。それは要約して述べるならば、「私の大脳が視神経からの信号を受けて花の像を知覚するということと、私にとってその花が確かに見えるということとの間には、どうしようもない溝がある」ということである(坂本(1980)参照)。確かに物理現象として、一見完璧に説明された視覚は、それが〈視覚〉であるか{視覚}であるかについて、弁別的な説明を与えることができない。要するに、{視覚}と〈視覚〉の違いは、物理現象上の違いと認めることはできないのである。

 カメラという{視覚}の機能を持つ機械を限りなく精度を高くしていったとして、その精度の違いは量的な違いである。しかし、それまで{視覚}であったものがどこかで〈視覚〉となるとしたら、その違いは不連続であり、質的な違いと見るべきである。

 大森荘蔵氏(1921-97)はその諸著書の中で、他人にとっての〈知覚〉を自分が〈知覚〉することは不可能であることを論じているが、その大前提となっている「自分の〈知覚〉は確かに〈知覚〉している」ということ自体が実は重大問題なのである。

 そこで、本稿において探究すべきテーマを要約すると、こういうことになる。

それは、〈知覚〉と{知覚}とは、何かの量的な違いに起因するのか、即ち、連続的なものか不連続なものか、逆に言えば、〈知覚〉を経験する主観世界そのものを物理現象に還元できるかどうか、ということである。

 例えば、走ったりボールを蹴ったりする精巧な人間の動作を模倣する程度のロボットは今日において既に開発されているし、人間の思考を遙かにしのぐ思考能力を持つ人工知能も開発されている。人間のチェスのチャンピオンはコンピュータに勝てなかった。しかし、その延長上にやがて開発されるであろう人造人間は、果たして〈自我〉を持つのか、〈感情〉を持つのか、主体であり得るのか。もしあり得るとしたら、自分が人造人間であるというその人は、自身が人間に隷属し、人間の都合で造ったり壊されたり捨てられたりする存在であることを不幸と感じて嘆き悲しむかもしれないし、あるいは怒り、挙げ句の果てには人間を逆に支配しようと企てるかもしれない。

 ともかく、認識論の核心にあるこのテーマは思弁的な方法のみで答えは出ない。哲学ではあっても、生物学、心理学を中心に広範な領域を含む広義の哲学に於ける課題であり、それは「人間学」の最初の大きなテーマである。

 さて、〈記憶〉もまた主観世界を形成する一つの要素である。〈記憶〉は自我意識に刻印されてこそ〈記憶〉なのであって、無意識の{記憶}というものに意味はないからである。その証拠に我々は、〈記憶〉に残っていない自己の行動を、“無意識に行動した”と称する。また、視覚や聴覚に於いて{知覚}はしていても〈記憶〉に残らないものは〈知覚〉していないことになる。これは日常多く体験していることだが、覚えていないから、普通は問題にならない。

 脳における記憶の所在については、米国の心理学者プリブラム(Karl Pribram, 1919- )がホログラフィ理論を提唱し、注目されている。ホログラフィ(holography)とは、ハンガリー出身のノーベル賞物理学者ガーボル(Gábor Dénes, 1900-79)が開発した3次元立体写真のことである。この技術によって空間上に一種の虚像ではあるが立体写真が浮かび上がる。対象物の光情報はフィルム上に記録されるが、そのフィルムを見ても何の像が記録されているかは全くわからない。それは、記録のあり方が局所的にではなく遍在的に記録されているからである。プリブラムは、脳の記憶情報もホログラフィと同じく遍在的であるとして脳のホログラフィ理論を提唱した。

この記憶のホログラフィ理論と人間機械論の問題は密接に関係していると考えられる。なぜなら、このホログラフィ理論のように考えれば、〈記憶〉は特定の器官ではなく脳全体に存することになる。場所を特定できないのは、それが現在知られている脳の物理的または化学的現象とは異質なものであることを示している。つまり、〈知覚〉そして〈認識〉の源となっているものが、視神経からの電気信号から得た像が大脳に送られ、そして自我意識に送られるその瞬間に、質的に隔たりのある、特殊な形で刻印されていることを予測させるのである。

 

2.〈クオリア〉をめぐって

 

 人間の知覚も感覚器官からの電気信号が脳内で化学反応を起こした、ある種の物理現象であるとすることは科学の定説であるが、そのような物理現象としての{知覚}と、実際に人間が主観的に感じ取って、ある種の質感をもって経験に刻まれる〈知覚〉とのあいだには大きな隔たりがある。この後者の〈知覚〉によって得られる対象物の質感を、哲学ではクオリア(qualia、感覚質等の訳語もあり)と呼ぶ。クオリアという概念それ自体が常に〈 〉記号の意味を含んでいるが、本稿ではわかりやすさのために〈クオリア〉と表記することにする。

 哲学界において〈クオリア〉の概念に確たる地位を与えたのは、米国の哲学者ネーゲル(Thomas Nagel, 1937- )である。Nagel(1974)では、超音波の反射音をもって周囲の状況を把握するコウモリの知覚を人間が想像するという営為の矛盾をつきながら、人間が各個人として経験する〈クオリア〉の絶対性に論及している。

ここでコウモリが取り上げられているのは、人間が聴いたことのない超音波を聴くという点での人間との異質さが、〈クオリア〉の推測不可能性を説明するために好都合だったからである。同じことを犬で論じたってかまわない。ネーゲルの論述のコウモリを犬に代えて論じてみると、次のようなことになる。

犬は、自分の周囲の有り様を、視覚よりも嗅覚によって感知する。犬の鼻の嗅覚は人間のそれよりも何倍も優れている。嗅覚によって、対象が何であるか、また、対象までの距離も正確に判断できるらしい。

 犬が嗅覚によって周囲の様子を感知するとき、それは「どんな感じ」なのか。それを知ろうとするとき、我々は自らの知覚体験を頼りにして、犬の心の世界を想像しようとする。だが、そのような想像によってわかることは、私が犬のようなあり方をしたとすれば、それは私にとってどのようなことであるのかということにすぎない。しかし、今知りたいことはそういうことではない。私は、犬にとって犬であることがどのようなことなのかを知りたいのである。しかし、それを想像しようとすると、私の想像の素材として使えるものは私自身の心の中にしかなく、そのような素材ではこの仕事には役に立たないのである。

 このようにして論じられた〈クオリア〉の絶対性は、それ以前から議論されてきた主観世界の認識論がいったい何を議論しているのかをわかりやすくした功績がある。

例えば、大森荘蔵氏はNagel(1974)に先行する大森(1971)で次のような趣旨のことを論じている。自分が見ている信号の赤色・青色と、他人が見ている信号の赤色・青色が同じである保証があるか。ひょっとして隣人とその見え方がそっくり入れ替わっていたとしても、コミュニケーション不全はいっさい起きず、交通事故も起きないので、その事実が誰にも気づかれることはない。逆に言えば、主観的な見え方というものは絶対的なもので、自分という人間以外の存在にとっての見え方というものは一生涯絶対にわからない。

 このような問題は心身問題の代表的な古くて新しい命題であるが、これなどはまさに視覚の〈クオリア〉の絶対性の問題としてパラフレーズすることができる。

 さらに、トインビー・池田(1975)でも、近代科学の限界性に言及する文脈の中で、音響学や光学が音や光を数量化するのに対して、「実際にこの耳で聞く音色、この目に映る色彩」はそうした科学的データとは全く異質のものであることが論じられている。つまり、生命の尊厳ということが持っているありありとしたリアルな感覚を、科学は生命から奪い取ってしまい、「生命の物質化」をもたらしてしまう。そのような性質を有していることが科学の発達の負の側面として人類にのしかかってきているというのである。

 このことを更に深めて読めば、音楽や美術といった聴覚・視覚芸術において、その美しさという価値観をもたらすものはどこまでいっても〈クオリア〉がもつ美点なのである。

 トインビー・池田(1975)では別の箇所で、西洋医学がややもすると患者を対象化する欠点を有していることにも言及している。事実、西洋医学は患者自身の〈クオリア〉としての〈苦痛〉を直接の対象とはしておらず、客観的に把捉し得る〈苦痛〉の原因たる傷病のみが医学の対象となっている。医学こそ、人々を〈苦痛〉から解放させようとする、最も人間的な営みであるにもかかわらず、である。

 〈クオリア〉は科学の中でどのように扱われるべきものか、物質との関係はどう規定すべきか、こういった問題は今のところ解決されておらず、豪州の若き哲学者チャーマーズ(David John Chalmers, 1966- )はこれを「意識の難問題(the hard problem)」と呼んだ。チャーマーズは物理学の側のパラダイム・シフトによって〈クオリア〉を自然科学の中に位置づけようとしており、日本では脳科学者の茂木健一郎氏(1962- )も同様の主張を行っている。そのような物質と〈クオリア〉の関係づけが可能であるにせよ、ないにせよ、人類の文化社会として〈クオリア〉を復権させなければならないことだけは確かではないだろうか。

 

3.{秩序}と〈自由意志〉

 

 〈自由意志〉(free will)もまた、哲学界において古くて新しい命題であった。〈自由意志〉と対立する{決定論}は常にキリスト教やイスラム教といった一神教を念頭に置いて論じられてきた。宇宙の{秩序}は唯一の絶対神の意志以外にはなく、すべては神の意志によって決定しているとするのが{決定論}である。〈自由意志〉と{決定論}の間には神の意志と個人の〈自由意志〉の双方を認める両立論が存在する。米国の哲学者デネット(Daniel Dennett, 1942- )は{決定論}によって強制されたとしてもその強制に応じるのには〈自由意志〉が不可欠であるとする現代的両立論を展開した(Dennett(1984)など)。

 さて、これまで仏教の視点から〈自由意志〉が論じられたことはないが、筆者の見るところ、宇宙的自我を大我とし、個人の自我を小我として、両者の相即を論じる大乗仏教の視点から〈自由意志〉を論じたならば、それはデネットの現代的両立論に近いものになるであろう。ここでは、個別的主体としての人間と、その環境たる一つの宇宙との関係を、そのような大乗仏教的視点から考察してみたい。

まず、試みに次のように何段階かを設定することにする。@主体を成り立たせるのは内的欲望の発露である。A内的欲望が存する理由はそれが個としての自律的秩序を持っているからである。Bその個としての自律的秩序は巨視的に見れば、全生命系の連鎖を視野に入れたところの全体的秩序の部分となる。C一つの生命系はそれ自体が一個の生命体のようなもので、さらに大きな全体的秩序に包含される。Dそして、地球上の生命系と地球との関係、生命系を含めた地球全体と太陽の関係、太陽系と銀河系の関係へと順次包含されていき、最終的には宇宙という一つの{秩序}として完結する。

 いずれにせよ、宇宙とは{秩序}の異名である。{秩序}の質を問えば、すべての{秩序}は、生成と破壊を繰り返して、その全体が{秩序}となっている。個としての人間も、誕生、成長、老化、死という方程式を免れることはできないし、人類も、地球上の生命系も、地球それ自体も、太陽も、それぞれ周期は異なれ、いずれも{秩序}と無秩序の間を往復しながら、そのこと自体が一つの{秩序}として存在している。

 こう考えてみると、人間ももともと宇宙という{秩序}の一部であり、その意味で小宇宙ということもできる。まさに、全体と部分とは一致しているのである。人間の生理的活動に無自覚な部分が多いのは、全体の{秩序}と人間の中の{秩序}が連続しているからである。

 しかし、人間に限って、無自覚ではない〈自我意識〉を持っていることは確かである。だからこそ宇宙に一つしかないはずの{秩序}とは異なった独立した〈秩序〉を〈自由意志〉として持つわけである。人間のみが、自らの〈自由意志〉で自らを死に至らしめることも可能だし、地球上の生物を破滅に追いやることもまた可能である。現に人類が開発した核兵器の保有量は、地球上の全生命を死滅させ得る量の数十倍に及ぶと言われている。

〈知覚〉も〈自由意志〉も宇宙の{秩序}から見れば、極めて特異なものだが、我々人間の哲学も思惟もそこから始まっているため、それが特異であることに、なかなか気付かない。

 人間以外の生物が主観世界を持つのかどうかという問題も、こうして考えるとある程度予想がつく。{知覚}というのは、行動が刺激から反応への正確な連続現象となっていることをもって規定されるのみだが、〈知覚〉はそれに対する反応を自己の〈自由意志〉である程度選択できるという点が違う。それを根拠に類推すれば、ミミズの感光作用はほぼ間違いなく{知覚}のはずである。植物もその多くは光という刺激に反応してその方向へ生長する。しかし人間は、光に対してのある一定の反応が予め定められているということはないし、極端な場合には、食欲を自己の〈理性〉で抑えて自ら餓死する者すら存在する。このような比較から、下等動物や植物が主観世界を持たないことが、証明はし得ないものの推測はできる。人間の〈理性〉や言語のもととなっている象徴行動も、環境の諸現象を自己の主観世界というフィルターの中で全く別な様に変造してしまうことに他ならないから、人間の文化もまた、{秩序}からの逸脱に端を発していると言えるかもしれない。

 文明史の流れとともに、人間がいよいよ自己破壊の方向へ歩み始めたと警鐘を鳴らす識者も多い。現代社会や世界の国際情勢は確かに暗い影を落としているが、その詳細はここで論じるまでもない。それはともかく、人間とて宇宙の{秩序}の中から生じた存在であり、その存在自体がもっと積極的な意味を持っていてもよいはずだという思いがぬぐえない。

 ここでさらに大乗仏教思想を奥まで見ると、答えが示されているように思える。それは、人間の可能性と理想像とを分断しない考え方である。

 「仏」が宇宙全体の一つの{秩序}・{法則}を指す語であるとすると、成仏とは、その{秩序}から逸脱する可能性を持った主観世界に於いて、その個としての立場を離れて仏を覚知すること、という意味になる。従って、その覚知の内容は、自己と宇宙との合一、連続を意味する。考えてみれば、逸脱によって生じた〈自由意志〉も、それが〈自由意志〉だからこそ、自らの主体的・能動的な行為によって宇宙の法に則った生き方が選択していけるはずである。衆生即仏という語があるが、結局は自己が仏であることを知る者こそ仏だということになる。ここには、知ると知らざるとに関らず仏であることと、知ってこそ仏であるという一見矛盾した二法が含まれているが、この二者を区別するために如来蔵系思想に於いて染浄の二法が説かれている。天台の観心の法門も智(主体)としての自己と境(対象)としての自己が完全に一致する境智冥合を説いている。要するに、〈自由意志〉はそれ自体ある意味では逸脱であっても、その〈自由意志〉自身によって自らを{秩序}へと戻すこと、つまり、自らの本質的な能動性によって法に則りながら生きることこそ、人間の生きるべき生き方であると、仏教は教えているのである。

 釈迦の中道論から天台の本覚論へと発展した一つの主張は、要するに“ありのまま”という一言で表現できよう。ただ、染浄の二法論や唯識思想の中に、法を覚知することをさまたげる様々な執着が衆生に存することが説かれており、そこに具体的な何らかの宗教的実践が要求される。つまり、覚知とは我々の〈意識〉や〈理性〉のみでなく、{無意識}や{身体}も含めて総合的に行わなければならないから、もはや考え方の問題ではなくなってくる。凡夫の衆生である自らを、死という形をとることなく、このまま宇宙の{秩序}たる{法}に冥合させるには、{法}に対する絶対の畏敬の念、すなわち〈信〉をもってするしかないと私は考えている。

 こうして考えると、人間にのみ存する善悪の価値も、{法}への接近の方向を〈善〉、{法}からの遊離の方向を〈悪〉というふうに我々はありありとした善悪の〈クオリア〉をもって判断していることに気付かされる。つまり、自ら{法}の一部でありながら、{法}に近づき、また離れ、そうしている中に〈善悪〉は存する。例えば、生命系の維持とは無関係に、まさに逸脱した形で、生き物を殺し、自然を破壊することは〈悪〉である。衆生即仏の当体である人間どうしが殺し合うのは〈悪〉である。個人という妄分別に執着することは、エゴイズムという〈悪〉をもたらすほか、さらには、国家だのイデオロギーだのという概念の産物への〈執着〉をもたらす。仏教が平和思想として期待されるゆえんは、すべての人間という生命的存在に究極の目的たる価値がおかれることにある。政治も経済も教育も芸術もあらゆる文化が、人間に正しく奉仕する真の人間主義こそ仏教思想の本質であると言えよう。

結局、〈自由意志〉も{秩序}の一部と断定してよいように思われるし、むしろ、唯一幸福を〈実感〉できる衆生たる人間のためにこそ宇宙があるという楽観的な見方すらできるのである。このような考え方が大乗仏教的視点からの現代的両立論と言えないだろうか。

私たちは宇宙や自然の{秩序}に対して何らかの美意識や畏敬の念を持っている。この価値観によって{秩序}の方向に主体的に向かおうとするのが、人間自身の善なる〈自由意志〉であると言うことができる。ここで「宇宙や自然の{秩序}が持つ美しさや厳かさ」と述べたものこそ、実は「生命の尊厳」ということの本質ではないかと筆者は考えている。

 

4.{本能}と〈理性〉

 

 人間の主観世界を考察する上で、日本の現代思想の中で精神分析学者・岸田秀氏(1933-)や文化記号学者・丸山圭三郎氏(1933-93)らの説に見られる本能論、理性論は注目に値する。

 まず、フロイト研究から独自に発展した岸田の論調について考えたい。岸田は人間を“本能が壊れた動物”と定義づけている(岸田(1978))。

 {本能}とは、自然界の{秩序}の一部であり、人間の〈自由意志〉的行動に対して対概念となるものに対する用語といえる。例えば、蜘蛛が巣を張る作業は人間が大工仕事で家を建てる作業と類似している。しかし、それは誰に教えられることもなく、その生命と共に自然の{秩序}の一部としてもともとあるものであって、〈自由意志〉に基づいているものではない。この、類似に対する逆説としての対比が、この現象に{本能}という概念を与えるわけである。この対比を度外視すれば、いわゆる{本能}的行動は、胃液の分泌や白血球の殺菌作用や心臓の鼓動等と同様に、いかなる特定の個的存在の〈自由意志〉とも無関係に宇宙全体の一つの{秩序}に従って行われるのであって、これら諸々の生理的現象と区別する積極的理由はない。

 {本能}をこのように捉えるなら、それと対比される、知能に基づく〈自由意志〉は、宇宙の{秩序}から逸脱した部分として、一つの{秩序}に対する相補的な関係のものと規定される。岸田が「人間は本能が壊れた動物」と述べるのも、自然の本来の姿は完璧なる{無意志}、即ち、まさに「ありのまま」としての自然にあると考えているということだろう。

 岸田の場合は、人間を否定的・悲観的に位置づけているが、大乗仏教思想では、先ほども述べたように、人間の存在理由を示してくれているとも言える。

 〈理性〉は{本能}によって動かされるが、{本能}を動かすことはできない。この関係の成立ちを知るための興味深いヒントが丸山(1984)の中で論じられていた。概略以下のようなことである。

 人間は嗅覚が極めて弱く、自らが食うことのできるものとそうでないものを本能的に選別することのできない唯一の哺乳動物である。しかし、だからといって〈理性〉がそれをすべて補うわけではない。また、{本能}のうちの志向性の部分に当たる、何かを食べたいという衝動は依然としてある。では一体人間はどのようにして食べるものを選ぶのか。それは、自我形成の過程で無意識層に獲得される、食の「文化」によってなされるのである。文化による選別能力は、決して理性的なものではなく、その証拠に食えないものは本当に食えない。嗜好の問題ではなく、体が受け付けないのである。しかしそれは、決して本能的なものでもない。その証拠に民族による文化差や個人差が挙げられる上に、個人においてもどんどん変化するものである。従ってこの能力は後天的かつ無意識的なものである。獲得する文化の相に従ってカタツムリは食えるがタコは食えなかったり、その逆であったりする。同じ文化の中でも獲得過程の幼児体験によって多少の個人差も生じる。筆者自身も幼少の頃、豚肉や鶏肉がなぜか食べられず、ある時を境に平気で食べられるようになった経験を持っている。

 いずれにせよ、この選別能力は、生理学的に許容される範囲内で選び取るようにできている。いわゆる“ゲテモノ”は文化からははみ出していても生理学的にははみ出していないはずである。もちろん、ガラスを食う奇人などはゲテモノにも値しない特異例である。それはショーであって食生活ではない。

 選別能力の習得の過程は、丸山説をかなりパラフレーズすると次のように考えられる。まず食欲というエネルギーが{無意識}より発散され、それを契機として世界(食べ物)と〈自我〉との接触が行われ、それに〈快〉・〈不快〉といった価値が付与された上で、自己の{無意識}層に刻まれる(幼児体験)。これを交互に繰り返してはっきりとした形になる。もちろん、初期の接触は親の助けを借りずには成立しない。ここでは〈意識〉と{無意識}とは連続しながら、相互因果的である。さらに、ここでは我々にとって対象である食べ物が、自らの現象の一部として働いており、もはや外のできごとではない。また、一人の幼児が接触する環境は決して偶然ではなく、その内的なエネルギーによって必然へと転化されていく。

以上のことは仏教唯識派の世親が述べるところの識転変の思想でも言い換えることができる。識転変の思想では、〈知覚〉を行う眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識に映った〈表象〉と識とを一元的に捉え、〈知覚〉を生じさせるものは差別相であるとする。それは概念の網という虚像であり、言語の意味は語や文が単独で有するものではなく、常に相互関係によって生じるものであるとするソシュールの記号論と通じるものである。

 天台の九識論における第九識(阿摩羅識)が自己における宇宙の{秩序}(=仏)を指すとすれば、第八識とされる識転変の阿頼耶識という諸々の執着・業の源とそれから発する妄分別による五識も、すべて阿摩羅識から連続している。

 これら一連の理論から〈理性〉と{本能}の連続性または〈自由意志〉と{秩序}の連続性についての示唆を受けることができた。

 日本の現代思想における記号論、深層心理学もまた、このように仏教思想によって説明が可能である。人間学がこれらの全体から学ぶべきところが大であることは間違い無い。

 

 

参考文献

 

大森荘蔵(1971)『言語・知覚・世界』岩波書店

大森荘蔵(1976)『物と心』東京大学出版会

大森荘蔵(1982)『新視覚新論』東京大学出版会

岸田秀(1978)『ものぐさ精神分析』青土社

岸田秀(1987)『嫉妬の時代』飛鳥新社

坂本百大(1980)『人間機械論の哲学 心身問題と自由のゆくえ』勁草書房

トインビー, A.J.・池田大作(1975)『二十一世紀への対話』文芸春秋

永井均(1986)『〈私〉のメタフィジックス』勁草書房

永井均(1998)『〈私〉の存在の比類なさ』勁草書房

丸山圭三郎(1984)『文化のフェティシズム』勁草書房

茂木健一郎(1997)『脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』日経サイエンス社

Chalmers, David J. (1995) "Facing Up to the Problem of Consciousness". Journal of Consciousness Studies 2-3, 200-219.

Chalmers, David J. (1997) The Conscious Mind: In Search of a Fundamental Theory. Oxford University Press.(林一訳 (2001) 『意識する心』白揚社)

Dennett, Daniel (1984) Elbow Room: The Varieties of Free Will Worth Wanting. Bradford Books.

Nagel, Thomas (1974) "What Is it Like to Be a Bat?", Philosophical Review, LXXXV-4, 435-50.

Nagel, Thomas (1979) Mortal Questions, Cambridge University Press.(邦訳:永井均訳 (1989) 『コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房)

Nagel, Thomas (1987) What Does It All Mean?: a Very Short Introduction to Philosophy, Oxford University Press.(邦訳:岡本裕一朗他訳 (1993) 『哲学ってどんなこと?:とっても短い哲学入門』昭和堂)

Pribram, Karl (1969) Brain and behavior, Hammondsworth: Penguin Books.

Pribram, Karl (1971) Languages of the brain; experimental paradoxes and principles in neuropsychology, Englewood Cliffs, N. J.: Prentice-Hall.(邦訳:岩原信九郎他訳 (1978) 『脳の言語 実験上のパラドックスと神経心理学の原理』誠信書房


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