池田SGI会長キューバ初訪問15周年に寄せて

創価大学学生部長 山岡 政紀


誇りも高きカリブの国

 

 本年624日は創価大学創立者である池田大作先生のキューバ初訪問から15周年に当たる佳日であった。

 私は2度にわたってSGI(創価学会インタナショナル)青年キューバ訪問団に参加し、人生が一変するほどの感動を体験させていただいた。

 19959月、キューバの地を踏んだ私は、衝撃を受けた。文化大臣から学生まで会う人すべてが独立の英雄ホセ・マルティへの尊敬と、その人道主義の継承を口にしていたのだ。

 同年は、折しもマルティが没してからちょうど100年。私は、マルティの精神が時空を越え、カストロ議長をはじめ国民一人一人の心に、「師弟」の形を為して生き続いていることを肌で実感した。

 

共鳴し合う二人の精神

 

 到着後、私たちは同国文化省の招待で、ハバナ市の国立最高芸術学院の学生たちの演奏などを鑑賞することができた(注1)。その一つ一つの演目は、驚異的な技術に裏付けられた芸術だった。そして、何よりも豊かな精神性を伝えてくれるものであった。

 革命後から一貫して米国と対立し、経済的に貧しかったキューバの人々にとって、自分たちの誇りを表現する手段は芸術でありスポーツであった。こうした人間的要素を重視するのも、マルティの人道主義の表現の一つであると、彼らは笑顔で語っていた。

 こうした感動もさることながら、それ以上に驚いたのは、そうしたキューバの精神性を、池田先生は既に熟知されていて、同国の人々から不動の信頼を寄せられていたことだった。

 事実、先生はキューバの交流を早期から進められ、80年代には自らが創立した民主音楽協会が、同国の音楽、舞踊団などを幾度も招聘した。これはキューバの高い精神性を見抜いていた先生の慧眼によるものであった。

 また、デルガード駐日大使(当時)は、9112月の池田先生との会見を次のように述懐している。

 「その日、私は、先生がマルティと一致していることについて話をしようと思っていました。けれど、私が話す前に先生からマルティの話題を切り出されたのです。それだけでなく、先生の言葉を聞けば聞くほど、これほどマルティをよく知る日本人は先生の他にいないと確信しました」

 まさに先生が、キューバの尊厳と誇りを熟知されていたことの証左ではないだろうか。

 

「人間」立脚の民間外交

 

 ソ連初訪問の折、先生は、どうして共産主義国に行くのかと尋ねられ、「そこに人間がいるからです」と答えられた。その後、中ソが緊張関係にあった中、両国の橋渡し役をされたことはつとに有名である。

 先生は常に、一宗教団体の指導者の次元を越え、世界平和のために「人間」に立脚する民間外交を展開されていたのである。

 こうした先生の人間主義の行動は、カストロ議長にも報告されていたのであろう。実際に、私が彼の地を訪れた際、文化大臣をはじめとする首脳陣が先生の来訪を熱望していた。

 そんなキューバの人々の期待に応え、池田先生のキューバ初訪問が実現したのが、15年前の1996624日であった。

 翌25日、先生は「フェリックス・バレラ最高勲章」授与式などの重要行事に出席され、午後には国立ハバナ大学で名誉博士号を受章された。

 そしてその後、カストロ議長との会見に臨まれた。議長は、革命以来、国内の公式の場で初めて軍服を脱ぎ、スーツを着用して先生を迎えたのである。1時間半に及んだその語らいは、現在までに随筆などで発表してくださっている。

 この直後の同月30日、私は2度目のキューバ訪問を行った。その際、先生との出会いを果たした首脳陣が興奮をもってその感動を語っていたことが忘れられない。

 先生のキューバとの交流は、ただただ誠実な人間外交であった。ゆえに揺るぎない信頼を築くことができたのである。

 先生のキューバ訪問の意義は、今後も時とともに光り輝いていくに違いない。それを創大生に、あらゆる友に伝えゆくことが私の使命であると感じている。

 

(注1)19959月の第1回キューバ訪問団の際に、他に現代舞踊団(前衛的な現代舞踊を鑑賞)、体育館・ジム(少年たちが自由に使用でき、特に有能な少年には英才教育が施されるという)、タララ市のチェルノブイリ収容施設(旧ソ連の原発事故によって今も残る放射能に被爆したウクライナの少年たちを引き取って治療する施設)なども訪問。また、19966月の第2回キューバ訪問団の際には、劇場でのバレエ団公演、教員養成大学、盲学校(盲目の3人の少年がギター弾き語りで素晴らしい歌声を聴かせてくれた)なども訪問した。

 

2011.7.20 (『創価新報』2011720日付より)


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