本日は、体育会各クラブのリーダーが集っての研修会、大変にお疲れ様です。
今日は一点に絞って申し上げたいと思います。皆さんのクラブのほとんどは、「試合に勝つ」という目標をもって、日々の練習に取り組んでいると思います。戦う以上、勝利を目指すのは当然であり、そこに真剣さがなかったらそれはもはや遊びでしかありません。負けてもいいなどと思って試合に臨むのは相手に対しても失礼です。
しかし、敢えて申しますと、目標と目的とは異なると思います。試合に勝つことは当面の目標であって最終目的ではありません。それでは創大体育会の最終目的は何か。そのことを探究するために、開学以来の創立者池田先生のご指導を拝してみたいと思います。
1977年4月18日、創立者池田大作先生は、当時のバドミントン部に対して次のように指導されました。
「スポーツというのは、勝つ事だけを目標にしてはいけない。勝っても負けても、創大バドミントン部はさわやかだという印象を敵に与えたならば、その振る舞いは人間として立派であり、それはまた、スポーツを超越している。それが人間教育なんだ」と。
「勝っても負けてもさわやかに」「勝っても負けても創大生らしく」。これは今なお続く先生の一貫した激励です。昨年6月、硬式野球部の全国大会を応援しに創立者がお車で球場に駆け付けてくださいました。その際、野球部の代表メンバーに車中からかけてくださったのは、「勝っても負けても朗らかに」との言葉でした。私もたまたまその場に居合わせましたので、そのお言葉をこの耳ではっきりと聴きました。これが草創以来変わらない、先生のご指導なのです。
真剣勝負で戦っても敗れることもある。しかし、その時に、後悔ばかりしてくよくよするのではなく、今日の敗戦を糧として、次に勝利に目標を切り替えて、またさわやかに新たな出発をするのが創大生です。逆に勝ったとしても、そのことに傲(おご)ってしまい、慢心を起こしたならば、成長は止まり、次の敗因を作ってしまいます。
また戦った相手に対してもひとたび試合が終われば、勝っても負けても、真剣勝負でいい試合ができたことを共に称え合い、喜び合って握手していく心が大切です。負けた時は勝者に敬意を払い、拍手で称えていく。勝った時も、同じ心で敗れた相手を称えていく。
先生は常に「心こそ大切なれ」と教えて下さっています。創価大学体育会の目的はクラブ員一人一人がスポーツを通じて体と心を鍛え、人生を勝利していくための土台を作ることであると、そのように言われていると拝されるのです。
かつて、10年ほど前に、創大の体育会のあるクラブが、対外試合に敗れた際に、審判の判定が納得できず、暴言を吐き、グランドの施設を蹴飛ばすなどの暴行を行い、連盟から試合停止の謹慎処分を受けたことがありました。創価大学の学生は何と乱暴なのかという印象を与える結果となりました。その時のメンバーはその行為を後悔し、また、心から反省し、謹慎期間中、学内の清掃や草むしりなどを自発的に取り組みました。数ヶ月後謹慎が解けた時には全く違うクラブに生まれ変わり、それ以来、今も模範的なクラブとしてその伝統を保っております。
私は幼少の頃、当時の大横綱・大鵬関の相撲が大好きでした。大鵬は本当に強かったのですが、いつも倒れた相手が立ち上がるときに手を差し延べていました。一瞬前まで戦った敵に対して、まるで兄弟弟子であるかのように手を差し出すのです。だから、強さだけでは測れない人気がありました。
最近は、ある外国人横綱が勝ったあとに土俵上でガッツポーズすることが批判されていましたが、振る舞いそのものというよりも、敗者に対して敬意を持っているのかどうか、その心が批判されたのでしょう。
またつい最近は、高校野球の監督が、自分たちを破った相手チームへの敬意に欠ける発言をして、結果として辞任しました。敗戦の悔しさから思い余って出た言葉のようでしたが、そういう一番辛い時に人間の本性というのは出てしまうものです。
強くなれば強くなるほど、礼儀正しさや誠実さが増していく、というのが創価の人間教育であると思います。同じスポーツを愛好する友との友情は、時に対戦した他大学の学生にも通じ、拡がるものです。そこに豊かな友情の交流ができ、創価大学の人間教育の実証を伝えていくことができれば、どれほど素晴らしいことかと思います。
開学40周年を迎えて、我が創大体育会の一人一人の勝利と、各クラブの益々の発展を心より祈念して私のご挨拶といたします。
2010.3.17
体育会リーダーズ研修会挨拶より(当日の挨拶に若干加筆しました)