[warichu]速記叢書[/warichu]講談演説集第三冊 ○ノルマントン号船長の罪を鳴らさんとせば宜しく先づ証拠蒐集に尽力すべし 明治十九年十一月十八日[warichu]ノルマントン号沈没事件[/warichu]学術調査討論演説会[warichu]東京浅草井生村楼[/warichu]に於て 薩{土垂unicode16→埵}正邦君演説 諸君、私は「ノルマントン号船長の罪を鳴らさんとせば宜しく先づ証拠蒐集に尽力すべし」といふ題に付て簡短に意見を述べやうと思ひます。一たび英船ノルマントン号が紀州沖に於て沈没し我が日本人二十五名といふものが助からずして船長並に他の乗組人等が其の生命を全うしたといふことが世上に現はれてより囂々或ひは之を筆に訴へ或ひは之を口に唱ふることになりました。併し各新聞紙がこれまで喋々して居る所を聞けば或ひは謀殺に当ると言ひ或ひは故殺に当ると言ひますが、これはただ感覚に過ぎぬことで法律学上果して責罰があるやといふことを研究したものを見ませぬ。故に已むを得ず私が一言、諸君に陳べむと慾することになりました。 今日我が国には治外法権といふものが行はれて居ります。併し純理上から言へば今回の事件の如きは我が国に於て之を裁判するのが順序でありませう。なぜなれば安寧に関する法律は其の土地に住するものは内外人を問はず支配するものにて殊に裁判は其の犯罪の地の裁判所にて管轄すべきものでありまするから、尤も土地と言ツても地理学上で言ふ土地では無く領海も土地にはいツて居るもので此の度の船の沈没したのはドコかと言ふに紀州沖であります。紀州沖であれば日本の領海なれば裁判法理に照せば日本の裁判権理に付するのが至当で御坐りませう。併し今日は治外法権が存して居るから英国領事に於て支配することになツて居ります。既に英国の領事に於て支配することであれば法律学上に於て研究するを要するは英吉利法で御坐りませう。併し私は英吉利法は職違ひで御坐りますゆゑ知りませぬが英吉利法のことは大谷木君が後程、陳べられませうから私は英吉利法によらずして法理に付て考へを述べやうと思ひます。 諸君、我輩は日本人で御坐ります(これは言はずとも御承知で御坐りませうが)我が同胞二十五人が水中に葬むられ魚の腹を肥したのは我輩に於て悲歎に堪へぬことで御坐ります。他の乗組員は大抵助かツて居りながら我が人民は助からぬといふは実に憤怒に堪へぬことであります。これは我輩のみならず諸君も定めて御同感で御坐りませう。啻に諸君のみならず全国の人も同感で御坐りませう。実に同感ならざるを得ぬことです。併し此の悲歎と此の憤怒の感情よりして証拠も無い者を以て有罪であるといふのは法理の許さない所で御坐ります。 今道徳上の原理より言ひますれば身を殺しても仁を為すというふことがありまして尋常一般の人でも他人の危きに臨んでは之を救ふのが道徳上の義務で御坐りませう。況んや其の身船長であれば斯の如き場合に在ツては必ず乗組員を救はなければなりませぬ。然るをノルマントン号の船長は我が同胞を助けなかツたのは実に道徳上に於て罪すべき人で御坐りまする。併し道徳と法律とは自から混同すべからざるもので道徳上で責罰することも法律上では責罰せぬことが御坐ります。故に道徳上に於て罪すべき人であツても法律上で罪すべき証拠が無いときにはノルマントン号船長と雖も罪人とすることは出来ませぬ。 英国領事裁判所に於て被告人のみを審問して無罪を言ひ渡したるは審理の道を尽さぬものである。尚ほ尽すべき道があるべきのに、ただ陳述のみを以て其の裁判を畢りたるは俗に言ふ片落ち裁判で御坐りませう。併し結局取り調べた上若し充分なる証拠の無い時はドウするか。証拠が無ければ輿論は何と言ツても已むを得ず無罪にせぬければなりますまい。 而して今新聞紙上、我輩に知らする所は充分にノルマントン号船長のことに付て証拠が明かで御坐りませうか。暗礁に乗りかかツてから船長初め逃げたまでは長い間であるから、この間に助けられるだらうといふも実は推測に過ぎないことで御坐りませう。これを以て謀殺に当る故殺に当るといふも其の説は取れませぬ。今法理上より言へば凡そ罪を組成するには内部と外部との元素が無ければなりませぬ。謀殺を以て問ふには豫謀殺意及び殺害の所為が無ければなりませぬ。其の証拠を挙げてかからぬければ謀殺又は故殺に問ふことは出来ますまい。なぜなれば船長ドレーキが日本人を殺さうと豫め考へたとか臨時殺さうと思ふたとかいふことはまだ現はれて来ませぬから。又英国の如く怠務殺人となすにもせよ其の本務を怠りたること及び其の怠務に因りて人を殺したることは之を証せねばなりませぬ。其の暗礁に乗りあげてより沈没に至るまで充分の時間があツたから救ひ得られさうなものであるに之を救ふことの出来なかツたのは恐らくは怠ツたものであらうと言ふも、これは情況上のことで御坐りまして充分の証拠とは看做せませぬ。既に我が治罪法にも情況の裁判は禁じて御坐ります。徳川の頃は情況裁判が行はれて居りましたが今では証拠裁判で無ければなりませぬ。英吉利のことは委しく知りませぬが開明諸国は大抵証拠裁判になツて居ります。然れば証拠が明かでなければいけませぬ。我々がこれだけの罪になるといふに充分なる証拠を探さずして之を謀殺に当る故殺に当るといふは少しく大早計と言ふべきものでは御坐りませぬか。 然れば今日吾人が我が同胞の為めに尽すべき第一の職分は証拠の蒐集に尽力することで御坐ります。其の証拠が充分なるに無罪と決するなら充分駁撃するが宜しい。故に全国の人民は証拠を集め材料を確かめなければなりませぬ。而してこの証拠を如何にして集めませうか。死人に口なしであるから生かして言はせることは出来ませぬ。併し水潜り器械もあれば証拠を尋ねるのは敢て難いことではありますまい。海底を探ねまた他に名案を施したらば罪跡が現はれないことはありますまい。我輩は此の事に付て疑ツて居ツたが此の頃或る新聞社の人の発起で漸く水潜り器械で探すことになツたといふことでありますが先月の二十四日から今日まで、すておくとは随分長い話しではありませぬか。 この証拠蒐集のことは迚も二三の人を以て為し得べきことで無いから私が諸君に願ふ所は諸君充分に力を合して証拠蒐集に力を尽され道徳上の罪人なる船長ドレーキをして亦法律上の罪人たるに充分なる証拠を蒐集することに尽力されむことを願ひます。私の演説は此に止めませう。尚ほ委しきことは大谷木君が英国の法律に照して論ぜられませうから。 林茂淳筆記