例言 この別記は、題號のごとく、別に、廣日本文典とて刊行せるがある、その附録別記なり。 されば、この別記は、廣日本文典ありての上の用のものなれば、この別記を覽む者は、廣日本文典を覽ての上なるべきも、いふに及ばず。 此の別記よりしては、廣日本文典をば、本書と稱す、通篇行文中に、「本書」とあるは、すべて、其意なりと知るべく、「この書」の意と誤解することなかれ。 さて、「この書」の意なる所には、すべて、「この別記」と記して、別ちおけり。 此別記は、本書に説ける節々に就きて、別に、註釋、敷衍、參考、考證、辨解、持論、駁論、等あるを記したるものなり。 これら、初は、本書の毎節の註脚中に附載したりしに、餘説、議論、などの、竄入してあらむは、本書の行文に、斷續を生じて、通篇大旨の一貫に妨げあらむと、刊行に臨みて、俄に思ひつきて、凡そ、事の、枝葉に渉れり、と思ひなさるゝ限りは、一々引きのぞきて、此の別記に一括したるなり、されば、毎節、碎屑なるものとはなれり。 さて、此の別記の毎節の行頭<ギヤウトウ>に、(本、三五)など記したるは、本書の毎節の上欄上にある數字との符契なり。   草々に引きぬきたるわざにもあり、且、時、盛夏にして、微恙に罹れる際にもありしかば、除くべきものの、尚、存し除くまじきものゝ、移れるも、まれ/\まれにはあるべきか。 又、兩書毎節の符字を記しつけたる後に、また、加除したる所もあれば、符契の、離合して、いかゞはしき觀を生じたる所もあり。 (されど、その齟齬せし所はあらじ、)   又、兩書に引用せし例文、例句、の出典も、大抵は、原書に照合したれど、溽暑に懊惱して、一二の遺漏誤脱も、或はあらむ、讀む者、諒せよ。 ○余が文典中の語格は、凡そ、平安遷都の初より、 後三條の朝の頃までの書中の用例に據りて立てて、私に、これを中古言と稱す。   後三條の朝の頃と限りたるは、言、文、未だ、兩途にわかれざりき、とおぼしき世を準としてなり。 およそは、竹取、古今、などより、狹衣などまでなり。 奈良朝以前の古格は、姑く異例とはしたり、然らざれば、二格、并立するやうの事起りて、(名こそよき、」名こそよけれ、」見らむ、」見るらむ、」ノ類、)普通語格の基、立たず。 又、中古言なりとて、用例の、尋常普通なる方に從ひて、一時の用語とおぼしきもの、(べらなり、」給ふける、」ノ類、)又は、僻典と認めらるゝは、避けたり、言文一致の世の筆の跡なりとて、悉皆、金玉なるにもあるまじく、歌屑などいふもあるべく、瑕、瑜、混ずべきにあらず、且、傳寫の誤などいふことも、あるべければなり。 紀、記、萬葉、に存する古格は、別に、自ら、其學あるべく、普通文の用例には、避くべきなり。 書記に斯る例あり、萬葉に然用ゐたるありとて、極めて古き、極めて希覯なる典例をも擧げ來らば、異例のみ出で來て、今人には、耳遠くして通ぜず、語格も一定すべからず。 且、其古格、又は、中古言なりとも僻典なるなどを採りて、初學の、作文に用ゐたらむには、師たる者、まづは削正すべからむ、初より教へぬをよしとす。 とにもかくにも、普通語格は、尋常なるに據りて立てゝ、初學をして、一應、語格文法を知らしむべく、それに據りて、文を作らしめて、決して、雅文の法に違ふことなし。 さて、上達して、專攻し、獨力にて博く古今にわたらむは、また、格別の事なり。 ○和歌は、限ある字句の中に、限なき意を述ぶべき事もありて、言外に餘意を聞かする作例も出で、隨ひて、言ひさして餘韻に付し、語句を略したる多し。 (甚しきは、所謂、「心あまりて、詞足らず、」の難を受くるあるに至る、) 又歌ふに、調を取る方よりして、法外に馳騁すること、なきにしもあらず。 又、歌詞とて散文には用ゐぬ語格などもあるなり。 されば、和歌と散文とには、法格の相異なる所少からず、猶、漢文と詩とに、調格の相異なる所あるが如し。 普通文法は、宗と、散文に就きていふものなれば、深く和歌の事をば言はず、度外に置きたるあり、和歌には、別に、自ら、其學あるべきなり。 用例に、戀歌なるは、一切採らざらむとは、しつれど、いかにせむ、歌集、物語、大半は、戀にして、用例をあなぐりて、これぞ佳典なる、と見れば、戀歌なり、惜しとは思へど、捨てゝ、また、これぞ、と見れば、また戀歌なり、斯く、頻々、戀歌にのみ撞着すること出で來て、毎に顰蹙せずはあらず。 されど、必用なる用例にて、他に、急に見出でぬには、引けるもあり、己<ママ>むことを得ぬに出でたるわざなり。 ○余が文典の稿案、多く、先哲が苦心の餘澤に據りしこと、論ずるまでもなし。 然れども、余が新案に出でたるも、固より多し。 師傳にて學びし人は、師説をもどくに、憚りもあるべく、從來の學派を汲み、其學説を遵奉せる人には、余が新案は、謀叛の旗擧げしたらむやうに、思ひなさむ事も多からむ。 されど、余は、獨學にて、師事せし所とてはなければ、その嫌ひ、さらになきなり、余が忠節を致さむとする所は、唯、斯道の發達にあり。 余が淺學なるより、我が新案ならむと思ふ事の、案の外に、先輩の、夙く説きおけるを、知らずしてあるもあらむ、斯る事は、おのれのみならず、先輩の、先輩に於けるにも、まゝありなむ。 又、先輩の、後進の、我の、人の、いづれか先き、いづれか後なる、わきがたきも多かるべし。 明に、剽竊の痕跡を免れざらむは、さるものにて、説の暗合といふ事も、おのずからあるべきことわりなりかし。 ○文法科は、言語を正しく用ゐ、文句を正しく綴り得るを教ふるを旨とし、且は、讀書、釋義、修辭等の力を養ふまでのものなり。 然るに、世の文典中には、文法科外なる音韻學、言語學、修辭學、博言學、又は、辭書に屬すべき事にまで渉れる多し。   文體文格などいひ、趣味巧緻などいふ事、文法科には與からず、乾燥なりとて、語格だに正しくば、趣意は解すべく、絢爛なりとて、破格あらむには、解せられず、語格よりいへば、作體は度外なるべし。 右等の學科も、文法科と、相聯關するものにはあれど、別に、其專門科のある上は、其深理等に至りては、各、相讓るべきなり。 余が文興中に、助動詞、弖爾波、感動詞、接尾語等、語を盡して、列擧して説きたるも、實は、辭書の範圍に入れる嫌ひありて、文典の體裁を失はむの思ひあるなり。 然れども、斯くせざれば、意義を別ちかぬべくも思ひたれば、然せしなり、巳<ママ>むことを得ずしてなり。 又、音節篇(Prosody.)の一篇は、却て文法科に屬すべきものなれど、余が文典には、姑く缺きたり。 さるは、發音符の「アクセント」(Accent.)の如き、我が國にては、今、定めがたき事情あればなり。 封建割據の勢よりして、「アクセント、」隋地に相異なり、一地方なるをもて定めむには、たやすきわざなれど、日本文典は、名のごとく、日本全國にかゝるものなり、「東京アクセント」にて立てむか、全國所在の學校にて、教え得べきか、行はるべきか、「京都アクセント」にて立てむか、同一の事情ならむ、邊土の「アクセント、」採るべくもあらず。 和字正濫抄などに、發音の上に、平、上、去、など説きたるは、皆、幾内邊の「アクセント」なり。 柿と牡蛎との「アクセント、」東西兩京、正反對なり、此類、擧ぐるに暇あらず。 關東にては、奴婢の名の「熊、」「虎、」「梅、」「竹、」などを呼ぶには、動植の實物を呼ぶとは、「アクセント」を異にすれど、(熊、」虎、」など、實物のかたの「アクセント」にて呼ばゞ、雇人とても腹だつべし、)關西には通ぜぬなるべし。 「アクセント」の事、深く考ふべきなり。   山田美妙齋と稱する人あり、辭書を作りて、余が言海に、「アクセント」を加へざりしを罵れり。 文典を作り辭書を作らむほどの者が、「アクセント」に心つかである理あらむや、加へざりしは、前陳の事情ありて、定めかねたればなり、一地方の「アクセント」は、何の效をもなすまじく思ひたればなり。 扨、美妙齋氏の「アクセント」を見れば「東京アクセント」なり、余は、江戸にて生れて、十六歳まで、江戸にて成長せり、以來、去就あり、前後を通じて、東京に住せし事、三四十年に及べり、「東京アクセント」ならば、一夜にも定むべかりしなり。 ○次に文法教授法の私案を言はむ。 無心にして言へば、假名の字形、清濁の讀方などは、すべて、初等教育にて學ぶものなり、又、言語とても「山、川、草、木、」といひ、「花は咲く、」風の吹く、」といひ、「書を讀むべし、」字を記さむ、」といひ、「山高し、」海深し、」などいふ、國人にして國語を讀むに、自然の知ありて、別に解しかぬることもなく、これを文法科にて、取立てゝ、事々しく説く必要はなきやうなり、從來の語學書に、難局のみ説きて、知れわたりたる事に言ひ及ばざりしも、其故あるなり。 然りといへども文法といふ一科學の範圍としては、あらゆる文字言語を漏さず、一應は、説かざることを得ねば、記すなれど、さて、教授の上に至りては、教師に、自ら活用の手段あるべきにて、知れわたりたる件々は、必ずしも責めず、誤まるべき局處のみ責むべきなり、然らざれば、無益に時間を費すのみなるべし。 左に、文典中の、必ず教示熟知せしめずては、えあらぬ局處を擧げむ、此外なるは、ひとわたり講義してありて、可なり。  一總論にては、文章語と口語とに差ある事。  一文字篇の假名にては、母韻、半母韻、の「い、」う、」え、」の別。 「い、ゐ、」え、ゑ、」お、を、」の別。 濁音の、「じ、ぢ、」ず、づ、」の別。 拗音の「じや、ぢや、」じゆ、ぢゆ、」等の別。 轉呼音の「は、わ、」い、ひ、」う、ふ、」え、へ、」お、ほ、」の轉。 「あう」おう、」かう、」こう、」等の轉。 音便の「くらひて、くらうて、」かひて、かうて、」の轉などなり。 (以上、畢竟は、第七六節にいふ假名遣なり、)  一漢字にては、文字に、音と訓とある事。  一單語篇の名詞、代名詞、數詞は、通過してよし。  一動詞にては、自動、他動、の用法を違ふまじき事。 語根と語尾との別。 正格、變格、九類の語尾活用の變化する状、これは、力を極めて教へて、十二分に熟知せしめ、第一表の紙末なる語尾活用のみの諳誦を、自由自在ならしめて止むべし。 殊に、變格の四類を責むべし。 (佐變の「吟ず、」感ず、」周旋す、」の類、殊に注意すべし、)上二段、下二段活用の口語調を、文章語に混ずまじき事。 動詞にて、活用を熟知せしめ置けば、後の形容詞、助動詞、の語尾活用に至りて、大に力を省くべし。   動詞の法にては、第一、第二の終止法、又は、連體法、を用ゐ誤るまじき事。 中止法の一五〇節のあたり。 其他は、通過して可なるべし。  一形容詞にては、「嬉しゝ、」怪しゝ、」の誤。  一助動詞にては、所相の「罪せらる、」解せらる、」を「罪さる、」解さる、」など誤るまじき事。(勢相モ、同ジ、) 使役相の「解せさす、」周旋せさす、」の、「解さす、」周旋さす、」の誤。 勢相、使役相と、敬相との別。 指定の「恐るべし、」起くべし、」手を觸るべからず、」などの、「恐れべし、」起きべし、」手を觸れべからず、」の誤。 打消の「ず」と「じ」との差。 四段活用の一種の半過去(第二三七節)を、下二段活用に誤用すまじき事。 過去の「き、し、しか」の「暮しゝ、」任せし、」の別。 「き」と「し」との第一、第二終止法の用法の誤。 推量の「任せまし、」と、打消の「任すまじ、」と、の清濁、用法の別。 詠嘆の「なり、」と、指定の「なり」と、の用法の差。 第二六七節の類別。  一副詞にては、禁止の「な、」を、動詞の第二活用に添ふまじき事。  一接續詞にはなし。  一弖爾波の第一類にては、動詞にかゝる「が、」「の、」と、名詞を繋ぐ「の、」が、」との別。 「と、」の、必ず、終止法を承くべき事。 一種の「と」(與)の、幾處にても加ふべき事。 「に」と「へ」との別。 第二類にては、「だに、」と「さへ、」との別。 「や、」と「か、」との全部は、力を用ゐよ。 第三類にては、「と、」とも、」と「ど、」ども」との別。 「ば、」の二樣の用法、これも殊に注意せよ。  一感動詞にては、「や」と、疑ひの「や」との別。 希望の「ね、」な、」なむ、」と、半過去の「ぬ」の命令の「ね、」詠歎の「な、」ぬ」の未來の「なむ、」又は、弖爾波の「なむ、」との別。 第四三六節の類別。  一熟語、疊語、接頭語、發語、にはなし。  一接尾語にては、他語を副詞とするものゝ中にて、「ものから」の用法。 第四八〇節の「み」の用法、等なり  一文章篇は、文法科に於て、最も緊要なり、全部を通じて、熟知せしむべし。 右は、私案としていふのみ、他は、皆、無用なりといふには、固よりあらず。 又、右の私案は、中等文典、廣文典、に通じていふにはあれど、中等と高等とには、説くに、自ら深淺精粗あるべきこと、いふまでもなし。 畢竟ずるに、取捨裁斷の運用は、人々の方寸の中にあるべきなり。 ○中等文典の中に、今の日常の普通文には、稍、耳遠しと思はるゝ格をも説きおけるを、難ずる人もあらむか。 然れども、文法の學習は、みづから文作らむ用のみにあらず、既成の文章を讀みわけむ力をも、つけおかむが爲なる事、固よりにて、稍古き文(中等教育を歴たる程の人に應じたるにいふ、)をも、讀み取り得べきまでは、教育して置くべきなり、必ずこれを自作の文に應用せよ、といふにはあらず。 但し、尋常中學にて、萬葉集など講じてある學校もありと聞く、それらは、程度を量らずといふべし。 ○中等文典の文字篇中に、羅馬字の發聲母音經緯表を加へたるは、洋學せぬ教員には、いかゞとも思ひたれど、羅馬字を借らねば、分明に説きあかし得ず、且、中等以上の學校にては、英語英文法をも課する事にもあれば、學生には、自ら理會にはやかるべくも思ひ、又、洋學せぬ人なりとて、音の原理を教ふるばかりの人は、羅馬字の音ばかりは、知りてもあるべきこと、とも思ひたれば、加へたり。 又、洋學せし教員ならば、廣文典のかたの動詞、助動詞、の活用表中などに、洋文法の用語をあておきたるを採りて、附説すべし、生徒には、洋文法と、兩々對照し、互に相發明する所ありて、大に悟入にはやき利あらむ。