モーツァルトを旅する(22)  ピアノ協奏曲第24番ハ短調K491 ー人間の魂の実像ー


 これが本当にモーツァルトの音楽だろうか──
 いつだったかは忘れたが、初めてこの曲を聴いた時の驚きは決して忘れることができない。
 ──不思議なる音楽、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番。それはすべてのピアノ協奏曲の最高峰であった。
 24番を旅したならば、その旅行記もまた最高の言葉に満ちていなくてはならない。2年に及ぶ連載の中でも、これほど緊張する瞬間があったろうか。その時 が今、訪れているのだ。
 しかも、この曲は間違いなく聴く者を選ぶ。誰でも感動できる代物ではない。だからこそ余計に、その局所的な己れの感動を普遍的な言葉に翻訳することにた めらいを覚える。
 だがそのことはこれ以上、言うまい。この旅行記は読む人におもねることはないかもしれない。それでもいい。自己満足と言われてもいいのだ。24番がモー ツァルトの真実の独白であるならば、この旅行記はその上を旅した私の真実の独白であっていいのだ。

 24番は1786年3月に作曲された。モーツァルトが、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンと、2管編成の近代オーケストラの 木管楽器を勢ぞろいさせた唯一の協奏曲である。そのこと一つだけをとってもモーツァルトにとってこの曲がただならぬ意味を持っていたことがうかがえる。
 そして、20番ニ短調(K466)と並ぶ短調の協奏曲である。しかもハ短調という、際だって悲壮感を持った調性であり、それはベートーベンに引き継がれ た、あの運命交響曲のハ短調でもあるのだ。ベートーベンが24番から大きな物を受け継いだことを私は確信している。
 そして、この曲に込められた真実をまざまざと私に見せてくれたのは内田光子の演奏だった。テイト指揮、イギリス室内管弦楽団との共演によるこのシリーズ も、25番(K503)とのカップリングからなるこの1枚のCDこそ間違いなく最高の名盤であった。

 第1楽章は低音の完全なユニゾンが弱音で始まる。あたかも大地の底からの響きのようだ。この主題は既にモーツァルトの他の曲にはない特徴をいくつ か備えている。意表をついた7度の跳躍を含む、奇怪なモチーフが用いられる。しかも調性は安定せず、ズレ続ける。苦悩のあまり世界が正視できず、錯乱状態 に陥った人の病める心境を想起させる。全く非旋律的である。同じ短調でも交響曲第40番(K550)のようにメロディアスなものと比べると、とても同一人 物が作曲したとは思えないほどの隔りがある。
 そしてそれはトゥッティの激しい音となってしかしながら依然として無表情のまま騒ぎ立てる。
 宇宙にもとからあったような自然さがモーツァルトではなかったのか。川の流れのように、そよ吹く風のように、月の光のように、我々の存在するこの世界の もともとの風景のように、我々に豊かな安らぎを与えてくれる音楽がモーツァルトではなかったのか。
 しかるにこれは一体何だ。落ち着く場所を求めてさまよい続け、結局安堵感を得られぬままに、激情を露にする・・。こんな音楽がモーツァルトの世界に他に あっただろうか。
 再び静かになったかと思うと、今度はオクターヴの跳躍を含む、やはり非旋律的な断片が木管楽器によって示される。そして悶えの中からやっと言葉が発され たかのように、初めて旋律的な断片が奏される。しかしこれとて暗い表情のままであることに変わりはない。
 そして、楽章中しばしば現れる半音階上昇進行がここで姿を現す。古典派音楽とは無縁のように思えるこのフレーズは、不気味であり、恐怖映画が始まるかの ような、緊張に満ちた静寂をもたらす。
 そんな中でピアノ独奏が登場する。それは何かを語る言葉のように、幾分旋律的である。しかし、その奥に言いたくて言えないことがぎっしり詰まっていて、 そしてそのことを察してほしいと訴えているかのようである。しかし、トゥッティの第1主題に遮られた後は、言いたいことも言えぬまま、12度の跳躍、14 度の跳躍につかまり、結局暗い無意識の世界に沈んでいく。長調に転調した後も、断片を繰り返すだけで旋律にはなっていかない。そしてピアノは出口を求めて 16分音符を奏で続ける。
 第2主題も長調で、一見爽やかな旋律のように見える。しかし何とその旋律はとことん下降し続けて沈んでいく。結局、見せかけの爽やかさだったのだ。それ が証拠に、この長調の第2主題がピアノと弦楽器によって奏され、最低音に達したときに突然あの不気味な第1主題がフルートによって開始されるのに、そこに は何の違和感もないのである。その間のピアノによるアルペジョもまた特別な神秘的な緊張感を醸し出し続けている。
 やがて展開部に入るが、特にその後半、半音を行ったり来たりするトゥッティの合間に激しく動き回るピアノのすさまじいまでの迫力には圧倒される。五体を 巡る血液の流れにさえ揺さぶりをかけるほどの激情である。内田光子もここではペダルを多用して激しさを十分に表現している。
 再現部に戻っても、終始、落ち着きそうで落ち着かぬ不安定さを抱えたままで、楽章は終末を迎える。
 クライマックスはカデンツァである。
 内田光子のオリジナルになるカデンツァの何とすごいこと。彼女は作曲の才能もあるのだろうか。この楽章が冒頭からずっと秘めてきた不安、恐れ、怒り、戸 惑い、それらの感情がここに見事に凝縮され、余す所なく伝えられている。聴いていて体が震える、そんな見事なカデンツァなのだ。そこには、モーツァルトが この楽章を通じて表現したかったもののすべてが凝縮されていると言ってよい。そして跳躍しながら次第に上昇し、頂点に達したときに、トゥッティに戻り、平 静を装って楽章は幕を閉じる。
 この楽章には確かに様々な技巧が凝らされている。直観的に筆を進めるモーツァルトらしからぬ、様々な意図的な試みも含まれている。それでいてしかも、そ れらが霊感によって作られたとしか思えないほどの、何か一貫した魂が秘められていることを私は認めたい。

 この高い緊張感の中で、静かに第2楽章は始まる。平行調の変ホ長調の第1主題は子守歌のように優しく、安堵感に満ちている。それは第1楽章とあま りにも対照的に単純で平易な旋律であった。
 母の胸に抱かれた赤ん坊のように、すべてを信頼しきった解放感がここにはある。ここではどんなに甘えてもいいのだ。すべてが許される空間なのだ。そして 無比の愛情に暖かく包まれている・・・
 突然、ハ短調に転調し、フルートとオーボエとファゴットとによる、つぶやきの交錯が現れる。つぶやきはピアノに受け継がれ、楽章冒頭の暖かさが、実は既 に初めから迷いを内に秘めていたことに気づかされる。静かな中にも迷いに搖れる心の振幅は決して小さいものではない。それは優しさ故につきまとう不安かも しれない。このやり取りをもう一度繰り返した後、再び子守歌となる。典型的なロンド形式である。
 続いて、クラリネットとファゴットとによる変ホ長調の優しく暖かい旋律が展開される。この旋律もまたピアノ及び弦楽器群との間でやり取りされながら、緊 張感を高めていく。言葉に愛情を込めつつ、それを繰り返す時、言葉にはいつしか涙が混じっている。喉元をくすぐるような熱いメッセージはやがて、三たび子 守歌へと戻る。
 そして最後は木管楽器がすべて登場して、別れの挨拶をする。最後の最後まで、何と澄み切った、何と美しい旋律の塊だろう。第1楽章の緊張感を内にはらみ ながらも、その激情からの救いを提供し、人の心の暖かさの精華を充満させたこの楽章が、私はたまらなく好きだ。

 第3楽章は再びハ短調に戻る。変奏曲である。最初に主題が提示されるが、意外に淡々と無表情なつぶやきである。
 そこに突然、ピアノ独奏が気が触れたかのように割って入り、落ち着きのないパッセージを展開する(第1変奏)。続いて、淡々としながらもやや色めいた木 管の主題と、落ち着きを失ったままのピアノとが対話をする(第2変奏)。すると今度は主題が強い意志をもって駆け足を始める(第3変奏)。ここが頂点かと 思ったら、いきなり変イ長調に転じてクラリネットのスキップとなり、ピアノもそれにスキップで応える(第4変奏)。そしてふと立ち止まって、思い直すと、 そこに自己の所在に迷い始めた姿が現れる。答えのない迷いがしばらく続く(第5変奏)。それを励ますような伸びやかな旋律が木管群によって提示され、ピア ノもそれに応えてハ長調の旋律を奏でる(第6変奏)。しかし再び痛みを伴った主題が想起され(第7変奏)、ついには迷いは解決することなく、混迷の度を深 めたまま、完全に落ち着きを失って楽章を閉じる(第8変奏)。
 この煮えきらない未解決の印象はそれ自体がモーツァルトの真実の姿を映じたものであったろうし、と同時に25番によって解決することを初めから意図した ものかも知れない。

 果して24番が我々に訴えかけたものは何だったのだろう。23番(K488)が宇宙や自然との調和に霊感を受けたものとすれば、24番は対照的 に、人間の魂という大宇宙からの霊感を受け、苦悩、怒り、孤独をありのままに描きつつ、それから逃げることなく、凝視し続けたことの結実ではないだろう か。その中にあって第2楽章がもたらす安堵感は計り知れないほど澄み渡っている。苦しみも喜びもあってこそ真の人間の姿であることを全面的に受け入れよう としているように私には思えてならない。
 この曲をモーツァルトの全作品中、唯一の真実の叫びと敢えて私は断定したい。涙を催させることのできる希有の音楽である24番への畏敬の念と、その感動 を伝えてくれた内田光子への感謝の念を表明しつつ、筆を置きたい。

(『OracionVol.3 No.12 <1992.12> モス・クラブ刊より)


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