モーツァルトを旅する(19)  歌曲「すみれ」ト長調K476 ー豊かなる情愛への共鳴ー


 モーツァルトとゲーテ。同時代を生きた二人の偉大な芸術家である。1749年生まれのゲーテは、モーツァルトよりわずか8歳年上であった。18世紀後半 に偉大な作品を残した二人だが、残念ながらついに一度も直接接する機会には恵まれなかった。
 恐らくモーツァルトはゲーテの名声を知っていたであろう。だが、彼はゲーテの詩に曲を与えるという試みは、自らの意志に於いてはただの一度も成さなかっ た。一見、不可解に見える疑問だが、この疑問に答えることはモーツァルティアンにとってさほど難しいことではない。

 彼はすべての凡庸なフレーズを芸術へと構築させていく天才だったが故に、素材を選ばなかった。故に、歌曲やオペラを作曲する際も、素材となる作品(詩や 物語)を選ばなかった。その象徴的存在が歌劇「フィガロの結婚」(K492)であろう。その粗筋は、伯爵に仕えるフィガロが伯爵夫人の侍女であったスザン ナと結婚することになり、その初夜を伯爵が奪おうとしたことに対して、フィガロが上手にやりこめるという物語である。いわゆる格調高い芸術作品とは言い難 い内容である。事実、1786年に初演されるまで、くだらない物語を歌劇に作曲するなどという恥知らずはやめろという、周囲の非難の声が激しかったことが 伝えられている。しかし、初演は熱狂的とさえ言えるほどの大好評であったそうだ。決して観客は、物語を無視して音楽だけを楽しんで熱狂したのではなかろ う。卑俗な人間の欲望が、実は人間の真実であることを、歌劇という大建築によって展開しされていることを聴衆は知ったのである。ここにこそモーツァルトの 天才たるゆえんがあるとすら言えるのである。
 同様に彼の歌曲は無名の詩人の詩に曲をつけたものが多い。私が好んで聴く、「夕べの想い」(K523)も、その詩は詩人ではなく、啓蒙主義の教育者で あったカンペという人の作品であった。ピアノ協奏曲第27番(K595)の直後に書き、そのメロディーが、同協奏曲の第3楽章の第1主題に酷似している 「春への憧れ」(K596)も有名だが、その詩はオーヴァベックという無名の詩人によるものである。恐らく、彼は他者のどんな文芸作品からも、その精神の 真髄を読み取る鋭い感性を持ち合わせ、その感性を元に、最高の曲を作り、与えたと言えるだろう。故に、彼にとって、歌曲を作る上で、必ずしもゲーテの詩は 必要としなかったのではないだろうか。

 しかし、運命とは不思議なものである。彼はゲーテの詩に出会い、そうとは知らずに曲を作っていたのである。
 1785年の6月のことである。その年には、既にピアノ協奏曲第20番(K466)、第21番(K467)という二つの名曲を書き、発表するなど、彼自 身の人生の中で最も脂の乗った時期であった。その真っ最中に歌曲「すみれ」が作曲された。そして、確かに、この「すみれ」はモーツァルトの歌曲中、最高峰 にある名曲である。私自身、その詩が誰のものであるかを知る以前に、この曲をモーツァルトの最高の歌曲と感じていたのである。
 そう、その「すみれ」の詩こそ、紛れもなくあのゲーテの詩なのである。
 モーツァルトはこの作品をある歌曲集の中から発見したが、そこでは、作者が誤ってグライムとされていた。そして、その詩のテーマも当時の一般的な歌謡詩 と大差無い牧歌的なものに見えた。しかし、どういうわけか、モーツァルトは最高の時にこの詩と出会い、最高の曲をこの詩に与えているのである。何という不 思議だろう。
 オラシオンの読者の皆さんは、この「すみれ」という詩をどう読まれるだろうか。

      Das Veilchen (すみれ)

    Ein Veilchen auf der Wiese stand      一本のすみれが牧場で咲いていた
    Gebuckt in sich und unbekannt;             
静かにうずくまり、知られることなく
    Es war ein herzig's Veilchen.                 
本当にかわいいすみれだった。
    Da kam ein' junge Sehaferin                 
そこへ若い羊飼いの少女がやって来た
    Mit leichtem Schritt und munterm Sinn  
軽い足取りで、晴やかな心で、
    Daher, daher,                                     
こちらへ、こちらへ、
    Die Wiese her, und sang.                      
牧場の中を、歌いながら

    Ach, denkt das Veilchen, war' ich nur      ああ、とすみれは思った、もし私が
    Die schonste Blume der Natur,             
世界で一番きれいな花だったら……
    Ach, nur ein kleines Weilchen,               
ああ、わずかの間だけでも
    Bis mich das Liebchen abgepfluckt         
あの少女に摘み取られて
    Und an dem Busen matt gedruckt!         
胸に押し抱かれ、やがてしぼむ
    Ach nur, ach nur                                 
ああ、ほんの、ほんの
    Ein Viertelstundchen lang!                    
15分の間だけでも……

    Ach, aber ach! das Madchen kam            ああ、なのに!少女はやってきたが
    Und nicht in Acht das Veilchen nahm,     
そのすみれには気づかず
    Ertrat das arme Veilchen.                     
かわいそうなすみれを踏みつぶした
    Es sank und starb und freut' sich noch;   
すみれは息絶えたが、でも嬉しかった
    Und sterb' ich denn, so sterb' ich doch    
なにしろ、私はあの子のせいで
    Durch sie, durch sie,                            
あの子に踏まれて
    Zu ihren Fussen doch.                          
死ぬのだから……

    Das arme Veilchen!                               かわいそうなすみれ!
    Es war ein herzig's Veilchen.                  
本当にかわいいすみれだった。

 原詩は7行が3連の合計21行であった。最後の2行はモーツァルトが付け加えたもので、その最後、つまり23行目は3行目と同じで、つけられたメ ロディーも同じである。この曲の中で同じフレーズが再び用いられるのはこの最終行だけである。言い換えれば、原詩の部分に対しては、同じフレーズの繰り返 しは一度もないということである。

 各連ごとの各行の言葉遣いを見ていると、行の長さがほぼ等しく対応しており、各連ごとに韻を踏んでいることもわかる。従って7行分の曲を一つ作 り、それを三度繰り返すということもできたはずである。実際、モーツァルトの歌曲は、そのような繰り返しを用いるものも多い。「春への憧れ」はその代表で ある。しかし、歌曲「すみれ」では21行の全体が一つのまとまりとなり、詩は絶えず展開し続ける。

 まず第1連はト長調で、牧歌風のメロディーでさわやかに始まる。4行目の少女の登場でニ長調に移り、喜びと期待が表現される。
 第2連ではト短調に始まり、いつしか変ロ長調に移るが、やはりいつしかト短調に戻る。美しい願望と、願望を持つこと故の切なさが同時に表現されて、短調 と長調の間をさまようのである。
 第3連では変ホ長調となるが、やはり不幸な17行目に於て決定的なハ短調となり、18行目には、絶望が切々と訴えられる。
 しかしながら、その絶望の中から、敢えてそれを幸せだと自らに言い聞かせる19行目からは冒頭のト長調に戻り、冒頭とは異なる一種の恍惚感とも言うべき ものが表現されて、最後にモーツァルト自身のため息のような2行が歌われて曲を締めくくる。
 このように、一行一行の繊細な感情をそのままに曲は進行し展開する。そこに彼の得意な転調の妙が用いられ、2分半の短い曲を一つの構築物へと築き上げる のである。

 世界の片隅のどんな弱い存在も、人知れずに激しい恋をし、激情に搖れる大きな世界を持っているのである。たった一輪のすみれが少女に踏まれる姿 に、ゲーテは感情移入したのだ。何と優しいのだろう。何と感性が豊かなのだろう。

 そして、モーツァルトはそれが誰の詩であろうと、その感性の豊かさに啓発されて、その詩が訴える心を見事に音楽にして添えたのである。彼が詩を評 価するのには、ゲーテの名声という先入観は一切必要なかった。一流の芸術家同士の魂が、一切の虚飾も政治的な言辞も抜きに、純粋にぶつかりあった結晶が、 この歌曲「すみれ」だと言えよう。
 求めずして成された二人の魂の運命的な出会いに、私たち後世の者は感激しつつ、静かに「すみれ」の心を鑑賞したいものだ。

(『OracionVol.3 No.9 <1992.9> モス・クラブ刊より)


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