モーツァルトを旅する(15)  モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」ニ長調K618 ー信仰の精華ー midi


 モーツァルト没後200年の余韻の残るうちにどうしても語っておきたい、一つの美しい合唱曲がある。それは私がこれまで讃えてきたモーツァルトの音楽の 美しさである構築の美とも、対話の美とも無縁の、単純な構造をしたわずか3分半の小品である。
 その曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は、モーツァルト最期の年、1791年の6月17日に完成した。小品ながら、彼の内なる宗教性の最高の昇華とし て、この曲は最高傑作の一つに数えられている。合唱は4部合唱だが、しばしばボーイ・ソプラノが用いられ、その純粋な声の響きには背筋がふるえるほどであ る。

 作曲の経緯はこの曲に似つかわしくない単純なものに思える。妻が湯治のために世話になったバーデンの友人に宛てて、感謝の気持ちを込めて作曲されたのだという。しかし、契機は何であれ、既に死への達観の中にあった彼の信仰心が無目的に表現されたものではないだろうか。
 インノケンティウス4世教皇の作とされるラテン語の詩はわずか4行だが、神の子イエスの聖体への感謝の言葉である。訳を添えて次に掲げたい。

Ave verum corpus natum de Maria virgine,                        めでたし、処女マリアより生まれ給いしまことの御身体、
Vere passum immolatum in cruce pro homine.                     げに人のために苦しみを受け、十字架上に犠牲となられ、
Cujus latus perforatum un da fluxit et sanguine,                   御脇腹は刺し貫かれ、水と血とを流し給えり。
Esto nobis praegustatum in mortis examine.                        願わくは死の試練に当りて、我らのために先んじて天国の幸いを味わしめ給え。

 

  なぜ彼がこのテクストを選んだのか。この詩こそ、既に死に直面し、神のもとへの旅立ちを決意し、達観した者の心情を表現したものだからでなくして何であろう。
 モーツァルトはカソリックだったが、熱心な信徒ではなかったと伝えられている。これについては、カソリックから邪教とされたフリーメイスン(博愛主義を モットーとする、宗派を超えた結社)に所属していたことなども関係して、後世の宗教家が様々な思惑で諸説を闘わせている。確かにそれは彼の人生を語る上で 重要な問題だが、私にはこれについて語ることはできない。そもそも私自身は仏教徒であり、神への信仰を一切持たない人間である。私はモーツァルトのカソ リック信仰について何かを語ろうというのではないのだ。
 ──信仰。それは精神の純粋さ、誠実さの精華である。そこには本来、虚言も欺瞞もない。それが何に対するものであれ、そこには精神の清廉が見いだされ る。「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を通して、我々はモーツァルトの魂の清廉を知ることができる。彼がただの天才作曲家で、人間的には野卑で下品であった などという言伝えが誤りであることを教えてくれるのだ。

 ニ長調の主和音から始まるゆったりとしたハーモニーのそれ自体が何か天上の世界を思わせる透明な調べである。この1行目の詩はひたすら神への賛美のこと ばである。
 2行目にはイ長調に転調する。モーツァルトならではの絶妙の転調である。憂いを含んだ優美な旋律は、喜びと悲しみとをあわせ備えたイ長調だからこそ聞く ことのできる響きなのだ。“私のために苦しんでくれた人がいる”そう信じることのできる時、人はその苦しみに自分こそ甘んじるべきであることを自らに課 し、かつ大恩ある人への感謝の思いに喜び、かくして善悪不二の涙を催すのである。
 この思いに揺れている間に、旋律はヘ長調へと移り、それはいつしかニ短調へと揺らぐ。この3行目に、彼は大恩ある人の死をまざまざと見つめ続ける。死を 凝視してそらさない、確固たる意志をそこに感じる。しかしながらそれはやはり重い苦しみを伴うのだ。
 そして再びニ長調に復帰した4行目には、既に、冒頭のニ長調とは異なるより深い心情がたたえられている。尊い死は幸いに満ちていなくてはならない。それ は何も大恩ある人への思いやりだけを意味するのではない。その幸いは、その後に続く、天国に向かうすべての人の幸いを意味する。
 その暖かい言葉が何重にも折り重なって響いた後に、最後の「死の試練に当りて」の1句が、ソプラノの印象的な高音をもって繰り返され、静かに音楽を終え る。
 この4行の音楽に、崇高で清純な人間の魂の精華を、信仰の教義を度外視して感じざるを得ないのは私だけではないだろう。

 また、この短い音楽には、その4ヶ月後の10月に死を直前にして作曲された、あのクラリネット協奏曲の第2楽章を思い起こさせるものがある。調性におい ても、その天国的な響きにおいても共通点は多い。そしてそれらはレクイエムを前にした最後の安らぎでもあったのだろう。

 ある知人が、バッハはいかにも荘重で神秘的な色彩を強く感じるのに対し、モーツァルトは軽快で人間的だと言っていた。この評価は決して大きな誤りではないだろう。しかし、真に崇高で宗教的なるものは、神秘的であるより人間的であるべきことを私は主張したい。もちろん「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は決して軽快ではなく、どちらかと言えば荘重である。しかしながら同時に、時代を超えて、聴く人の誰においても、その持つ魂の崇高さに敏感に反応させる力を持ったこの音楽は、「人間的」な音楽だと言うべきである。
 人間の声ほど美しい楽器は存在しないと言うが、それを思い知らせて余りあるこの音楽に私は畏敬の念を禁じ得ない。

(『OracionVol.3 No.3 <1992.3> モス・クラブ刊より)


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