モーツァルトを旅する(4)  ピアノ協奏曲第14番変ホ長調K449 ー善悪を超えた価値ー


 モーツァルトの音楽における長調と短調が意味するものについて、前回、思索をした。そして、両者を通じて一貫して流れるものを知ることが、今回への宿題となっていたと思う。もとより、長調の中に憂愁が流れていることもあれば、短調の中にユーモアが表現されていたりもする。音楽によって表現される感情は、単に調性によって決まるものではなく、その感情が深いものであればあるほど、調性をこえた、もっと繊細な要素をもとに表現されるものであろう。そして、時にはそれが楽譜上に表れないほどに繊細な要素であるため、その責任の多くの部分を演奏者が担うこともあろう。モーツァルトには、長調と短調との転調を繰り返しながら、一貫した何かをそこに描き出した作品が多くある。そこでは、演奏者も聴衆も、彼の魂からのメッセージに虚心に向かわねばならない。
 ピアノ協奏曲の中で、このテーマを語ろうとするとき、14番、17番、20番、24番のそれぞれ第2楽章が想起される。モーツァルトのピアノ協奏曲の9番以降の各第2楽章はほとんどが甲乙つけ難い名曲ぞろいだが、その中で敢えて順位をつけろと言われたら、この四つをその筆頭グループに挙げたい。つまり、長調と短調の間をさまよう中に喜びや悲しみをこえた崇高なる魂の響きがあると、私は感じている。このうち、両端楽章が短調である20番と24番では、比較的大きな単位で、思い切った転調が行われているが、全楽章が長調を基礎とする14番、17番では、一つのフレーズの中でさえも頻繁に長調と短調との転調が行われている。前置きが長くなったが、今回取り上げるのは、そのうち最も目だたない14番についてである。
 14番は、1784年に作曲された6曲のピアノ協奏曲の先頭を飾る曲として、その年の2月に作曲されている。他の5曲に比べて、編成、規模において、やや小作りだが、4月までの短い期間に、15番(K450)、16番(K451)、これも名曲であるピアノ五重奏曲(K452)、そして17番(K453)と名曲が次々に作曲されており、14番も、その内容の深さにおいてはこれらに全く遜色が無い。
 第1楽章は、約2年後の二つの名曲22番、24番の予兆とも言うべき親近性が見られる。調性の変ホ長調と、この調に特有のトリルの多用は、22番の予兆であり、第1楽章には珍しい四分の三拍子、平行調であるハ短調への転調は24番の予兆と言えよう。特に、時々見えかくれするハ短調の響きは、あらゆる短調の中でも最も荘重であり、後にベートーベンが好んで用いた響きである。この楽章は全体的に無表情だとの第1印象を持つが、このハ短調の要素を内にはらんでいる点を踏まえると、何か深い世界に足を突っ込んでいくことへの不安と迷いのようなものが感じられる。この曲の直前に作曲された同じ変ホ長調のホルン協奏曲第3番(K447)が、何の迷いもない澄み切った曲であるのとは、やや趣を異にする。
 モーツァルトは、この年の6曲を含め、1786年までの3年間に合計12曲ものピアノ協奏曲を作曲しているが、そのすべてがモーツァルトの生涯を代表する名曲である。彼は、ホルン協奏曲第3番を書き終えた頃、青春の高揚の絶頂を迎えようとしていた。その時、彼の生命の中には、彼を創作に駆り立てる魅力的な音楽が巨大な塊となって去来していたのだろう。これは何が何でも形にしなければならなかった。そして彼は、彼にとって最も小回りのきく、最も豊かなものを託すことのできるピアノという楽器と、音域や音色において表現力の極致である大編成のオーケストラという、二つの要素を共に活かした、ピアノ協奏曲という曲種の中に、彼の生涯の総決算を描き出そうとしたのである。彼は、その入口に立って、その助走とも言うべき小編成のこの14番を書いた。思うに、そのとき既に、最高の結実である24番の構想は頭の中にあったのではないか。私たちは、彼のこの3年間をおそるべき凝縮と賛嘆するが、おそらく、彼自身にとっては、一度に去来した音楽の塊を早く外に出したいとの強い思いが、この3年間をまことに長いものに感じさせたであろうことを想像する。14番第1楽章に感じられる不安と迷いは、その魂の内なる崇高な音楽を支えきって行くことへの不安であり、自らにその資格を自問することから来る迷いではなかったか。
 そして、その迷いを突き破って、最も美しい調べをここに鮮明に描き出した。それがこの第2楽章だと私は思う。描かれる旋律は、必ずと言ってよいほど、一続きのフレーズの中で、長調からいつの間にか短調に変わる。聴衆の一人となって、その音楽の美しさに素朴に耳を傾ける者にとって、どこで短調に変わったかということは、まず意識されないであろうし、また、その必要もない。そうしてみれば、楽章が開始したときの、平和で伸びやかな響き、その中にも、既に短調の響きは内包されていることに気づく。
 「うれしきにも涙、つらきにも涙。涙は善悪に通ずるものなり」という至言がある。私たちの魂は、自身が生ける存在として多くの生命と共に在る。ただ、人間だけは、生命の理を見つめて、眼に見えざるその奥行きに、分け入ってゆくことができる。生命自らとしての魂と生命を見つめる魂。その往復作業の振幅の中に魂の高揚はある、と私は信じる。故に人間だけが涙を持つ。涙は、人間だけの歓喜、人間だけの悲嘆の結晶である。私たちが、うれしいと思うこと、つらいと思うことはすべて生命の法則によって来たるものである。本来、そこには善も悪もないはずである。真実は善悪の価値を超えたところにある。魂の振幅がその真実に達したときに「涙は善悪に通ずるものなり」との言葉が生まれたと私は思う。この境涯を得ることができるならば、私たちは、一切の不幸を真実の高みに上らせることができるだろう。それこそは、新たな価値の創造と言うことができよう。
 音楽を美しいと思う心。これもまた、人間だけが持っている。そこに過去の喜びや悲しみの経験を喚起されて、涙する場合もあろう。しかし、モーツァルトの魂は、そのような間接的なものではなく、音楽そのものの形式の美の中に、善悪の価値をつきぬけた、人間の魂の真実に触れるものを描き出している。そこでは、長調は喜びで、短調は悲しみである、といった価値観は、もはや突き破られている。故に、この第2楽章の調べに耳を傾けるときに、喜びも悲しみも一切を止揚してしまった崇高な涙が流れ落ちるのを覚えるのである。
 軽快な第3楽章には、第2楽章を描ききったことへの安堵感が感じられる。そして、その背後には、人生の絶頂期に入っていこうとする、そして描き出すべき音楽を描き出すことへの自信を得た、モーツァルトのりりしい姿が見て取れる。

(『Oracion』Vol.16 <1991.4> モス・クラブ刊より)


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