モーツァルトを旅する(3)  ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466 ー短調と長調のはざまでー


 クラシック音楽とは全く縁の無い少年期を過ごしたが、12歳の時、モーツァルトと出会い、急激な世界の広がりを感じたものだ。あれから16年、モーツァルトの数々の名曲に出会ったが、一度だけ、かなり激しくモーツァルト観の変化を余儀なくされた時があった。14歳の時だったと思う。ピアノ協奏曲第20番との出会い、即ち、「短調のモーツァルト」との出会いだった。
 FMラジオから録音したカセットテープを安物のカセットテレコで毎晩のように聴いた。ピアノはアシュケナージだったと思う。冒頭、短調の和音を引きずる弦楽器のシンコペーションが弱音で始まる。何と重苦しい音楽だろうと思った。当時大好きだったフルート協奏曲第2番や「パリ」交響曲に見られた軽快さ、躍動感がそこには全く無かった。やがて、ティンパニも加わっての突き刺すようなフォルテが見えかくれしたのちに、哀願するようなピアノソロが始まる。終始、緊張感は失われることなく、ベートーベンが作曲したカデンツァへと続き、何かが未解決であるような欲求不満を残して第1楽章を終える。
 ここでは、モーツァルトらしい古典様式の構築美の中に、モーツァルトらしからぬバロック的な旋律が用いられている。その結果はロマン的といわれているのはおもしろい。
 続く第2楽章は変ロ長調の甘美なメロディーである。とはいえ、どこかに憂愁を含んでおり、その直接的表現が中間部のト短調で嵐のような激情に凝縮されて吐露される。そして再び、変ロ長調に戻ったときの、依然として憂愁をたたえた安堵感が印象的である。この楽章は、映画『アマデウス』のエンディングでも用いられた。モーツァルトを殺したと悔いる老サリエリの懺悔で幕を閉じるのだが、苦悩の極限に至って神に従順になったことの安堵感のようなものが表現され、非常に好選曲と言ってよいだろう。
 さらに第3楽章は、ベートーベンを思わせる、密度の濃い強烈な第一主題で開始されるが、コーダにはニ長調の第2主題が用いられ、ハッピーエンドを印象づけて曲を閉じる。
 それにしても、全曲を通じての音楽の流れは一貫しており、短調と長調にまたがる転調においても、その流れは保たれていると感じるし、また、それがモーツァルトの最大の特質と言ってもよいと思う。
 多くの批評家は、モーツァルトのピアノ協奏曲を、ひたすらはなやかなるのみの一けた、及び10番代と、内面的な表現の深さを伴う20番代とに大別するのが常である。その場合、20番は、突然の飛躍をもたらした画期的な名曲となる。19番が書かれた1984年12月から、20番が書かれた1985年2月までのわずかの期間に、モーツァルトに何か大きな転機があったのだろうか。確かに、19番と20番とでは、同一人物の作曲と思えないほど、曲想の違いを感じさせる。20番が少年期の私の心を捉えたのも、他の曲に見られないほど強烈に訴えようとするものを感じたからだった。
 しかしながら、その後も、モーツァルトの純粋な世界に心酔してきた私は、右のような見方とは少々異なる見解を持つに至った。まず、曲想の違いという点では、20番とほぼ同時に書かれた21番もまた、20番とは全く異なる曲想を持っている。このことは別の機会に詳しく論じるが、この二面性とも映るモーツァルトの特質は本質的なものである。また、19番も、23番や25番と並んで古典様式の作曲技法の極致として、代表作の一つに挙げられる名曲と私は考える。そういうわけで、19番と20番との間に特別な飛躍を認めるべきでないと考えるようになった。この飛躍を認めさせようとするのは、一つは批評家全体がロマン派音楽へ傾斜していることによるのではないか。ベートーベンはもとより、シューベルト、ブラームス、チャイコフスキー、ドボルザークと何でも聴いた少年期の私の耳もそうだった。史実としても、20番はベートーベンによって作り上げられた19世紀のロマン派音楽の時代に、好んで演奏された、唯一と言ってよいモーツァルトの作品である。
 井上太郎氏は『モーツァルトのいる部屋』の中で、19番に対し、「当時の好みに従ったものであろうが、いささか面白味に欠けるように思う」とし、21番に対しても「澄み切った美しさ」と評価しながらも「聴衆への配慮」という言葉を同時に用いる。このように、モーツァルトの数少ない短調の曲が漏れなく「聴衆をもはや意識せず、苦悩の人生を率直に表現した内面的告白」であり、数多くの長調の曲の何割かは「生活を守る糧を得るための聴衆への迎合」としばしば評される。私自身、連載の第1回で、26番について、「離れた聴衆を再び引き戻そうとしたもの」との解釈を述べたが、モーツァルトの音楽そのものにおいて、長調と短調との間で、そのような対比が行われていたと考えたのではない。
 長調は明るくて、楽しくて、短調は暗くて、悲しいものであるとの素朴な感覚を認めるとしても、そもそもそれはなぜなのだろうか。同じ7音音階で、ドで始まるか、ラで始まるかの違いが、どうして感情的な価値と結び付くのか、その記号的特質そのものが実に謎めいている。さらに、長調と短調は、合計24種の調性を二分するものだが、感情はそのように二分されるものなのか。仮に、感情を「肯定的」と「否定的」とに二分することを認めたとしても、その下位分類の各調性も、種々の細分化された感情のあり方と対応するのだろうか。ハ長調は「雄大さ」、ニ長調は「華やかさ」、イ長調は「優雅さ」、ハ短調は「絶望」、ニ短調は「苦悩」というように。モーツァルトにおいて、調性と曲想に深い相関関係があることは既に認められているが、せつ然としたものではない。しかも、これらを敏感に感じ取るためには、長調と短調の違いにおいて必要としない絶対音感が要求される。さらに、「否定的」とは何だろうか。我々は絶望や苦悩を自ら好むということは基本的にないはずなのだが、20番や24番、二つのト短調交響曲などを好んで聴くではないか。ここに美を見いだす聴衆がその時喚起されている感情は「否定的」なのだろうか。
 ここで、先にも述べたように、長調と短調の間の転調の際にも依然として一貫しているものが読み取れたとき、これに対する回答が得られるように思う。これは、第2楽章のみが短調である23番等においても同じで、さらに、17番や27番のように短調の楽章を持たない曲においてすら、見えない短調旋律に通じていくようなものを感じることがある。
 結局のところ、古典様式の音楽というものは、本来何かを描写したものではなく、それ自体の形式美であり、構築美であると思う。このことが理解できないと、19番が名曲であることに気がつかないだろう。表現されているものを限定することなく、純粋な音楽の世界に身をさらすことにより、モーツァルト音楽の年代による変遷の問題も、長調と短調の問題も理解できるのではないだろうか。引続きこのテーマで、しばらくピアノ協奏曲を旅していきたい。

(『Oracion』Vol.15 <1991.3> モス・クラブ刊より)
 


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