モーツァルトを旅する(1)  ピアノ協奏曲第26番ニ長調「戴冠式」K537

                  ー名ピアニストとしてのモーツァルトー


 本年はモーツァルト没後200年に当り、これを機に、モーツァルトの音楽にまつわる随筆を連載させていただくことになりました。今回のように、作品の鑑賞文であったり、彼の人生観や人となりに話が及ぶこともあろうかと思います。モーツァルティアン(モーツァルトの音楽を偏重と言ってよいほど深く愛する人)を自認する私には、まことに貴重な機会であり、この機会を与えていただいたことに感謝したいと思います。

 モーツァルトが作曲した27曲ものピアノ協奏曲の中で、一際異質な存在がこの26番「戴冠式」ではないだろうか。この曲の評価は人毎に全く別れる。概してモーツァルティアンであればあるほど、この曲の評価は低い。20番代の8曲の中では最低と言ってもよい。その反面、日本で演奏される機会は全曲中でも上位だという。不思議な曲である。
 モーツァルトを聴いて16年のキャリアを持つ私も、どういうわけかこの曲を聴く機会になかなか巡り会わなかった。友人の部屋でやっと初めて聴いたのはつい数年前のことだった。そのとき二つのことを私は感じた。一つは、難しそうな曲だ、ということ。ピアノが弾けない私だが、この曲のピアノ・ソロがきわめて高度な技術を要することぐらいは聴いただけでもわかる。楽譜を見ればなお一層よくわかる。もう一つは、色彩感の乏しい曲だ、ということ。木管楽器が独立した立場を与えられていないのである。そのため、22番や24番のような木管の豊かな音色が聴かれる場面がほとんどない。もっとも、逆に、漣のような弦楽器とせわしく動くピアノ・ソロの対比がモノトーンの世界を作っている、と見れば、それはそれで一つの色ではある。で、好きか嫌いか、どちらかと問われれば、「嫌いではない」と答えるだろう。私を強くモーツァルトに引き付けているものがこの曲にはないのは確かだが、ともあれこの単調さと流麗さに一つの魅力を感じないことはない。
 27曲のうちの12曲(ただの一曲も駄作はない)を1784年から1786年までのわずか3年の間に集中的に作曲しているが、「戴冠式」はそれら名曲群から離れて1788年に作曲されている。そのころはもはやモーツァルトの名声は失墜していたという。その2年後の1990年には皇帝レオポルト二世の戴冠式を祝う演奏会で、19番ヘ長調とともに演奏されたという史実が残っているため、この呼び名がある。
 井上太郎氏は、『モーツァルトのいる部屋』の中で、「この曲は、愛称を持つためにポピュラーだが、作品の価値は高くない」としているが、「田園」や「運命」ならいざ知らず、この偶然的な呼び名のためにポピュラーとなるとしたら皮肉なものである。それなら、ピアノ協奏曲のすべてに命名をしたくなってくる。ロマン的な解釈を敢えてすれば、私なら17番「青春」、20番「涙」、21番「青空」、23番「満月」、24番「大地の声」などと命名するだろう。ところが、「戴冠式」にはロマン的な解釈を許すだけの精神性が乏しいので、むしろ他に名付けようが無いのである。そんな曲に由来はどうあれ愛称がついているというのも返すがえす皮肉である。逆に、「戴冠式」という呼び名も愛称と言うより、曲の無機質さを表しているに過ぎないと言ったらよいかもしれない。
 しかしながら、是非はともあれ、この曲は派手好みで非モーツァルティアンの聴衆をひきつける力を備えていることを一応は認めるべきだと私は思っている。ピアノ・ソロの技巧もそうだし、他にも特徴はある。例えば、第1楽章が長いことである。楽譜の小節数にしても標準演奏時間にしてもモーツァルトのピアノ協奏曲全曲中の一、二を争うであろう。その秘密は、技巧を披露するためにとってつけたような箇所が何箇所かあることに加えて、第2主題を二つ持っているなどの構成上の特異性も関係している。また、自筆譜では左手のパートが大幅に省略されているそうだが、恐らく即興的な演奏の余地を残すために敢えてそのようにしたということが考えられる。そこで、最終的な私の解釈は次のようなものになる。
 モーツァルトは、偉大な作曲家であると同時に、生前はきわめて優れた技巧を持った名ピアニストでもあった。その技巧は彼自身の内面から発する音楽的表現を十分に尽くすに足るだけでなく、むしろ彼の音楽には不必要なほどに巧みだった。後期の作品の芸術性のあまりの高さのために作曲家としての名声を失った彼は、とりあえずピアニストとしての名人芸を披露することで、何とか音楽家としての地位を保とうとしたのではないだろうか。彼が授かった二つの才能の微妙なズレの産物が「戴冠式」だったのではないか、と思う。色彩感に乏しいのも、この曲においては主人公はピアニスト・モーツァルトであって、オーケストラをその支配下に置こうとしたからではないか。
 現代の演奏では内田光子のピアノ、テイト指揮イギリス室内管弦楽団の演奏がいい。内田光子の技巧も流れるように自然である。第2楽章では、即興的な装飾音や旋律変更で、単調なこの曲に驚くほどの楽しみを与えてくれた。しかし、何と言っても内田の音色が、モノトーンのこの曲に合っている。

(『Oracion』Vol.13 <1991.1> モス・クラブ刊より)
 


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