宮沢賢治と法華経


 法華経に描かれる不軽菩薩は、仏法の利他の精神の象徴である。そして、同時に利他の実践が勇気と忍耐を必要とすることを教えてくれている。人々からばかにされ、軽蔑され、石を投げられ、棒で打たれながらも、そうした人々の仏性を信じて礼拝を続けた不軽菩薩――。容易な精神力ではない。

 法華経は古来、多くの人の心を捉えてきた。特にこの不軽菩薩の姿は、信仰というものの純粋さ、強靱さを強く訴えかけ、先人の生き方に大きな影響を与えている。

 文学者として有名な宮沢賢治もその一人であった。彼は特定の教団には属さなかったが、法華経を人生の指針とした。生前、優れた童話や詩を多く書きながら、世に問うことをせず、岩手県の花巻でひっそりとした人生を送った。農業の専門知識を持ち、一時は農学校の教職にあったが、大正年間の冷害による凶作で荒廃していた農村の復興を生徒に訴え続けるうちに、自らが農民の中に飛び込むことを決意。退職して、独居自炊の農耕生活を送った。彼は農民を集めて稲作や肥料についての講義をしたり、音楽会を開いて友の心に希望を送った。すべて農民を尊敬する思いからの無償の奉仕であった。今でこそ賛嘆されているが、当時は様々な誤解もされ、非難中傷をうけた。それでも、ただ片田舎の無名の農民のために殉じることが、彼自身が法華経から学んだ生き方だったのだ。

 詩「雨ニモ負ケズ」は、「病気ノコドモ」や「ツカレタ母」たちを助けるために東奔西走しながら「ミンナニデクノボートヨバレ」る賢治の生き方そのものの表現であった。この詩は病床の賢治が手帳に書いたものだったが、同じ手帳に「不軽菩薩」と題する詩と、さらには「土偶坊」という戯曲のメモがあり、いずれも石を投げられて逃げる姿を共通して描いている。こうしたことから、デクノボーのモデルが不軽菩薩だったことが賢治研究者によって主張されている(分銅惇作『宮沢賢治の文学と法華経』水書房)。日蓮大聖人は「不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候いけるぞ」(御書全集1174n)と。賢治は彼なりに不軽の精神を振る舞いとして示したのではないだろうか。

1998.5.23


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