戦後70年を迎えて


戦後70年。1945815日の第二次世界大戦終戦から70年の節目を迎え、心静かに来し方を振り返っています。

 

戦後世代の一人として1962年(昭和37年)に京都で生まれた私は、力強く復興の道を歩む日本の姿を見ながら育ちました。1970年(昭和45年)の大阪万博は復興と成長を遂げる日本を象徴するイベントでした。当時小学2年生だった私も、夏休みのある日、朝早く起きて両親と兄と一家四人で阪急電車を乗り継いで万博を見に行ったのをよく覚えています。アメリカ館の「月の石」も長い行列に並んで見ました。

 

同じ1970年にヒットした歌謡曲に「戦争を知らない子供たち」という歌がありました。歌っていた二人の男性は私から見れば立派な大人だと思いましたが、歌では自分たちを指して「子供たち」と歌っていました。歌っていた杉田二郎さんともう一人の方も1946年生まれの当時24歳。戦後世代の長兄に当たる年代で、男性なのに長髪だったこともフォークソングというジャンルも当時はとても新しいものでしたが、歌のメッセージはやはり「平和」でした。

 

その当時、人々は皆、後ろを振り向かずに前だけを見て必死に暮らしていました。私の両親も親戚も近所の人たちも皆そうでした。でも当時、25歳以上の人は全員、戦争の体験者でした。戦後に生まれたということが20代前半の人たちの一つのアイデンティティになっていたのだと思います。そんな歌が毎日テレビから流れて来ても全然違和感がなかったのは、日本人のすべての心に「戦争」という影があったからだと思います。

 

その時父は37歳、母は33歳。本当に若々しくて働き盛りの両親でした。普段は戦争のことを口にしない両親ですが、母はたまに寝床の枕にこんな話をしてくれました。

 

・・・お母ちゃんがあんたと同じぐらいの歳の時は戦争の真っ最中やったんやで。何にもあらへんかったんや。お米があらへんさかいに芋粥の上に米粒が一粒だけ乗ってるのを食べたんや。

・・・アメリカの戦闘機がよう上を飛びよったんや。どんだけ怖かったかいな。サイレンが鳴ったらみんな血相変えて近くの防空壕に走って行ったんやで。走ってる最中に頭の上を飛びよったときはもう死ぬかと思たで。

 

母は滋賀県甲賀の出身でした。幸い滋賀は直接の空襲を受けずに済んだのですが、その体験談は若くて元気だった母が普通に語る思い出話として妙にリアリティがありました。その話を聞きながら何か自分が追体験したかのようで、今も心に残っています。

 

一方、父は戦時中も京都にいました。京都は終戦の年の6月に米軍の空襲を受けましたので、当時12歳だった父も危ない目に遭ったのですが、どういうわけか父は私には一度も戦争の話をしませんでした。もとより父は自身の少年時代の思い出もあまり話さない、過去を語らない人でしたが、特に戦争当時のことはあまり思い出したくなかったようでした。

 

父は1998年に鬼籍に入りましたが、母は今も京都で一人で暮らしています。もう78歳となりました。今、戦争を知っている世代は全員70代以上となってしまいました。でも70年前は私の両親のような少年少女たちも皆誰もが戦争を体験しなければなりませんでした。罪のない無名の庶民たちが大勢巻き込まれた戦争。こんなに理不尽で許し難いものが他にあるだろうかと思います。

 

そして戦後の日本を再建し、平和な国にしようとして多くの方が努力し、献身して来られました。私の両親も無我夢中でがむしゃらに働きました。そうして今私たち戦後世代が平和で豊かな現代を享受できているということを絶対に忘れてはならないと痛感します。


2015.8.15
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