書評 (創学研究所編)


読後記『池田大作研究 世界宗教への道を追う』 佐藤優著/朝日新聞出版/20201030日 発行

 

はじめに

 元外交官で作家の佐藤優氏による「AERA」連載「池田大作研究−世界宗教への道を追う」が二〇二〇年十月に連載四十三回をもって完結し、単行本として発刊されました。キリスト教プロテスタントの信徒として客観的な視点を持つ佐藤優氏の池田大作先生に対する理解の深さは驚嘆に値するものであり、創価信仰学のあり方にも大きな示唆をもたらすものと考え、ここに読後記を記すこととしました。以下、本書に合わせた敬称略の書評スタイルで記させていただきますことをご了承ください。

 

序章 創価学会の内在的論理とは何か (連載第1回)

「内在的論理」を探究

 従来の創価学会関連記事は組織論や政治論など外面的なアプローチが多いのに対して、本書は創価学会を知るためには池田大作名誉会長の人と思想を知らなければならないとして、その心の内面を探究している点が大きな特徴だ。

 佐藤の池田大作理解におけるキーワードの一つが序章で記されている「内在的論理」である。長い年月と世界への伝道を通じて多くの分派を産んだキリスト教が再び一つの原理のもとに再統一しようとするエキュメニズム運動において不可欠の方法論が「他宗派の内在的論理を知る」ことだと佐藤は述べている。

 宗教教派の言葉は往々にしてその教派の内側で閉じていて、その中で自派の正統性を構築するため、A派の言葉をB派の論理で読み取ろうとしてもそのままでは相容れない。しかし、A派の言葉そのものに内在する論理、言い換えればA派の言葉がその信徒を納得させるだけの固有の世界観があるはずで、それを読み取って自派の言葉あるいは普遍的な言葉に置き換えることが相互理解のためには不可欠である。つまり、「内在的論理」とは、異宗派間の翻訳原理と言える。佐藤はキリスト教内部で行われてきたこの翻訳作業を他宗教である仏教教派の創価学会にも応用したのである。彼の諸著作を見ると、宗教のみならずマルキシズムや特定の国家指導者らの諸思想に対してもその「内在的論理」を読み取る方法が採られている。

 もっとも、よく考えてみると実はこれまで池田が世界の識者とのあいだで行ってきた文明間対話、宗教間対話においても常にこの「内在的論理」の探求が行われてきたと言えるのではないだろうか。私が思い出すのは、1995年に創価大学を訪問したデルガード駐日キューバ大使(当時)が、その数年前に都内で池田と会見した際のことを述懐してくれたことだ。大使曰く「会見のその日、私はキューバ革命の英雄ホセ・マルティの話をしようと思っていたら、池田先生の方からホセ・マルティのことを切り出され、マルティの言論が当時のキューバの人々にいかに共感され、勇気を与えたかについて語られて、その理解があまりにも的確だったので本当に驚きました」と。それを聞いた我々も驚いたものだった。池田は大使と会う前にホセ・マルティの「内在的論理」を理解していたのだ。

公開情報をもとに

 池田大作理解のもう一つのキーワードとして佐藤は「オシント」(Open Source Intelligence)を挙げている。これは佐藤が外交官時代に情報分析のために取った手法の一つ「公開情報諜報」のことだ。これに対して、個人が有する秘密情報を聴き出す手法を「ヒュミント(Human Intelligence, 人間諜報)」と言う。いわゆるスパイ活動もこれに当たる。佐藤は外交官時代にヒュミントを得意としたそうだが、結果として秘密情報の不正確さ、情報とノイズ(雑音)の混在を、身をもって知り、オシントこそより確実な分析方法であるとの認識に至ったようだ。

 池田は多くの学会員を個々に激励もし、様々な場面で発言もしているから、その言説の総量はおびただしいが、佐藤は敢えて公刊されている『池田大作全集』全150巻と小説『新・人間革命』全30巻などの公開情報だけを資料としている。「だけ」と言っても相当な量ではあるが。

 佐藤は2014年の創価大学での講演のなかで「その人と直接会ったかどうかが重要ではない。会っていなくてもその人の言葉を通して深く知ることができるし、師弟関係を結ぶこともできる。イエスとパウロの関係もそうだった」と述べて創立者と直接会う機会が少なくなった創大生を励ましてくれた。直接会った人だけに発された言葉ではなく、時間と空間を超えて普遍性を持ち得る公開資料に依拠することは、創価の師弟の在り方にも適う方法論であると思う。

 

第一章 幼少時代の思い出、戦争時代に塗り込められた青年時代 (連載第2回〜第7回)

幼少期の人格形成と問題意識

 第一章では戦前から戦中・戦後に至る池田の少年期から青年期までを、『池田大作全集』に収録されている「私の履歴書」、「若き日の読書」、小説「人間革命」の三つの資料をもとに丹念に追う。単にどういう経験をしたかということだけなら「私の履歴書」からの引用で終わるが、そこから後年の創価学会第3代会長として数々の偉業をなすに至る「内在的論理」を読み取るところに佐藤氏の独自の視点がある。例えば、池田の出生時には父・子之吉の前厄の迷信があり、厄除けのためにわざと一度は捨て子にされたエピソードが紹介されている。ここから佐藤は、池田の両親が迷信を信じたとは言え、自らの手でその運命を換えようとした発想があり、そのことを人間革命による宿命転換を目指す創価学会の価値観の萌芽と見ている。

 父も相当に頑固だが、それは祖先の血を引いている。江戸時代末期の大飢饉の際、池田の祖先は幕府の救助米を断ったという。この国家に依存しない自立心は、池田が後年、国家に依存しない中間団体としての創価学会を指導する価値観につながっていると佐藤は分析する。

 池田の幼少期は病弱であった。さらに、父がリウマチで倒れたことによる困窮、長兄の出征、新聞配達の開始などが記される。強い向学心を持ちながら十分な教育が受けられなかったこの時期の経験が、後年の池田が教育に力を入れるようになった動機になっていると推測している。

 小学校の修学旅行では、お土産が買えなかった池田を担任の桧山先生がそっと物陰に呼んで小遣いをくれたエピソードに触れ、このように教師から受けた恩恵が、将来与えることのできる力の蓄えとなったと佐藤は見る。

 そして池田は少年航空兵を志願するようになるが、父に猛反対されたことなどに触れ、少年時代の池田が一時は国家主義イデオロギーの影響を受けていたことに言及する。これに際して佐藤は沖縄で育った実母安枝が戦中の沖縄で米軍との戦いを経験した回想談に言及し、母もまた国家主義イデオロギーの影響を受け、天皇のために死ぬ覚悟だったと述べる。当時の日本人の誰もが皇民化教育の影響から免れなかった。池田も自身の母もその例外ではなかったことを率直に記している。

 続いて、池田が工場労働に従事したことに言及している。労働者の勤務環境を体験したことが後に池田が創価学会を指導するときに役立ったとしている。そして工場での激務のなか、池田は血痰を吐く。結核が進行していたのだという。そのことが自身の死を意識させ、実存的関心をもたらしたとしている。

 戦中においては東京がたびたび空襲を受けるなか、池田は戦争への問題意識を強めていく。その後、馬込のおばの家への疎開も経験している。そして迎える敗戦によって、価値観も配給システムも崩壊していく。そして、池田家にとって最大の出来事は長兄が戦死したことであった。池田は戦死の公報を受け取った母の深い悲しみを目の当たりにする。自身の病弱と長兄の死とが、池田に生死という人生の根本問題への探求心を強める動機づけとなったとしている。

 戦前・戦中のこれらの経験の蓄積が、そのまま戦後の池田の魂の飢餓感となり、探求への動機づけとなっていく。これらは池田が仏法に巡り合ったことの必然性を示すうえで不可欠な文脈なのである。佐藤が池田の「私の履歴書」に一貫する「内在的論理」を整理して見せてくれることで、それが虚飾のない誠実な自叙伝であったことを証明してくれているようにも思える。

戦後価値観の転換

 第二次世界大戦の敗戦を池田は17歳の青年期に迎える。国家主義イデオロギーの崩壊とともに池田も佐藤の母も魂の飢餓感に苦しむ。そして池田は師となる戸田城聖と出会い、創価学会に入会する。佐藤の母もまた同時期にキリスト教プロテスタントの道に入ることになる。

 19458月の敗戦によってそれまで大日本帝国を支えていた価値観が崩壊するなか、それに代わる新たな価値観を模索する池田の心情、そして学びへの渇仰を示す文言を、ここでも「私の履歴書」から抽出していく。池田は働きながら夜学に通う。そしてなけなしの小遣いをはたいて読書に熱中する。池田はその後、知識の習得のために、読書ノートをつけること、その内容を友人と語り合うこと、この二つの方法論を採るが、これを佐藤は集合知(collective intelligence)と呼んでいる。

 当時池田が読んだ数多くの本の書名が「私の履歴書」に記されているが、その中から特に内村鑑三の『代表的日本人』に影響を受けた長文の感想が紹介されている。内村の「死のあるところ宗教はあらねばならぬ」との文言に惹かれながら、死と生命について友人と議論を重ねたことも綴られている。やがて関心は「人間にとって宗教は必要か。必要とすればいかなる宗教が求められるべきか」の一点に絞られていく。

 

第二章 運命の師との出会い (連載第8回〜第11回)

内村鑑三を通して日蓮を知る

 第二章では、池田が内村鑑三を通して宗教への探求を深化させていく軌跡を「若き日の読書」から読み取っていく。内村はキリスト教徒であったが、アメリカに留学した内村は堕落したキリスト教会の姿に失望し、無教会主義の旗を掲げるに至る。そして、内村が『代表的日本人』のなかで日本の誇るべき宗教改革者として日蓮の名を挙げたことに池田は共鳴する。内村が日蓮を称えたのは、伊豆・佐渡流罪、竜の口法難に見られる国家からの自立であり、その日蓮の姿に内村はキリスト教におけるマルティン・ルターにも比肩する宗教改革者の生き方を見たのである。それは池田が戦時中に接した国粋的な日蓮主義者とは真逆な日蓮観であることに驚き、従前の日蓮観を刷新したことを池田は吐露する。

 ここで佐藤は国粋的な日蓮主義者の例として、日本の帝国主義政策を推進するために日蓮の教えを利用した田中智学の事例を挙げている。こうして見ると、信じるべきはキリスト教なのか仏教なのかということよりも、それを実践する人の生き方がどうであるかという信仰の内実の重要性を池田は内村から学んでいた。佐藤はそのことを的確に捉えて示している。

師・戸田城聖との出会い

 ただし、学ぶということと自ら信仰することとはイコールではない。そうした下地を作りつつも、信仰者の道を歩む決断をさせたのはあくまでも戸田城聖という人との出会いであったと池田は「若き日の読書」で述懐している。小学時代の友人に「生命哲学」の勉強会があると誘われて参加した座談会で池田は戸田城聖との出会いを果たす。そこで池田は戸田に三つの質問をする。「正しい人生とはどういう人生か」、「本当の愛国者とはどういう人か」、「天皇をどう考えるか」。いずれも池田にとって戦後の魂の飢餓感が端的に集約された問いであった。

 第一の問い「正しい人生とはどういう人生か」に対する戸田の回答が小説『人間革命』第2巻より引用される。ここでは池田は山本伸一の名前で登場する。戸田は伸一の問いに「難問中の難問だな」と言いつつも「ぼくには答えることができる」、「ぼくは福運あって、日蓮大聖人の仏法の大生命哲理を、いささかでも身で読むことができたからです」と大確信を述べたあと、人生には様々な苦悩があるが、根本的な悩みは生死の問題であるとし、その根本の難問を日蓮大聖人は解決されていると力強く語る。そして、「正しい仏法とは何ぞやと考える暇に、大聖人の仏法を実践してごらんなさい」「いつか自然に自分が正しい人生を歩んでいることを発見するでしょう」と。まさに生死の問題に悩んでいた池田の心にこの答えがストレートに響く。佐藤は戸田のユーモアとウィットに富んだ仏法論の展開をありのまま紹介している。

 伸一の第二の質問「本当の愛国者とはどういう人か」に対して、戸田は愛国者の概念が時代によって変化することに言及したうえで、時代を超越した真の愛国者は妙法の実践者だと結論する。その理由は、妙法の実践者こそが一人の人を永遠に救いきり、そのことが国家を救い、真の幸福社会を築く基礎となるからだと戸田は断言する。これもまた、時代の変化に翻弄されかけていた池田の心に響く答えであった。前述の飢餓感の文脈のもとで戸田のこれらの言説に触れると、それを受けた池田の感動がよりいっそう強く伝わってくるようである。

 続いて、戸田の第一の答えにあった「妙法の実践」がいかなるものであるかを説明するため、「南無妙法蓮華経」についての創価学会の公式な解釈を紹介する。そして、第三の問い「天皇をどう考えるか」に対しても戸田の答えは淀みない。戸田は、天皇制は破壊する必要も特別扱いする必要もないとして新憲法の象徴天皇制への賛意を示す。ここで「天皇も、仏様から見るならば同じ人間です」と述べているのは、前年の昭和天皇の「人間宣言」の趣旨に添いつつ、一切衆生を平等であるとする仏法の生命観において天皇も例外ではないことを述べられたものと言える。そして戸田は、天皇を含めて日本民族が敗戦の苦悩から立ち上がり、平和な文化国家を建設すべきことを訴える。

 ここで佐藤は、戦時中に天皇制権力のもとで師匠牧口常三郎と共に弾圧を受けた戸田が天皇や天皇家に対して恨みを抱いていないことに注目し、未来志向の建設的態度であると述べている。

 そして、三つの質疑応答を終えたとき、山本伸一の心に「この人の指導は信じられそうだ」との思いが去来したところまでを小説『人間革命』から引用している。そこから再度「私の履歴書」に戻り、座談会後に、戸田が国家権力の弾圧に屈せず逮捕投獄されながら信念を貫いた人であったことを知り、戸田の言動と行動の一致を確信し、この人と同じ信仰に入ろうと決意したことを付け加えている。内村鑑三が称えた日蓮と同じ生き方をした人を目の当たりに見た思いだったのではないだろうか。そして、1947824日、池田は創価学会に入信する。

 池田大作がなぜ戸田城聖の弟子となったのか、そこに至るまでに池田が置かれた家庭環境、父親の人となり、自身の病気、戦争への直面、社会の価値観の混乱、読書で得た人物観といった文脈を抽出し、そこから戸田との出会いを読むことによって、池田大作の「内在的論理」を理解しようとしたものと言えよう。

小説『(新・)人間革命』に表現された宗教的真実

 本書における佐藤優の態度は二つの点で一貫している。一つは池田大作の内在的論理を、公開されている池田の著述から徹底的に読み取ろうとする態度。もう一つはそれを佐藤自身のキリスト教プロテスタントの信仰に照らしてそこからアナロジー(類比)を読み取ろうとする態度だ。この二つの態度は一見すると逆方向のベクトルのようにも見えるが、佐藤はこの二つの態度をもって一つの真実を導き出そうとしているように思う。僭越ながら推し量るに、世界宗教としての拡がりと普遍性を持つ宗教は必ず融合し、世界平和に貢献するという信念ではないかと思う。

 池田と戸田との出会いを主題とした第二章からは考察の対象を小説『人間革命』にシフトしている。佐藤は、池田大作研究において小説『人間革命』(全12巻)、『新・人間革命』(全30巻)を重視する理由を明確にする。まず、内在的論理の探究において、新聞記事や関係者の証言などによる事実関係の調査よりも、フィクションである小説こそがより重要となる趣旨を説明する。信仰者の主観世界はむしろフィクションによって表現されるからである。佐藤は、「歴史的事実」と「宗教的真実」とは必ずしも一致しないことの例として「マルコによる福音書」にイエスの復活が加筆されていることを引き合いに出し、歴史的事実とは違っても教団において共有された共同主観という意味において宗教的真実であると述べている。歴史的事実は考古学的発見など物質面からも探究できるが、宗教的真実は心の中にのみ存在するがゆえに、文学によって表現され、読み取られる以外にないのである。

 学問にも事実と真実の立場の違いがある。宗教学は近代科学的な手法により客観的事実の確定を重視するのに対し、神学は聖書に表現され、キリスト教教団が共有するところの宗教的真実の探究を重視する。佐藤が宗教学ではなく神学の立場に立っていることは明らかである。仏教の探究においても文献学的な仏教学とは違って、キリスト教の神学に相当する仏教の信仰学が必要であることを佐藤は示唆している。文献学的な仏教学においては歴史的事実の観点から大乗経典は仏説でないとする学説があるが、大乗経典の多くは釈尊の弟子たちが師の教えを継承していくなかで共有された共同主観を文字に書き留めたものであるから宗教的真実と言うべきなのである。

 「小説『人間革命』は、創価学会の精神の正史である」とは、『池田大作全集』への収録に当たって記された文章からの引用である。それは一面から言えば創価学会の歴史の記録でもあるが、それ以上に、戸田と池田の師弟の精神史を未来に続く弟子たちの指針として示すという意味合いが圧倒的に優っている。過去ではなく未来のための指針。そしてそれは小説という文学的文章で記す以外になかったのだ。

 戸田もまたかつて『小説 人間革命』を著し、牧口常三郎との師弟と壮絶な獄中闘争を小説に書き残している。佐藤は、戸田の小説をめぐる師弟の会話のなかから、池田が師匠の真実を小説に書き残す決意をしたことも、小説『人間革命』の「はじめに」から引用している。戸田も池田も歴史的事実と宗教的真実の違いをよくよく弁えていたことの証として、二人がゲーテの『詩と真実』について語り合ったことも同じく「はじめに」から引用している。ゲーテは心の真実を語るために詩という表現手段を選んだのだ。

 

第三章 香峯子夫人との出会い、第3代会長就任へ (連載第12回〜第15回)

小説『人間革命』の改訂と世界宗教への飛躍

 第三章では冒頭に、小説『人間革命』が『池田大作全集』への収録を機に第二版に改訂されたことを取り上げている。1990年に日蓮正宗宗門の策謀により惹起した宗門問題を経て、初版の内容を修正する必要が生じたからである。 『人間革命』初版では牧口と戸田が神札を拒否して信仰を貫いたがゆえに軍部権力に逮捕投獄された事実についても、二人を見捨てた宗門に関する記述はかなり抑制的であった。神本仏迹論を唱えた僧侶に学会青年部が謝罪を要求した件をめぐって当時の宗門が戸田を処分した不明に対して敢えて批判は記されていなかった。それらもすべて宗門と別離したことにより、「宗教的真実」がありのままに記せるようになったのである。

 つまり、都合が悪くなったからこっそり改訂したとかいうようなものでは全くなく、真実が堂々と記せるようになったからこそ、後世に残す決定版として池田自身の意思で第二版が作成されたのである。また、そのことは『池田大作全集』第44巻の「小説『人間革命』収録にあたって」に詳しく明言されており、佐藤はその重要性を踏まえて長文を引用している。

 これに関連して、宗門と訣別したことが、創価学会が世界宗教へと飛躍した条件の一つであることに言及する。ベートーベンの「歓喜の歌」を異教の礼賛であるとして否定するような宗門に隷属した状態では、仏教を世界精神にしていくことなどとても覚束なかったであろう。佐藤はここで、キリスト教もまたもともとはユダヤ教ファリサイ派であったが、戒律の強い民族宗教だったユダヤ教と訣別したことによって欧州はじめ世界で受容されるようになり、世界宗教への道を歩んだこととのアナロジーを述べている。

戸田大学の個人授業

 続いて、池田が戸田のもとで戸田の事業を支えてきたことに言及している。19491月からは日本正学館で少年雑誌「冒険少年」の編集に従事するが、この頃のペンネーム「山本伸一郎」が、後に小説『人間革命』に登場する山本伸一のもとになっているという。戸田が「なかなかいいじゃないか、山に一本の大樹が、一直線に天に向かって伸びてゆく」と認めたことも池田の随筆から引用されている。

 同年12月から池田は東京建設信用組合に移り、苦手な金融の仕事に従事するようになるが、ますます事業が逼迫し、通っていた夜学も断念せざるを得なくなった。戸田は池田に「苦労をかけてすまぬ」、「そのかわり、私が責任をもって個人授業しよう」と提案し、毎朝の始業前に行う一対一の「戸田大学」が始まる。その内容は「人文、社会、自然科学、経済」、「礼儀作法、情勢分析、判断の仕方、組織運営の問題」、「古今東西の名著」等、万般にわたったことを、「私の履歴書」から再録している。

 佐藤はここでも戸田の講義とキリスト教主義大学神学部の授業との類似を述べている。どちらも万般の教養を宗教的真実へと結びつけて解説する志向性があるというのである。また、戸田は「読んだ本の粗筋を言ってみよ」と求めることがあったというが、佐藤はこれを「アクティブラーニング」と評している。もともと牧口常三郎が提唱した創価教育は、学習者の自発性・能動性を重視する教育哲学であり、今日で言うアクティブラーニングとの親和性が高い。戸田は牧口から継承した創価教育を、愛弟子の池田への個人授業において実践していたことがわかる。

 佐藤はこの個人授業から深い師弟愛を感じ取っている。その象徴が、戸田が池田の胸に挿した一輪の花だ。「この講義を修了した優等生への勲章だ」と。池田はこの花を「世界中のいかなるものにも勝る、最高に栄誉ある勲章」と述べ、「自分は最大の幸福者であると感じた」と述懐している。この一輪の花が卒業証書や博士号よりも尊いのは、師匠の学知を身体化したことの意味を池田がよく理解していたからだとしている。

 戸田と池田の師弟愛への共鳴はさらにその後のエピソードにも続く。事業の苦境の打開のため二人で歩き回って苦心するなか、池田が終戦直後の流行歌の「こんな女に誰がした」をもじって、「こんな男に誰がした」と歌うと、前を歩く戸田が振り返って、「おれだよ」と答えたという。この「おれだよ」から「おまえと俺とは、宗教観、価値観、生命観、人生観のすべてが共通する。真の師弟だ」とのメッセージだと佐藤は解釈している。

「折伏」と「対話」

 池田は戸田のもとで「折伏」に邁進した。折伏とは「相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法」を指す仏法用語だ。攻撃性や排他性の誤解を引き起こすことのある言葉でもある。一方、「対話」とは異なる価値観の人とも胸襟を開いて話し合うことができ、互いへの尊敬と信頼を深めていくことだ。一見すると、「折伏」と「対話」は正反対の概念のようにも見える。

 しかし、佐藤は「池田大作は対話の人だ」とも述べている。たしかに、池田ほど生涯を通じて宗教間対話を実践してきた宗教指導者も稀である。深い対話を結んだ歴史学者アーノルド・トインビーもキリスト教徒だった。プロテスタント神学者のハーヴェイ・コックスとも対談集を発刊している。マジッド・テヘラニアン博士やワヒド元インドネシア大統領らイスラムの指導者とも対談している。池田における「折伏」と「対話」の両立を、佐藤は本質的次元から捉えようとしている。

 佐藤は「自らの信仰に忠実な人ほど他者の信仰を尊重する」と主張する。つまり、自分の信念を揺るがすことなく、相手の立場を尊重するのが「対話」なのである。その態度を「寛容」という言葉で置き換えることも可能だ。そして、自らの信仰が揺るぎない人は、他宗教の人と対話しても「宗教混交」(syncretism)が起きないとしている。「宗教混交」とは中途半端に相手の信仰を受容して、例えばキリスト教と仏教を部分的に取り交ぜて信仰するような行為のことである。それは「迎合」という言葉で置き換えることもできよう。「寛容」と「迎合」は全く異なる態度なのである。

 現代社会における基本的人権も個人を尊重するヒューマニズムが基底にあるが、それは人類の平等と個人の尊厳を謳う普遍的宗教性によって支えられるべきものである。「信教の自由」も基本的人権の重要な要素である。つまり、真実の宗教は必ず他者の「信教の自由」を尊重する。古代インドのアショーカ王は仏教の精神をもとに国を統治したことで知られているが、仏教を国教化することはなかった。国民の「信教の自由」を守ったのである。近代トルコ共和国の初代大統領であるケマル・アタテュルクもイスラムの精神を尊重しつつ、聖職者カリフが国を統治していたオスマン・トルコ帝国の体制を改め、「信教の自由」を宣言している。

 宗教には必ず布教・宣教という行為が伴うが、それは権力によって行われるべきものではなく、一人ひとりの自由意思で選び取っていくものでなくてはならない。ゆえに、それは相手を尊重する対等な立場の「対話」を通じて行われていくべきものである。私自身も大学で教鞭を執っているのでいつも留意している。大学で自分から信仰のことを話題にすることはないが、オフィスアワーなどで学生が個人的に信仰について関心を持って尋ねてきたときには、一人の人間として応じ、誠心誠意自分の信念を語るようにしている。しかし、私から学生に信仰を奨めることは敢えてしない。自分がどんなに対等になろうとしても教授と学生の関係は対等ではない権力関係だからだ。学生であっても自立した一人の人間として尊重しなければならない。それを大前提として人間同士の触発となるような有意義な対話を心掛けている。

 対等な「対話」に話を戻す。対話のなかで仮に相手の考えに誤りがあるのであれば、妥協せずに敢えて指摘することが誠意である。誤りがあっても正さないのは「迎合」である。佐藤は池田が歴史家トインビーとの対談のなかで、トインビーの意見に反論した箇所があることに注目している。それはトインビーが日本の民族宗教である神道の自然観を是認する発言をしたことに対して、池田は、民族宗教は自民族中心主義に陥りやすく、ナショナリズムに利用される危険性を持っていることを指摘したのだ。トインビーはこの対話を経て自身の神道観を修正している。これこそが池田の「折伏」であった。「折伏」とはこのように、互いの立場を尊重し、敬意に満ちた「対話」の中で誠実に行われる行為なのだ。

 例えば、誤解や偏見によって我が信仰を批判してきた人がいるとする。それを正さないとすれば、それは「迎合」であり、結果として自らの信仰を毀損することになる。鎌倉時代の日蓮はまさに法華経信仰に対する誤解と偏見により幕府から迫害された。日蓮の「折伏」の闘争はその誤りを正すために一切武器を持たずに言葉の力で戦い、仏法の真実を守り抜いたのだ。

 佐藤自身もこのように池田の内在的論理を深く探究し、共鳴しているが、自身のプロテスタントの信仰を一切揺るがせてはいない。今日においてキリスト教と仏教との「対話」を先駆的に実践する一人と言えよう。本書も宗教間対話の可能性を示す貴重な著述であると思う。

香峯子夫人との結婚と第三代会長就任

戸田を事業と信仰の両面で支える池田の姿にも注目する。戸田をめぐる客観情勢はどんどん悪化していく。1950年、信用組合は業務停止に追い込まれ、戸田は学会の理事長を辞任する。事業では給料の遅配もあって従業員はどんどん去っていくが、池田は戸田のもとに残る。その思いは池田の「人は変われど我は変わらじ」、戸田の「死すとも残すは君が冠」との和歌のやり取りに表現される。

 1951年に状況が徐々に好転すると、4月には聖教新聞を発刊する。これも戸田と池田の共同作業であった。創価学会において池田の存在がどんどん大きくなっていく経過を、佐藤は池田と白木香峯子との出会いと結婚という独自の視点から注視する。

 池田と香峯子との出会いは1951年夏、池田の知己であった香峯子の兄から紹介される。やがて二人は会合での出会いを契機に文通を始める。「私の履歴書」からの引用では、夕焼け空の多摩川の堤を共に歩いたこと。一艘の舟や小鳥たちの戯れなど、美しい情景が描写されているが、しかしそこに遊戯的な安易さはなかったという。「二人とも幾多の苦難の坂も励まし合って進もうと語り合った」と。池田は香峯子に問う。「生活が困窮していても進まねばならぬときがあるかもしれない。早く死んで、子どもと取り残されるかもしれない。それでもいいのかどうか」。彼女は「結構です」と。

 このやり取りを引用した佐藤は、香峯子の「結構です」は池田のプロポーズに対する受諾であるとともに、香峯子の信仰告白でもあるとしている。香峯子は池田が恩師戸田に身を捧げる生き方をしていることがわかっていたから、プロポーズの受諾はその人生を共に生き抜く覚悟でもあったのだ。だから二人の交際が単なる恋愛の次元を超えて生涯を懸けた真剣なものであったと述べている。

 二人の心中を訊いた戸田は結婚の承諾を得るために池田の実家を訪れ、父に「息子さんを私に下さらんか」と求めた。頑固だった父が戸田の人格に触れて言下に「差し上げましょう」と応じると、それから戸田は縁談の話を切り出したという。二人の結婚が広宣流布のために必要だと確信した戸田の思いが現れたエピソードである。

 そして二人は195253日に中野の寺院でささやかな結婚式を挙げる。ちょうどその二日前の51日にいわゆる「血のメーデー事件」が起きていたことは、厳しい世情のなかでの結婚であったことを物語っている。結婚式で戸田は「主人を、どんな不愉快なことがあっても、にっこりと笑顔で送り迎えをしなさい」との祝辞を送ったという。

 戸田の逝去後、1960年、池田は会長への推戴を受け、何度も固辞するがとうとう承認し、53日に会長に就任する。その日、帰宅すると香峯子は「きょうからわが家には主人はいなくなったと思っています。きょうは池田家の葬式です」と言ったエピソードも「私の履歴書」から引用されている。佐藤は、香峯子が家族の団欒を楽しむことはできなくても、信仰の同志として創価学会第三代会長を支える使命を喜んで引き受けたのだと述べている。

 32歳にして重責を担った池田の陰にそれを支えた香峯子夫人の存在があり、それが結婚前からの決心を貫いたものであったことを佐藤は丁寧に記述している。そのことも池田の内在的論理を知るために欠かせない一つの要素だと佐藤は考えたのだ。

 

第四章 創価学会と公明党――「政教分離」のあり方をめぐって(連載第16回〜第18回)

公明党は宗教的信念を堂々と表明すべき

創価学会は戸田城聖第2代会長時代の1950年代に積極的な政治参加を開始し、その後、池田大作第3代会長時代の1964年(昭和39年)に、池田の手によって正式に公明党として結党された。その結果、創価学会は社会の毀誉褒貶に晒されることとなった。自ら苦難の道を選んだのである。

その一つのターニングポイントとなったのが、政治評論家・藤原弘達の著書『創価学会を斬る』(1969)をめぐるいわゆる「言論問題」である。同氏は宗教団体が政治活動を行うこと自体を「政教一致」として批判したのだ。

そもそも「政教一致」とは何か。日本国憲法第20条は基本的人権の一つである「信教の自由」を謳った条文だ。これを保障するのが「政教分離」の原則であり、これに反するのが「政教一致」だ。佐藤はこの「政教分離」の原則をわかりやすく、「国家が特定の宗教を優遇したり忌避したりしてはいけないという意味だ」と表現している。国家が特定の宗教への信仰を国民に強制してはならないし、国家が特定の宗教の信仰を禁じることもあってはならない。それが「信教の自由」を守るということだ。戦前までの日本は神道を国教とし、神道以外の宗教を弾圧した。仏教の寺院にも神札を祀ることを強要した。これこそが日本が二度と繰り返してはならない「政教一致」の実態であった。そのことへの反省と、未来に向けての防止が憲法第20条の根幹にある。つまり、「政教一致」「政教分離」の「政」は政治権力、国家に向けられた言葉であるから、本来は「国教分離」と言うべきだと佐藤は述べている。

しかし、藤原弘達はそうした「政教分離」の理念を議論することなく、宗教団体が急激に政界に進出することの脅威を煽ることに終始した。そこにはそもそもの宗教蔑視に加えて、創価学会が低所得層の庶民に浸透していることを蔑視し、そうした“無知な庶民”が力を持つことを警戒する論調も含まれていた。それも言論の自由の範囲内だと言うなら、その不十分な取材や一方的な論調に対して学会側が行った改善要求もまた言論の自由の範囲内だったはずだ。しかし、藤原弘達はそうした学会側の働きかけを言論弾圧だと喧伝し、それによって学会に対する社会全体を巻き込んだ批判は急激に高まっていった。

この熾烈な批判の下で公明党は政界進出の目的が宗教的な目的のためでないことを社会に示す必要に迫られた。そこで、公明党と創価学会の組織を完全に分離し、両方の役職を兼務しないことを宣言した。これがいわゆる「政教分離宣言」である。しかし、これも今にして思えば「党宗分離宣言」とでも言うべきものであった。

このことを巡る本章の論調で最大に目を引くのは、言論問題における熾烈な「政教一致批判」が創価学会員の心にトラウマ(心的外傷)を刻み込んだとしている点である。私は学会員の一人としてこのトラウマという言葉が的確な指摘であることを認めたいと思う。そしてそれは創価学会を外から客観的に見ていて、なおかつ学会員の心情を熟知する佐藤だからこそできる指摘だと思う。

佐藤がなぜここでトラウマというネガティブな表現を用いるかというと、創価学会にそれを克服してもらいたいとの思いがあるからである。彼は「創価学会と公明党は行き過ぎた政教分離(党宗分離)を是正すべきだ」とかねがね主張している。つまり、公明党はその政治理念の底流に仏教の平和主義があることをもっと堂々と語るべきだし、創価学会も自らの宗教的信念に基づいてもっと堂々と公明党支援を表明すべきだと主張しているのである。

宗教政党の存在と「信教の自由」

たしかに世界的に見るとキリスト教に基づく宗教政党は数多く存在する。その代表格は、ドイツのメルケル首相が所属する政権与党のドイツキリスト教民主同盟(CDU)であろう。当然のことながらドイツにおいても信教の自由は保障されている。CDUはキリスト教の理念をもとに人間の尊厳、自由、平等といった政治理念を確立した政党であるから、信教の自由を守ることも彼らにとっては宗教的信念の一部なのである。

古代インドで仏教に基づく善政を行ったことで知られるアショーカ王も信教の自由は認めていたとされている。また、トルコ共和国初代大統領を務めたケマル・アタテュルクは、それまでのイスラム教を国教とするオスマン・トルコ帝国の伝統を転換して信教の自由を認め、近代国家を建設したことで知られるが、彼自身はイスラム教の信仰が厚く、むしろ本来のイスラムの精神に基づいて寛容で自由な国家を築いたというのである。

政治における宗教的信念は他者貢献や社会貢献といった利他の精神や平和主義へと昇華するときに生きる。もちろん宗教にも高低浅深がある。他宗教に対して非寛容な独善的宗教は自由と人権を保障する近代国家の精神基盤とはなり得ない。まさに協調的か独善的か、寛容か非寛容か、もっと言えば政治理念にまで昇華できるか宗教の次元に留まるかが、高等宗教(=世界宗教)たり得るかどうかの試金石となるのではないだろうか。

以前、佐藤優氏と懇談した折、創価学会の活動に共感と賛同を示しつつも、唯一不満があるとすれば、自分たちの活動に自信を持っていないように見えることだと述懐されたことがある。その一つが公明党の支援活動だ。学会員は特に選挙において公明党の候補を全面的に支援しているが、建て前としてはそう見えないように気を遣っているように伝わってくるという。それこそ、かつて受けた「政教一致批判」によって刻み込まれたトラウマのせいではないかと。宗教的信念をもとに政治に貢献することは何ら恥じるものではないどころか、むしろ胸を張って誇りをもって堂々と主張すべきことだと佐藤は言う。戸田と池田の師弟が示した政治貢献の道に、佐藤はある意味では創価学会員が思っている以上に共感と理解を示し、エールを送ってくれていると言える。

戸田城聖が政治参加を決意した理念については、戸田が会内に文化部を創設して政治参加を表明した当時を描いた小説『人間革命』第9巻「展開」の章をもとに考察している。宗教とは生活の一部なのではなく、生活のすべてなのだと戸田は訴える。信仰によって自身の人間革命を目指すことは、人間が営む政治、経済、教育、文化、科学、哲学のあらゆる分野で社会の変革をもたらす波動となると語る戸田の言葉が引用されている。

佐藤が信奉するキリスト教プロテスタント・カルバン派もまた生活のすべてが信仰だとする教派だという。プロテスタントにもカルバン派(改革・長老派)、メソジスト派、会衆派等の諸教派があるが、そのなかで宗教的信念を社会改革へと展開していく思想的傾向が顕著なのがカルバン派であり、佐藤はその価値観をもって講義や著述を行っているという。ゆえに創価学会の政治観と佐藤自身の信仰に基づく政治観とは親和性が高い。このような自身のキリスト教信仰と創価学会のアナロジーを通して、佐藤は宗教の政治参加には普遍的な必然性があると主張しているのである。

政治家の自己鍛錬を信仰に求める

もう一つ驚いたのは、佐藤が「戸田城聖は、政治を広宣流布の一環と考えている。政治活動に人間が従事するとしても、究極的には本尊の仕事なのである」と述べていることである。「政教分離宣言」以降の創価学会・公明党はこのような政治と信仰を直結させる表現を一切封印してきたわけだが、前述の通り、佐藤は「創価学会・公明党は行き過ぎた政教分離を是正すべき」との信念から、敢えて意図的にタブーをぶち破ろうとしているように見える。それはとりもなおさず佐藤自身の信念だからである。

念のため補足すると、戸田がそこまでストレートに政治と本尊を直結させた表現が『人間革命』にあるわけではない。戸田は様々な文脈で「広宣流布は単に布教を指すのではなく(政治を含む)社会全体の改革を通して世界平和、人類の幸福を実現することだ」と述べている。その文脈のうえに佐藤は、戸田の「広宣流布は、どこまでいっても、結局は御本尊様の仕事です」との言葉を引用している。

「本尊」は宗派性の強い言葉だが、普遍的な表現に展開するとすれば、「広宣流布の諸活動は表面的な利害打算や表層的な人物観で動くのではなく、信仰の実践によって私心のない浄化された目的観や公平で本質的な人物観を会得しながら、その高い境涯で成し遂げていくべきだ」ということだ。そして戸田は、創価学会が政治活動に進出するとしても、そうした私心のない公平な境涯のなかで取り組んでいくべきであることを訴えているのが上述の下線部の文言である。さまざまな意味で誤解されやすかったり、批判の的になりやすい宗教的な表現を敢えて用いて述べたところに、佐藤が本章に投入した挑戦的な意図があるように思う。

そうまでして佐藤が政治家における信仰の価値を強調するのは、政治の世界が権力の魔性が住み着いた世界だという、外交官時代からの経験に基づく実感があるからだ。本来、政治権力は国民・市民に奉仕するために行使されるべきものだ。民主主義社会の政治制度はそれを保障しているように見える。しかしながら、この民主主義社会においてもなお、自らを特権階級のように勘違いして傲慢にも庶民を見下す政治家や、私利私欲に溺れて汚職に手を染める政治家たちは枚挙に暇がない。高邁な理想を掲げて市民の信任を得た政治家も、自身の生命が弱ければ初心を貫くことはできない。そうなると、政治家には、豊富な知識や高邁な主義主張だけではなく、庶民のために貢献し続けていけるための人格的要素もまた求められる。

そして、それは人間の凡庸な知恵だけでコントロールしていける代物ではないというのが佐藤の主張だ。佐藤はそのことを新約聖書のパウロの言葉から語る。人間は善をなそうという意志があっても、原罪のゆえに望まない悪を行ってしまう。この原罪から救済されるにはイエスへの純粋な信仰に従うほかないのだという。

これに引き続いて佐藤は仏法の十界論に言及する。十界論は人間の生命境涯を地獄界から仏界までの十種に区分し、いかなる人も平等に十種の境涯を潜在的に備えていて、縁に触れてそれら十界のあいだを揺れ動くものであるとする。人々のために貢献したいと願う菩薩界の生命も、権力という縁に触れて私欲に堕する餓鬼界の生命も、一人の人間のなかに同居していてどの境涯も消すことはできないが、どんな境涯をも自らの意志で律し、善の方向に向けていく力強い境涯が仏界であり、それを目に見える形に表し出したものが本尊である。

仏法にはキリスト教の原罪に当たる概念はないが、誰の生命にも四悪趣と言われる地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界の生命が内在しているとする点を、佐藤は原罪とのアナロジーとして読み取っている。そして、人が自身の力を過大評価せず、自己を超えた超越的な祈りの実践を通して、自身に忍び寄る権力の魔性を打ち破り、初心の謙虚さを保ち続けて成長し続けていく道を政治家に求めているのである。

19552月、地方選挙への態勢が整えつつあった文化部会で、戸田が部員を激励した言葉が小説『人間革命』第9巻「展開」の章から引用されている。「名聞名利を捨て去った真の政治家の出現を、現代の民衆は渇望んだ。諸君こそ、やがて、この要望に応え得る人材だと、私は諸君を信頼している」と。

さらに続いて、佐藤は戸田の言葉を長文で断続的に引用する。それ自体、佐藤が戸田と池田の師弟の思いに深く共感していることの現れである。ここでその一部を再引用しておきたい。

「十九世紀から二十世紀にかけ、世界では、さまざまな政治体制の国々が生まれた。しかし、依然として民衆は、政治権力の魔性から解放されたとは言いがたい。どう政治体制が変わっても、いつしか民衆を苦しめる魔性に支配されていく。その愚かな権力の流転の歴史を、戸田は思わずにはいられなかった。この途方もない愚劣さからの脱出――それこそ、民衆が心底から渇望しているものであろう。それは、もはや政治の次元で解決のつく問題ではないのだ。」

「すべての人間は、十界を具しているとする仏法の真理に照らす時、魔の正体は初めて明らかになる。政治権力の魔性も、人間生命に焦点を合わせた時、発生の根拠を初めて知ることができる。」

創価学会・公明党の来し方と行く末

いわゆる言論問題が起きた当時、政治に進出する者はたいてい自己目的の野心を持っているという、経験から来る先入観が社会全体の背景にあったと思う。そこに加えて、当時の学会員が行っていた草の根的な折伏行は勢いがあり、時に過激で排他的とも映っていた。その結果、創価学会が布教目的の野心のために日本の政治を乗っ取ろうとしているかのような脅威が言論問題を象徴的に生み出した面もあるように思う。

しかし、結党時からも言論問題からも50年が経過した今、公明党の目的が決して創価学会の利害のためではなく、純粋に地域社会の人々に貢献する目的で献身してきたことは明らかになってきている。教科書の無償配布、児童手当の実現、水俣病・イタイイタイ病の公害認定などをはじめとする、数多くの庶民目線の実績がそれを物語っている。創価学会員が懸命に公明党候補者への支援の拡大を訴えるのも、決して創価学会のためではなく、それが地域貢献であり、社会貢献の活動だと信じているからだ。

それらの実績を積み重ねてきた公明党議員たちの背景には、表には出さなくとも信仰による自己鍛錬があったことだろう。もっとも、その途上で残念ながら転落した者もいた。それも権力の魔性に破れた厳しい現実でもある。しかし、創価学会員は公明党議員に対して非常に厳しい。自分たちの理想を貫けない者ならば支持はしない。この自浄作用も健全な民主主義の一つの形ではないだろうか。

本章の主張から見えてくるのは、公明党は決して言論問題の批判を浴びたことで社会との融和路線に舵を切ったのではなく、戸田が掲げた当初の理想そのものが宗教的信念に基づく社会貢献の道だったのであり、池田もそれを引き継ぎ、実行に移してきたということを文献をもとに考察している点だ。そうであるならば、その批判に対応するために宗教的信念の部分を分離させたのはあくまでも誤解や偏見を払拭するためだった。もうここからは再び公明党の宗教的信念を社会に対してより積極的に主張してもよい段階に入っている。そのように佐藤から発破をかけられているように感じる。

もう一言、私の立場で付け加えるならば、佐藤が言うように公明党の宗教的な精神基盤を隠さずに表明していくことには賛成だが、それと同時に、そうした宗教性が決して閉鎖的なものではなく普遍性をもって多くの人々と共有し得るものであることをセットにして訴えていく必要があると思う。キリスト教神学者でもある佐藤が創価学会の宗教性に共鳴している事実そのものが普遍性を物語ってはいるのだが、さらに積極的にそれを推進するには、公明党の支持母体として、創価学会だけでなく、理念を共有できる他の平和推進団体やさらには他の宗教団体にも支持母体に加わってもらえることが理想ではないだろうか。

公明党の議員も、高邁な理想をもって自己鍛錬できる人ならば必ずしも創価学会員でなくてもよいし、他宗教の教徒でもよいと思う。これまでも故・草川昭三元副代表のように、学会員ではなくても、公明党の政策と公明党議員の生き方に共鳴して、最後まで高潔な政治家として生き抜いた人は厳然といる。そのような方は実質的には信仰を共有していたのに等しい。そうはっきりと言えるようになったのも、佐藤優という人と出会ったからである。

※「本尊」、「十界論」などの宗派性の強い用語については改めて別稿にて詳細を論じることとします。

 

第五章 夕張炭鉱労働組合問題の思想的意味(連載第19回〜第24回)

創価学会の政界進出と夕張炭労問題

前章の第四章では創価学会第二代会長戸田城聖が政治進出を決断した際の宗教的信念を内在的論理として描き出し、第三代会長池田大作が恩師戸田の信念を継承していることが語られた。この政治進出が創価学会にもたらした苦難の一つが言論問題だったが、もう一つの大きな苦難が夕張炭労問題であった。第五章ではそこにフォーカスを当てることで信仰とマルクス主義との間の緊張関係を集中的に考察している。

19567月の参議院選挙で創価学会は候補者を擁立。3名が当選して国政進出を果たした。このとき、北海道の夕張では、学会員が炭鉱労働組合(炭労)の支持決定に従わず、創価学会推薦の候補を支援したことが問題となった。炭労は、学会員の行為は労働者の団結を破壊するものであるとして、誹謗中傷を繰り返し、学会員を徹底的に弾圧して締め出そうとした。

当時の炭労はマルクス主義思想の色濃い日本社会党の影響下にあった。夕張炭労が創価学会員を弾圧したのは明らかに炭労のなかにマルクス主義の反宗教イデオロギーに基づく宗教信仰者への差別意識があったからだ。小説『人間革命』第11巻「夕張」の章には、こうした炭労の動きに激怒した戸田城聖が「炭労が、そこまで学会員に圧力をかけようというなら、断固、受けて立とうじゃないか!いよいよ戦闘開始だ!」と宣言する姿が描かれている。

戸田が闘いの思想的根拠としたのは、まず第一に「信教の自由」を守ること。「信教の自由」は日本国憲法が謳う基本的人権の根幹を成す理念である。第二にはマルクス主義の宗教観と対峙して、人間にとってより本源的な宗教観を討究すること。池田はその精神を正しく継承した証として、そのことを小説『人間革命』に書き記した。佐藤もまたそれを思想的次元から考察することで、戸田と池田の内在的論理を探求しようとしている。

「信教の自由」を巡る闘争

労働組合は国家や経営陣といった権力と対峙して労働者の権利を守るために作られた組織であるから、本来、弱者の側に立ち、労働者の基本的人権の守り手でなくてはならなかったはずだ。しかし当時の炭労は創価学会の信仰を否定し、弾圧した。当時の炭労は会社とユニオンショップ協定を結んでいたため、組合から排除されることは即解雇を意味した。権力から弱者を守るべき組合がもはや権力となって「信教の自由」を奪ったのだ。当時、炭労に所属する学会員は勤務状態も良好で、会社にも組合にも貢献する姿勢は際立っていたという。ただ選挙の支持決定に従わないことと、そして創価学会員であることだけを理由に炭労は弾圧したのだ。

これに対して創価学会は仏法の人間尊重の理念に基づき、「信教の自由」を守り抜くことを公式に表明している。「信教の自由」を守るというのは、自己の信仰を守ること以上に、他者の信仰を守るという寛容の観点こそ重視されるべきものである。池田は会長就任直後から、他者の「信教の自由」を守り抜く意思をたびたび表明している。二カ所から引用する。

「信教の自由の本源は、人間精神の自由の基本をなすものとしてとらえるべきだと考えます。私は、信教の自由は、いかなる時代がこようとも、またいかなる国においても、厳守されるべき原理であると信じます。また、それはいかなる信仰をもつ人であっても――仮に自分がその信仰をいかに正しいと確信していても――他人に対する場合には、あくまで厳守すべき原則であると考えます。」(「二十一世紀への対話」アーノルド・トインビー、『池田大作全集』第三巻)

「次に、私どもの信教の自由を守りぬくことは当然として、更にたとえ私どもと異なった思想、意見をもった人々であったとしても、もしそのひとたちが暴虐なる権力によってその権利を奪われ、抑圧されそうな時代に立ちいったときには「人間の尊厳の危機」を憂えて、断固、それらの人人を擁護しゆくことを決意しなければならないということであります。」(第36回本部総会(1973.12.16)「池田大作講演集」第六巻)

このように見ると、信教の自由を抑圧する非寛容の炭労と、信教の自由を守ろうとする寛容の創価学会の闘争は決して対等ではなく、攻撃と防御の関係が定まった一方的な闘争だったとも言える。しかし、それは自由と人権を守り抜く重要な意味を持った思想戦であったがゆえに、戸田は一歩も退くことなくこの戦いを受けて立った。そして、佐藤もそのことを見逃さなかったのである。

創価学会を母体として発足した公明党もまた結党以来、「信教の自由」を守り抜くことを党是として掲げている。このことは、ドイツキリスト教民主同盟に代表されるように、政教分離を掲げた近代国家における宗教政党には当然求められる共通の特性とも言うべきである。

マルクス主義への評価と理解

佐藤は夕張炭労問題を、単なる炭労と創価学会の利害衝突の次元ではなく、思想と思想との競合として捉えようとする。そこで、この問題を池田が小説『人間革命』第九巻にどのように描いたかに注目し、そこから戸田城聖と池田大作のマルクス主義観を読み取ろうとする。そして意外なことに、戸田は決してマルクスを否定してはおらず、むしろ資本主義社会に対するマルクスの精緻な経済分析を称揚していたとする池田の記述を引用する。佐藤はこれを評して、「戸田と池田はマルクス主義の内在的論理を理解していた」と述べている。思想の競合はマルクスの宗教批判の部分に集約されることになるが、それにさえも池田は一定の評価を与えている。

マルクスの宗教批判の対象はキリスト教プロテスタンティズムであった。この点でマルクスがヘーゲルの影響を受けていたとするのは佐藤の見立てだ。ヘーゲルは有史以来の宗教の最も進歩した形態とされたプロテスタンティズムに失望して無神論を主張した。マルクスもまた、マルティン・ルターの宗教改革は理論的な変革に過ぎず、真の意味で教会の権威主義を打破するものとはならず、真に人間を解放する力がなかったとして、宗教批判を掲げるに至った。池田はこのマルクスの宗教批判にも理解を示しているのである。

戸田にとっても池田にとっても惜しむらくはマルクスが仏教を視野に入れていなかったことだと。ここで佐藤はプロテスタント神学者としての論評は敢えて加えずに、純粋に池田の内在的論理にアプローチすることに専心している。それは単に宗派間の優劣を論じる議論ではなく、宗教をどの次元にまで深めて見るかにかかっているからにほかならない。

マルクスは、宗教を国家社会の次元から見ている。例えば、ブルジョア階級による労働者の搾取。そうした国家社会の矛盾が人間の不幸を生み出す。人間はその矛盾と戦うことなく、宗教というため息として吐き出してしまう。だから宗教とは現実の不幸の表現だとする。マルクス主義の宗教アヘン説もここから来ている。池田のマルクス批判はこの部分に集中していく。

マルクス主義という名の宗教

仏法は人間を生命の次元から捉える。池田によるマルクス批判も生命次元からなされていくことを、佐藤は小説『人間革命』から引用によって示す。

「生命の実在は、決して空想ではない。人間存在の現実性は、この生命の働きそのものであることを忘れてはならない」

「人間の生命、そして生命の働きこそ、現実を生み出している本源なのである。国家・社会の成立以前から、宇宙的規模で実在した生命の世界を無視しては、人間の全き理解はない。このような生命の実在を無視して、何が、いったい科学的であるか、はなはだ疑わしい」(池田大作「人間革命 第九巻 展開」 『池田大作全集』第148145147ページ)

近代の国家社会が出現するより遥か以前から人間は生老病死について苦悩し、自身の存在の意味を問い、生命という不思議な存在として生きる自己の尊厳を宗教という形で表現してきた。自己を遥かに超える大きな存在である宇宙、自己の生存を遥かに超える長大な時間、そうした超越的な時間空間に対する自然の発露としての畏敬の念こそ、我々が宗教と呼んでいるものの実態ではないだろうか。人間学者シェーラーは人間存在を規定するに当たって最も原初的な次元の人間を homo religiosus (宗教人)と規定した。人間という存在から宗教性を取り除くことなどできないのだ。

例えば、科学の見地から宗教を否定する考え方があるが、現代人のなかにある科学を無批判に信じる傾向を哲学者カール・ポパーは「科学信仰」と呼んでいる。社会主義も一つの優れた理論ではあるが、それを正義として信じるのは「社会主義信仰」とも言える。池田がその本質を捉えた小説『人間革命』の箇所を佐藤はいくつも引用しているが、ここでも二箇所を再掲する。

「宗教を好ましからざるものとした政治体制の社会では、それを強行する政治思想そのものに、宗教的機能をもたせ、いつか、その思想を絶対化せざるを得なくなっている。いわゆる″相対的なるもの″の絶対化であり、不自然なことである。人間精神の偏在化、歪曲化、硬直化に通じるだろう。」(前掲書148149ページ)

「宗教に関する現代の無知は、あらゆる現代の無知のなかで、最大のものの一つではなかろうか。碩学マルクスでさえ、はなはだ杜撰であった。さまざまな宗教の功罪について、また、その高低浅深について、深く思いをいたす現代の識者は、まことに皆無に等しい。この事実は、現代社会における、最大の不幸の一つといってよい。現代の人間の不幸の根が、実は、このような無知にあることを、人びとは、ほとんど気がついていないのである。」(前掲書149ページ)

佐藤は、池田がマルクス主義を「マルクスやレーニンというカリスマに対する信仰」「宗教を否定する形の宗教」と考えていたと指摘する。結局のところ、夕張炭労問題とは、マルクス主義という名の宗教を無自覚に信じ、その結果、本来宗教によって見つめるべき生命次元の人間の可能性や人間の真の自由と平等を見失っていることにある。たしかにその闘争は、炭労の攻撃からの防御ではあったが、戸田と池田の師弟は現代社会の宗教に対する無知がもたらす過ちや不幸を断ち切る先陣として、断固たる姿勢で戦ったのだ。

 

第六章 大阪事件における権力との闘い(連載第25回〜第34回)

大阪事件と小説『人間革命』

本書なかでこの第六章は最も長い。他の章は長くてもAERA連載の6回分だが、本章には連載10回分をかけている。それは佐藤が大阪事件の意義を重視していることの表れでもあるが、引用の長さもまた際立っている。本章は、池田が大阪事件の詳細を克明に記した小説『人間革命』第十一巻「大阪」、「裁判」の二章から長文を引用している。特に「大阪」の章の引用は原文の半分近くに及ぶ。創価学会にとって負の歴史とも取られかねない大阪事件の真実を、池田は敢えて未来の創価学会のために克明に書き残そうとした。佐藤もまたその池田の意思を汲んで、ここに力を入れて考察している。

大阪事件は1957年(昭和32年)に起きた。この年の4月に行われた参議院選挙大阪地方区補欠選挙で、創価学会は候補を擁立して支援活動を行ったが、その際に学会員から選挙違反容疑(買収と戸別訪問)で逮捕者が出たのだ。当時の参謀室長・池田大作(小説『人間革命』での人物名は山本伸一)は弱冠29歳ながら、恩師である会長・戸田城聖の命を受けて大阪で選挙戦の総指揮を執っていた。検察と警察はこのときの選挙違反が幹部の指示により組織的に行われたものと決めつけて伸一を逮捕し、二週間にわたり拘留した。この出来事の真実と、そこに展開される戸田と池田の師弟の絆、池田と大阪の学会員の絆を描いたのが「大阪」の章である。

裁判はその後、戸田が逝去し(19584月)、池田が創価学会会長に就任した(19605月)後も続くが、最終的に19621月に無罪判決を勝ち取る。小説『人間革命』は戸田を主人公としてその生涯を描いたものであるが、「大阪」の章に続く「裁判」の章は唯一、戸田逝去後の1962年の無罪判決を亡き恩師・戸田に報告するところまでを描いている。佐藤はこの二つの章の引用を中心に、大阪事件の宗教的意義を考察している。

戸田と池田の師弟の絆

195773日、池田は炭労問題の決着を見た夕張を発ち、羽田空港に到着するが、既に大阪府警から出頭命令が出ていたため、大阪行きの飛行機に乗り換えなければならなかった。この強行軍の短い滞在時間に、控室で池田を出迎えた戸田が、「伸一(大作)、もしも、もしも、おまえが死ぬようなことになったら、私も、すぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」と語ったことは、小説『人間革命』における師弟の名場面としてもよく知られている。

逮捕の手が自らに及ぶときに人がどのような心境に陥るかは経験した者でなければわからない。戦時中に特高警察に逮捕されて2年間の獄中生活を経験した戸田には、逮捕直前の弟子の心境が手に取るようにわかったはずだと佐藤は記す。佐藤自身も外務省勤務時代に鈴木宗男事件で逮捕・投獄されているからだ。その極限状況を共有する戸田と池田が、師弟一体で難局に臨もうとする光景、その絆の深さを、佐藤は共感をもって描写している。ある種の感動さえ伝わってくるようだ。

その日73日が、かつて戸田が終戦間近に出獄した194573日と同じ日であることにも不思議な縁があった。さらに、この73日には戸田が妙悟空のペンネームで著した『小説人間革命』を上梓したことも不思議な一致だった。その初版の1冊を戸田は控室で伸一に渡す。この小説には戸田自身の獄中闘争のすべてが主人公・巖九十翁(がんくつお)を通して描かれている。伸一は大阪に向かう機中でこれを読み、自身の使命を自覚し、覚悟を固めていく。このように、大阪事件という一つの法難を我が身で受けきることを通して、戸田と伸一の師弟不二は決定的に強固な絆で結ばれていった。そのことが創価学会の広宣流布の歴史上に重大な意義があることを佐藤は考察している。

崇高な目的は崇高な手段によって達成すべし

大阪事件は一部の学会員が個人として犯した選挙違反に対して幹部が指示してやらせたという嫌疑をかけ、虚偽の供述を引き出した検察の暴挙であり、その誤りは裁判を通して明白になった。この裁判を通して池田は無罪判決を勝ち取り、創価学会全体に向けられた予断と偏見と断固として戦い、勝負を決したことに大きな意味がある。それと同時に、個人の行為とは言え、学会員のなかからそのような違反行為が出たこともまた事実であった。

小説『人間革命』第十一巻「大阪」の章では決してそのことを軽視せずに、なぜそのような違反行為を犯してしまったのかを、当事者の心理分析を含めて示していることに、佐藤は注目している。買収は金銭に余裕のある一部の学会員が金という権力の魔性に溺れ、功名心にかられて犯したのであり、戸別訪問は法律をよく知らない未熟さと熱心さが相まって犯したのだとしている。佐藤は、池田がこのことを、過去の反省と未来の発展のために小説『人間革命』に敢えて記した姿勢を評価している。以下の言葉を再掲する。

「崇高な目的は、崇高な手段によらなければ、真の達成はあり得ない。目的は、おのずから手段を決定づけるのである。民衆が幸福を享受できる、真実の民主政治を築くために、同志を政界に送ろうというのであれば、その運動もまた、民主主義の鉄則を、一歩たりとも踏み外してはならないことは明白である。」(池田大作「人間革命 第十一巻 大阪」 『池田大作全集』第149167168ページ)

当時の創価学会は急速に会員を拡大するなかで多様な庶民層を糾合していた。その過程で、このような事案が必然的に発生したとも言える。全力で会内教育を行ったとしても、大勢の人が動くなかで完璧に隅々まで選挙のモラルを行き渡らせることは決して容易ではない。しかし、小説『人間革命』に規範を明記することで、学会員が自発的にモラルをもって活動できるように、そして、このような違反行為が今後一切起きないように呼びかけているのである。

一歩後退、二歩前進

小説『人間革命』「大阪」の章からの引用に対する佐藤の論評のなかで特に印象深いのは、いかなる不当な追及にも屈しない堅固な意思を持っていた池田が、敢えて一旦容疑を認める供述をするに至った経緯について、池田の判断を正しかったと評価している点である。

池田が否認を貫き通すことは可能だったが、検察が予断と偏見のゆえに幹部の指示を認めさせる供述を引き出すことに目標設定を置いていることは明らかだった。ゆえに、池田が否認を続ければ、いよいよ会長戸田を逮捕して追及を加えていくことは不可避であり、決して脅しではなく現実的に予見できる段階まで来ていた。「大阪」の章では、山本伸一が蒸し暑い独房の夜に眠れずに悩んだ葛藤と逡巡が包み隠さず描かれている。激しい呻吟の末に、自分が一旦罪をかぶることを決断したのは、ただただ師匠戸田の身を守るため、その一点だった。

仮に戸田が逮捕されても、絶対に屈服しないであろうことは池田もよくわかっていた。しかし、当時戸田は既にかなり衰弱していたので、それは戸田に殉教を強いることに等しかった。「あってはならない。牧口先生に続いて、戸田先生まで獄死させるようなことが、あってはならない。戸田先生を、逮捕などさせてなるものか。絶対に逮捕させてはならない!」との山本伸一の叫びが決断の意味を表現している。無実はいずれ裁判を経て必ず証明される確信がある。しかし、戸田先生を獄死させてからでは、いくら後で無実が証明されても取り返しがつかない。それなら自分が一旦罪をかぶって裁判を通じて必ず無罪を勝ち取ると池田は決断したのだ。

これに対して佐藤は、池田がもし否認を続けたとしたら、戸田が逮捕され、命に関わる事態に陥るのみならず、マスメディアは検察のリーク情報をもとに創価学会を邪教とする大キャンペーンが展開されていたと予想する。つまり、池田は獄中という極限状態で、師匠の健康と学会の未来を展望し、その時点での最善の判断を選択したと評価している(386ページ)。そして、そのように自分を捨てて師匠と学会を守ったのは、池田の信仰による決断だったとしている(411ページ)。

寛容と非寛容との闘い

佐藤は、池田の小説『人間革命』には創価学会の国家観が表れていると述べている(392ページ)。創価学会は反国家的宗教ではない。常に各国の善き国民たるべきと指導している。佐藤はこの点でキリスト教と同じと見ている。ただし、このようにも述べている。「国家が宗教の領域に侵犯してくることがある。そのときは創価学会もキリスト教も抵抗する」と。

創価学会は他者、他宗教、国家をはじめとするあらゆる組織に対して寛容である。それは日蓮仏法、そしてその基盤となる法華経が、すべてを包摂する寛容の哲学を有しているからである。それにもかかわらず、日蓮にしても創価学会にも激しく国家権力と戦ってきた印象を持つ人は多い。その事情を考察するうえで、上記の佐藤の但し書きは非常にわかりやすい。

日蓮による国家諌暁も幕府と他宗派からの法華誹謗に対する抵抗であった。牧口と戸田が国家権力と戦って獄中闘争をしたのも国家神道による信教の自由の侵犯への抵抗だった。夕張炭労問題も組合員の信教の自由を守るための抵抗だった。そして、大阪事件もまた、国家権力が宗教団体に不当な圧力を加えようとすることに対する徹底抗戦だった。

本書第五章の読後記で、夕張炭労事件を「信教の自由を抑圧する非寛容の炭労と、信教の自由を守ろうとする寛容の創価学会の闘争」と評した。両者の関係は対等ではなく、攻撃と防御の関係が定まった一方的な闘争だった。非寛容の者は権力と暴力をもって他者の抹殺を企てるのに対し、寛容の者は言論の力で他者に変革を促す。ここで、非寛容の者の横暴さ、残虐さの前に、寛容の者がその慈悲深さのゆえに隷属してしまってはならない。どこまでも断固たる覚悟で正義の言論戦を貫かねばならない。そこに少しでも妥協があれば、寛容の者は非寛容の者の軍門に下ってしまうのである。

日蓮の強靭な折伏精神も法華誹謗に対抗して法華経の正義を守り抜くためであった。創価学会は心清らかで闘争を好まない穏やかな人々の集団であるが、仏法を誹謗し、学会を誹謗する者とは断固として戦いなさい、お人好しであってはならないというのが歴代会長の指導である。本書に触れて、そのことの本質を極めて正確に捉えている佐藤の慧眼に心からの賛同を覚える。

創価学会は国家社会のあらゆる非寛容、不正義と真っ向から対決してきた。いっさいの暴力を否定して言論の力で戦い、国家社会の変革を促してきた。そして、本書第7章のテーマである「言論・出版問題」も、第8章のテーマである「宗門問題」もその本質は同じである。

 

第七章「創られたスキャンダル――「言論・出版問題」の真相」(連載第3538回)

「言論・出版問題」の一般的な認識

一九七〇年、創価学会は「言論・出版問題」に直面した。「言論・出版問題」とは、政治評論家・藤原弘達氏の著書『創価学会を斬る』の出版を、学会が妨害しようと圧力をかけたことが社会問題化したとされるものである。この問題は創価学会に二つのターニングポイントをもたらしたとされている。一つは公明党と創価学会のいわゆる政教分離をもたらしたこと、もう一つは創価学会が平和・文化・教育路線に転換したことだ。このことは百科事典にも記載されて一般的な認識となっている。

この一般的な認識を整理すると、「言論・出版問題」は下記のような経過をたどったことになる。@創価学会の反社会的な行動➡A藤原がそれを糾弾するために『創価学会を斬る』を執筆➡B創価学会が圧力をかけて『創価学会を斬る』の出版を妨害➡C創価学会が社会の批判を浴びて方向転換を図る、と。しかし、この第七章で佐藤は当事者ではない客観的な立場から、@ABCのすべてにおいて実態が違っていたと主張している。

藤原は何を問題にしたのか

そもそも藤原が『創価学会を斬る』(以下、『斬る』と略称)を著した動機づけは何だったのか。@創価学会の反社会的な行動――があったのだとすれば自然だ。しかし、この事実がそもそも薄弱だと佐藤は見ている。ここで佐藤は『斬る』から約二七〇〇字に及ぶ長文を引用して検証している。五十代以上の学会員ならたいてい本のタイトルぐらいは知っているはずだが、実際に中味の文章を読んだという人は意外に少ない。本書の引用で初めて目にした学会員は衝撃を受けたのではないだろうか。

『斬る』は創価学会に反社会性や非人道性があると批判しているわけではない。批判の的はただ「創価学会の折伏は排他的だ」という一点だ。例えば、以下のような記述が見られる。

 「創価学会の折伏方式にみられる能動性、行動性は、他を排除することのみ急であり、ネガティブで、それ自体の価値は曖昧であり、能動的ニヒリズムの要素を非常にもっているといえる」

これも具体的な創価学会の行動や池田会長の文言を挙げての指摘ではない。「能動的ニヒリズム」とは、ナチズムの排他的行動が自己目的化していたことに対してなされた批判であり、それを自動的に創価学会に当てはめただけのものだ。実際の創価学会は「それ自体の価値」として、法華経に説かれた一切衆生の平等や永遠の生命といった絶対的価値を高く標榜し、信仰の対象としていたから、「曖昧」との指摘も当たらない。要するに、藤原は創価学会の信仰がいかなるものであるのかを調査も探究も分析もしないまま、『斬る』を著したと見られるのである。

言説を引用しない印象操作

藤原の池田個人に対する批判はさらに侮蔑的である。

「彼の著書そのものは、叙述が冗漫であるにもかかわらず、それほどの内容をもっていない」「せいぜいいってテレビの総合司会者タイプの男」「銀行の支店長クラスに毛のはえたような存在」「彼はその平凡さのゆえに狂信者の群れの頂点に立っている」

佐藤が指摘するように、藤原は池田の言説を一つも引用しておらず、どこがどう冗漫なのか、どんなふうに無内容なのか、具体例を一つも示さない。これでは印象操作と言われてもしかたがないだろう。そして、「テレビの総合司会」「銀行の支店長」といった職業を引き合いにして侮辱すること自体がそもそも差別的である点も佐藤の指摘どおりだ。

藤原が本心から創価学会の排他性を問題視するのであれば、まず会長である池田の指導性のなかにある排他性を具体的に指摘して論じるべきである。実際のところ池田は、他宗教を信じる人々の信教の自由も命を懸けて守ると本部総会等の公式の場で表明するなど(第五章を参照)、寛容の精神をたびたび示しているのが実態であり、そこから排他性を論証することは難しい。

このように『斬る』は、具体的な問題の指摘を行うことなく、侮蔑的で印象操作的な文言を散りばめさせていることから、創価学会に対する「ためにする批判」の書であったと解釈できる。つまり、批判すること自体を目的として、侮蔑や罵倒の言辞を羅列しただけなのである。必然的に、A藤原が具体的な学会の問題行動を糾弾しようとして『斬る』を執筆した――わけではないことになる。

言論弾圧はあったのか

B創価学会が圧力をかけて『創価学会を斬る』の出版を妨害――本書ではこの部分にもメスが入る。このような批判本が出版されようとしているときに、創価学会側が「もっと事実に基づいた客観的な評価をしてほしい」と要望するのも自然なことだ。公明党の公式党史『大衆とともに――公明党50年の歩み』(二〇一九年)によると、藤原弘達と親交のあった公明党の藤原行正都議と創価学会の秋谷栄之助総務が直接面談して要望を伝えたという。「脅迫的な言辞はなく、友好的な雰囲気の中で話し合われた」と同書に記されている。しかし、藤原弘達はこの面談を創価学会と公明党からの出版妨害として喧伝したのだ。

批判本に対して距離を取って、反論本を用意したり、抗議活動を盛んに行ったりするよりも、著者に直接会って要望を伝えるというのは最も誠実な態度だ。国家間の首脳会談に象徴されるように、直接会うという行為は、そこで話す内容以上にそれ自体が友好の証である。中高生の喧嘩じゃあるまいし、立場も常識もある大人が罵倒し合うために会うようなことはしないのが普通だ。

そもそも創価学会は民間の団体であり、国家や自治体などの公的機関ではないから、同じく民間人である藤原の言論を制限する権利などどこにもない。仮に脅迫的な言辞、つまり、このまま出版したら危害を加えるとか、損害を与えるといった類の言辞があれば、藤原はもっと騒いだはずだが、その形跡も全くない。対等な立場でただ「お願い」しただけのことだった。藤原は姑息にも当日の面談を隠しマイクで録音し、その録音の存在をもとに出版の妨害があったと喧伝した。しかし、その録音が後日、「週刊朝日」で誌上公開されたことで、実際の面談が友好的なものであったことが却って明らかになっている。結局、藤原が学会側の面談申し入れに応じたのも、その面談を妨害行為として煽情的に利用しようと最初から計画していた罠だったと解釈するしかないのではないか。結局、学会側の行動は言論弾圧と呼べるようなものではなかったというのが本章の見解である。

行き過ぎた「党宗分離」は過剰対応

最後のC創価学会が社会の批判を浴びて方向転換を図る――これすらも佐藤は異論を唱えている。佐藤はこう記している。「創価学会と党の組織的・機能的分化は、一九六一年十一月二十七日に公明政治連盟が創設された時点から始まっている」(四五一ページ)と。池田は会長就任の翌年には、既に学会と党の機能的分化に着手していた。政治家には高度の専門性が要求されるため、この時点で議員に当選した者は創価学会組織の要職からは外れて、政治活動に専念できるようにしたのだ。「言論・出版問題」を機にいわゆる「政教分離宣言」と言われる改革を行い、公明党の議員は地方議会から国会に至るまで創価学会の役職を、副役職を含めていっさい返上することとなった。

創価学会は会員を一人も漏れなく激励できるよう、各地域に網の目のような細かいブロック組織を有している。例えば、八王子市内には九十を超える支部があり、そのもとに地区があり、さらに町内会規模のブロックへと細分化されている。そして、各階層に支部長、地区部長、ブロック長がいて、副役職や女性部・青年部の役職者もいる。創価学会はおびただしい人数の草の根の庶民が役職者となって組織を主体的に支えているのだ。なかには、大会社の社長が学会組織ではブロック長を務め、休日に近隣の会員への訪問激励を嬉々として行っている事例もある。職業に貴賤もないし、学会役職が上下関係であるわけでもない。公務員、農家、技術者、主婦、学生、ありとあらゆる職業・立場の人が学会組織の役職を持っているなかで、公明党議員だけが学会役職をいっさい持たない。政治家にも信教の自由があるわけだから、よく考えれば不自然である。

結局これも、党と学会の関係は既に十分に機能分離されていたにもかかわらず、「出版・言論問題」における熾烈な「政教一致批判」に対応して、過剰な政教分離(党宗分離)を行った結果だと佐藤は見ている。こうした過剰意識について、第四章で佐藤が「言論・出版問題」のトラウマ(心的外傷)と評したのは、少なくとも学会員の意識において、このトラウマを克服してもらいたいと考えているからである。

藤原を創価学会批判に駆り立てた力

以上のように佐藤は、「言論・出版問題」の経過の一般的理解@ABCをすべて修正すべきだと主張している。藤原の『斬る』は「ためにする批判」にしか見えない。「ためにする批判」というのは何らかの利害関係に基づいて相手を貶めたい目的が先行し、批判のための批判を行うことだ。ならば藤原に創価学会を貶めたい何の目的があったのか。学会とのあいだに何らかの利害関係があったのか。その疑問に答える鍵として佐藤は、藤原が内閣調査室のエージェント(協力者)だった事実を提示している。

内閣調査室(現在の内閣情報調査室)とは、内閣総理大臣直轄の諜報機関である。この内閣調査室の内情を報告する興味深い回想録が二〇一九年に出版されたのを佐藤は見逃さなかった。かつて内閣調査室の主幹を務めた志垣民郎の日記をもとに毎日新聞記者岸俊光が編集した『内閣調査室秘録――戦後思想を動かした男』(文春新書)である。

この本によると、当時の内閣調査室は日本の共産化の防止に腐心していたという。志垣は、左翼の理論的リーダーとなる可能性のあった藤原に働きかけ、内閣調査室のエージェントとして取り込むことに成功し、その結果、藤原は保守系論客へと変貌していったという。志垣は東大法学部の同期生だった藤原に徹底的に接待攻勢をかけたらしく、料亭や高級料理店で接待した回数まで克明に記録している。藤原は情報収集能力以上に情報発信能力に長けていたことから、政府にとって都合のよい情報を煽情的に発信する保守系論客として重宝されたのだ。そこから佐藤は、「藤原が中立的な評論家ではなく、政府の意向を体現する工作に組み込まれた有識者であったことは、言論問題を考察する際に無視できない要因だ」(四七七n)と考察する。

当時、創価学会の存在を最も苦々しく思っていたのは既存の宗教界と既存政党だった。江戸時代以来の檀家制度に守られた既存仏教は、葬儀や法事などの儀礼執行を司る存在になりきっていた。そこへ人々に勇気と希望をもたらす生きた宗教として折伏を実践したのが創価学会だった。学会員は目の前の一人の人と共に幸福の人生を歩むために自身の歓喜や確信を伝える菩薩行として折伏を実践した。その結果として、多くの人が檀家を離れ、所属教団を離脱して創価学会に入会したことを、既存宗教が逆恨みしたのだった。既存宗教にとって檀徒、信徒を奪われることには経済基盤を奪われるという危機感があったことだろう。

そして、創価学会の政界進出をさらに恐れた既存の宗教団体関係者がこれに対抗するため、既存政党から選挙に立候補あるいは支持表明することが相次いだ。既存政党もまた、公明党の進出により自らの地盤を脅かされたため、既存宗教との利害が一致したわけだ。ここに創価学会の発展を恐れ、そのことを利害関係とする勢力の存在が見える。

そして、『斬る』が発刊されたのは一九六九年十一月。翌月の十二月には衆議院が解散、総選挙となった。既存政党は相次いで『斬る』を取り上げてシンポジウム、機関紙インタビュー等を行い、反創価学会、反公明党の大キャンペーンを展開した。実に絶好のタイミングの出版だったと言えるだろう。

藤原が問題視した創価学会の排他性にしても、既存宗教の目に映ったものがここに投影されていると考えれば合点が行く。池田の以下の述懐が本書にも引用されている。

「伸一は、ほとんどの政党が、学会を憎悪する宗教団体の支援を受けるなど、各教団と濃密に関わっていることを思うと、学会を襲う波の背後に、政治権力と宗教とが絡んだ、巨大な闇の力を感じるのであった」(池田大作『新・人間革命』第一四巻「烈風」二六九n)

しかしながら一九七〇年の創価学会は言論問題の逆風のなかでも拡大を続け、一月には七百五十万世帯の達成も宣言している。この問題を仏法上の法難として受け止めた学会員は、よりいっそう正義と真実を語る覚悟で折伏に打ち込んでいったのである。このように、創価学会と池田が「言論・出版問題」を乗り越えるまでを記して第七章は閉じている。

 

第八章「宗門との訣別――日蓮正宗宗門というくびき」(連載第3942回)

宗門問題を「誓願」の章から読み取る

創価学会は長年にわたり日蓮正宗(以下、宗門)の信徒団体として、宗門との僧俗和合の姿勢を貫き、寺院の寄進などの赤誠を尽くしてきた。しかし、一九七七年頃から惹起した第一次宗門問題で学会と宗門との間に軋轢が生じ、そのことの責任を取る形で池田は一九七九年に創価学会会長を勇退した。さらに一九九〇年の年末には宗門が池田を総講頭罷免とし、一九九一年十一月二十九日には学会に対して破門を通告。学会と宗門は完全に訣別するに至った。池田はこの日を「魂の独立記念日」として、「大勝利宣言」を行う。

池田はライフワークと定めた小説『新・人間革命』を二〇一八年九月に完結させるに当たり、その最終章「誓願」の章(第三十巻下)のトピックに二つの柱を置いた。一つは世界広布への飛翔であり、もう一つは宗門との訣別であった。『新・人間革命』は池田にとって自伝的記録書でもあるが、同時に未来の広宣流布の方程式を示した指南書でもあった。だからこそこの宗門問題については事実経過だけでなく、より本質的な真実を書き残そうとしたのだ。

本書『池田大作研究』の執筆に全力を尽くしてきた佐藤優もまた、これに呼応する形で、本書の掉尾を飾る第八章および終章のテーマにこの宗門問題を選んだ。そこに表れた池田の内在的論理こそ創価学会が世界宗教の条件を充たしていることの証だと佐藤は考えている。必然的に本章では「誓願」の章から長文を引用している。それは、佐藤の「誓願」の章に対する敬意の表れでもあり、本書の読者にも池田の内在的論理に直接触れさせようとしたものではないだろうか。

権威をかざす者とそれに服従しない者の闘い

夕張炭労問題、大阪事件、言論・出版問題と、どれを取っても創価学会を誹謗・攻撃する非寛容の勢力に対して学会側が寛容の言論戦で抵抗し抜いた闘争であったが、宗門問題もまた同じ図式であった。第一次宗門問題もまた宗門僧による学会攻撃から始まっている。

本書では、一九七八年当時の第一次宗門問題について小説『新・人間革命』からの引用をもとに考察しているが、下記の文章はその抜粋である。

「このころ、またもや各地で、宗門僧による学会攻撃が繰り返されるようになっていた」「宗門僧たちは学会攻撃の材料探しに血眼になっていた」「(全国檀徒総会に)二百三十人の僧、五千人ほどの檀徒が集い、学会を謗法と決めつけ、謗法に対しては、和解も手打ち式もないなどと対決姿勢を打ち出したのだ」(池田大作『新・人間革命』第三十巻上「大山」一八〜一九ページ)

当時、創価学会員は池田会長の指導のもと、日蓮仏法の法華経の精神を現代に蘇らせ、人々の生きる希望へと転換し、その歓喜が波動となって会員も急激に増加していた。それに伴って各地の会館建設も進んだ。会員が会員を指導激励する組織体制も整備されていった。在家信徒である創価学会員が自ら勤行・唱題し、日蓮の御書も読み、指導激励もしていくという体制が築かれていくなかで、宗門の存在意義が軽視されていると感じた僧侶たちが、僧侶の権威をかざして学会員を隷属させようとしたのが学会攻撃の発端だった。それでも学会側は誠意をもって対応し、寺院の寄進をはじめとする外護の赤誠は尽くし続けた。「大山」の章の続きに池田は「学会は、和合のために、どこまでも耐忍と寛容で臨み、神経をすり減らすようにして宗門に対応し続けた」(前掲書)と記している。

しかし、副会長・福島源次郎の不規則発言が宗門に学会への攻撃材料を与えてしまうなど、状況が悪化するなか、池田は事態の収拾のため会長を勇退した。その後の池田は創価学会インタナショナル会長として、世界広布に奔走すると共に、ゴルバチョフ氏をはじめとする海外要人との友好交流にも力を注いでいく。

第二次宗門問題は一九九〇年に惹起するが、今度は公式に宗門側から学会への攻撃が始まっている。学会の本部幹部会での池田のスピーチに問題があるとして、宗門側から「質問書」を寄こしてきたのだ。これに対して学会側は面談での対話を求めたが、宗門はこれを拒否。やむなく学会側は僧俗和合を目指すために思い悩んでいた事柄や疑問を「お伺い文書」として提出。その後、宗門側は池田の総講頭罷免などの懲罰的な措置を通告。対立は決定的となった。

これら一連の経過のどれを見ても宗門側の学会に対する態度は高圧的で、その所作や言動からは権威主義があふれ出ていた。それに対して学会は、池田の人柄そのままに、常に誠意を尽くして忍耐強く謙虚に対応してきた。しかし、宗門がその誤りに気付いて不当な攻撃をやめない以上、学会がその権威主義に服従してしまうことは日蓮仏法の本義に照らしてどうしてもできなかった。ゆえに学会は宗門と訣別する選択しかなかった。

佐藤は宗門問題を単なる教団内の意見対立やトラブルといった次元では捉えず、信仰の本質の次元から考察している。本章では、日蓮仏法が信奉する法華経が、二乗作仏や女人成仏を説いて、一切衆生の絶対平等を説いた経典であることを創価学会公式サイトから引用している。日蓮仏法の本義に照らせば、学会が権威主義に従わないのは必然だということである。佐藤は「僧侶が『上』、一般信徒は『下』とする宗門の宗教観と、そのようなヒエラルキーを認めない民衆宗教である創価学会の基本的価値観の対立」(五〇六n)と総括する。

そしてここにキリスト教がたどった歴史とのアナロジーを見る。キリスト教もまた中世において教会が権威主義化し、司祭が「上」、信徒は「下」とする差別主義に陥っており、十六世紀のマルティン・ルターの宗教改革によって「万人祭司」という平等の価値観が生まれたという(五三五n)。佐藤は「創価学会は、仏教ルネサンス(宗教改革)に舵を切ったのである」(五四八n)としている。聖職者が権威主義に陥ることも、民衆主体の宗教改革が起きることも、歴史の必然なのかもしれない。

師から受け継いだ判断基準

池田は宗門に対して誠意を尽くしつつも、信仰の本義に関わる部分ではいっさい妥協しなかった。佐藤は、池田がその精神を師匠である戸田城聖から受け継いだと捉えている。ここでは、それに関連する池田の文言を少し補足したい。

まず、戸田が宗門僧侶に対して無条件の権威を認めることはせず、その行動によって尊敬にも軽蔑にも値するとする是々非々の態度であったことを、戸田の言葉の回想として記している。下記はその抜粋である。

「折伏もしないで折伏する信者にケチをつける坊主は糞坊主だ。尊敬される資格もないくせして大聖人の御袖の下にかくれて尊敬されたがって居る坊主は狐坊主だ。御布施ばかりほしがる坊主は乞食坊主だ」

「御僧侶を尊び、悪侶はいましめ、悪坊主を破り、宗団を外敵より守って、僧俗一体たらんと願い、日蓮正宗教団を命がけで守らなくてはならぬ」(池田大作『新・人間革命』第八巻「宝剣」、一八二〜一八三ページ)

戸田は宗門の真の興隆のためには、僧侶らが学会員と同じ心で広宣流布に闘い、同じように折伏にも取り組み、上下関係ではなく、共に支え合っていく姿を望んでいた。しかし、仏法の法理に照らして、必ずしもそのようにはならないことを予見もしていた。戸田は会長就任後の御書講義で次のように述べている。

「釈尊の時代の六師外道が、大聖人様が三大秘法を広宣流布するにあたって、僧侶になって生まれてきて敵対しているのであると。いま、わが創価学会が広宣流布をして、日本民衆を救わんと立つにあたって、それを邪魔するのは大聖人様の時に邪魔した僧侶が、いま日蓮宗等の仮面をかぶって生まれてきているのです。(中略)こんど、それではどうなるのかというと、あのような連中が死ぬと、こんどは日蓮正宗のなかに生まれてくるのです」(『戸田城聖全集』第六巻「佐渡御書講義」、五六二〜五六三ページ『池田大作全集』第七四巻「第二十回全国青年部幹部会スピーチ」二〇〇ページに引用)

池田は恩師のこれらの言葉を未来への指針として胸に刻んでいたがゆえに、宗門に徹底的に追い詰められても妥協しなかったのである。第一次宗門問題の際に池田が会長を勇退し、一旦妥協したように見えたのは、宗門に対する誠実で謙虚な姿勢を限界まで貫こうとしたゆえでもあり、同時に限界を超えんとする時には迷いなく決断するとの確信があったからでもある。佐藤は、池田のこの姿勢を「一歩後退、二歩前進」(五五三n)と評している。大阪事件の際に一旦罪を認めたことに対して評したのと同じ言葉だった。

宗門と学会の道は既に戦時中に分かれていた

戸田の僧侶に対する厳しく辛辣な文言は枚挙に暇がないが、その原点となっているのは、間違いなく戦時中の神札問題であった。創価学会初代会長牧口常三郎とその弟子戸田は、戦時中に軍部から神札を祀るようにとの命令を拒否したことで治安維持法違反と不敬罪により逮捕投獄され、牧口は獄中で殉死した。弾圧の首謀者は軍部だったが、宗門はその場に居合わせながら牧口と戸田に妥協を勧め、結局見殺しにしている。そればかりか、軍部から宗門が同類に見られることを恐れて二人に登山禁止処分まで下している。関連個所を『人間革命』から引用する。

「日恭猊下、日亨御隠尊猊下の前で、宗門の庶務部長から、こう言い渡されたのだ。『学会も、一応、神札を受けるようにしてはどうか』私は、一瞬、わが耳を疑った。先生は、深く頭を垂れて聞いておられた。そして、最後に威儀を正して、決然と、こう言われた。『承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません』その言葉は、今も私の耳朶に焼き付いている。この一言が、学会の命運を分け、殉難の道へ、死身弘法の大聖人門下の誉れある正道へと、学会を導いたのだ」

「程なく、牧口先生も、私も、特高警察に逮捕され、宗門からは、学会は登山を禁じられた。日蓮大聖人の御遺命を守り、神札を受けなかったがためにだ。権力の威嚇が、どれほどの恐怖となるか、このことからもわかるだろう。しかし、先生は、その権力に敢然と立ち向かわれ、獄死された。先生なくば、学会なくば、大聖人の御精神は、富士の清流は、途絶えたのだ。これはどうしようもない事実だ。学会が、仏意仏勅の団体なるゆえんもここにある」(池田大作『人間革命』十一巻「大阪」、『池田大作全集』第一四九巻、一五三〜一五四ページ)

このように牧口と戸田にとっては宗門や法主が行動規範ではなく、たとえ法主に逆らってでも信仰の本義に基づく選択を、この時点で既にしていたのである。しかも、それは命懸けの真剣勝負の選択だった。だからこそ戸田は、精神において富士の清流(日蓮正宗の本山大石寺は富士山麓にあり、かつては日蓮宗富士派とも称された)は途絶えたと、既に生前に述べていたのだ。

それでも戦後の戸田が宗門との僧俗和合への希望を捨てなかったのは、権威主義を捨てて自らの過ちを自覚し、創価学会と共に歩む宗門像を目指す人が宗門にもいたからである。その一人が、戸田の発願に応じて『日蓮大聖人御書全集』の編纂に尽力した碩学の堀日亨元法主であった。上の引用にもあったように日亨は神札の場に同席し、牧口と戸田を見殺しにした一人であったが、戦後にそのことを心から悔い、牧口と戸田に助けられたと語り、創価学会への感謝と敬意を隠さなかった。

「この堀日亨上人が、次のようにおっしゃっている。『御本尊様も本当に日の目を見たのは、学会が出現してからだ。学会のお陰で御本尊様の本当の力が出るようになったことは誠にありがたい』と」(「創立七十五周年記念各部代表協議会」スピーチ、『池田大作全集』第九九巻、二二八ページ)

「この日亨上人が、しみじみと戸田先生に『あなたがいなかったら、日蓮正宗はつぶれてましたよ』と言われていたことが私たちの心に深く焼きついている。」(「記念関西支部長会」スピーチ、『池田大作全集』第七二巻、二一九ページ)

同じことは戸田会長在任中に宗務総監・法主を務めた堀米日淳にも当てはまった。戦後の宗門が財政難で苦しみ、本山大石寺の観光地化を計画した際に、それに猛反対したのが戸田だった。戸田はそれ契機に学会員が大石寺に参拝する登山会を計画し、本山の財政を支えた。日淳は観光地化計画の過ちを認め、戸田への感謝と尊敬を隠さず、終生学会を賛嘆し続けた。

「戸田先生には、また創価学会には大恩があるのです。……登山会もそうでした。そのおかげで、総本山は、観光地化せずにすんだのです」振り絞るような声が、伸一の胸を貫いた。戦後、宗門は、農地改革によって土地の多くを失い、財政難に陥っていた。その窮地を脱するために、総本山大石寺を観光地にしようという話が持ち上がったのである。(中略)これには当時、宗務総監だった日淳上人も出席している。席上、観光地化に同意する旨を述べているが、その心中は、断腸の思いであったにちがいない。この計画を聞き、「総本山を絶対に観光地にしてはならない」と、断固、反対したのが戸田城聖だった。彼は、日興上人の「謗法の供養を請く可からざる事」との御遺誡のうえから、なんとしても、これに同意するわけにはいかなかった。」(池田大作『新・人間革命』第二巻「勇舞」、二四八〜二四九ページ)

「日淳上人は明言されている。『大本尊より師弟の道は生じ、その法水は流れて学会の上に伝わりつつあると信ずるのであります。それでありますから、そこに種々なる利益功徳を生ずるのであります』」(「秋季彼岸勤行法要」スピーチ。聖教新聞二〇〇八・九・二三)

このように見ると、日蓮正宗宗門と創価学会の歴史は、宗門の指示や方針に学会が従わなかったことによって信仰の命脈が保たれてきた事案の繰り返しだったとも言える。そして、日亨や日淳のように、そのことの意義を自覚し、権威主義を捨てて学会と共に歩む法主の存在によって、辛うじて僧俗和合は保たれていたのだ。しかし、そうではない権威主義を振りかざす法主が出現する可能性も戸田は十分に予見していたことは、先述の「佐渡御書講義」での言葉に現われている。

戸田が会長に就任した翌年(一九五二年)に、創価学会は日蓮正宗とは別の独自の宗教法人格を取得している。戸田は創価学会が広宣流布へ前進していくなかでいかなる未来にも対応していけるように、先手を打っていたとも言える。今、戸田が存命であったならば、どうしていたか。池田にはそれがありありと見えていたはずだ。池田は師弟不二であるがゆえにいっさいの迷いなく、妥協を排して訣別の道に進んだのである。

 

終章「世界宗教への道を進む」(連載第43回)

宗門の排外主義と創価学会の世界宗教化

佐藤が、宗門問題においてもう一つ注目したのは、第二次宗門問題に際して宗門がキリスト教と敵対する姿勢を鮮明にしたことだ。キリスト教徒であり、プロテスタント神学者でもある佐藤が創価学会に共鳴できて日蓮正宗宗門に全く共鳴できないのは、至極当然のことであった。

宗門が学会に送った質問書には、学会がベートーベンの第九「歓喜の歌」を歌うのは、キリスト教の神を賛嘆する行為であり、「外道礼賛」ではないかとの詰問が記されていた。さらに、池田が受章したガーター勲章が十字の紋章であったことも非難の対象とした。

そもそもあらゆる民族のあらゆる文化において宗教的基盤をいっさい抜きに語ることは不可能だ。「西暦」も日曜日を休日とする文化もキリスト教由来である。ベートーベンの「歓喜の歌」もまた、宗教性を帯びつつも宗派性を超えて全人類普遍の芸術文化へと昇華している。宗教否定の共産主義国だったソ連や東ドイツですら「歓喜の歌」を禁止していないのに、宗門のキリスト教観はそれ以上に偏狭だと佐藤は述べている。佐藤は言及していないが、「言論・出版問題」で藤原弘達が創価学会に投げかけた「排他性」批判は、本来、宗門に対して投げかけられるべきであった。

芸術文化に昇華した次元でなく、純粋に他宗教として見た場合でも、日蓮仏法は他宗教を一律に邪教と決めつける排他的宗教ではない。日蓮が鎌倉時代の既存の他宗派と戦ったのは、それら他宗派における排他的な法華誹謗に抵抗し抜いて法華経の真実を打ち立てるためにほかならなかった。非寛容に対する寛容の戦いだったのである。創価学会三代会長の不服従の闘争も日蓮に学んでいるのである。

日蓮仏法が信奉する法華経はすべてを包摂する円教である。ゆえに日蓮は既存宗派が依経とした観無量寿経や大日経などの爾前経(釈尊が法華経以前に説いた経典)もまた、法華経の一分を説いたものとして、法華経を賛嘆する文脈でたびたび引用している。

現代の創価学会においても、他宗教に接するとき、日蓮仏法の信仰の本義に照らして、法華経が説く一切衆生の絶対平等と共鳴し得るのか、生命の絶対的な尊厳を謳う精神と共鳴し得るのかを見定めていけばよいはずだ。平和・文化・教育の普遍性の領域において協調し得るのかどうかが明確な判断基準となるはずだ。そして、そうした普遍的精神を共有し得るのが世界宗教とも言える。互いに世界宗教と認められる宗教間においても宗教混交は避けるべきで、各宗教の自律性は厳格に保たれなければならない。あくまでも他宗教として共存し、いい意味での「人道的競争」を健全に競っていけばよいのである。

第二次宗門問題を契機に偏狭で排他的な宗門と訣別した創価学会は、その結果として日蓮仏法の本義に基づく純粋な信仰の道を邁進できることとなった。一九九五年には創価学会インタナショナルとして「SGI憲章」を制定するが、その第七項には次の条文がある。

            「SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく」(創価学会公式サイトより)

宗門との訣別によって日蓮仏法本来の寛容の精神を存分に発揮できるようになった創価学会は、世界宗教として飛躍的な発展を遂げることとなった。日本の学会員が各地へ離散してディアスポラができたのではなく、各地域の風俗や習慣を尊重する「随方毘尼」の教えに基づく寛容の弘教実践により、現地の人々の信仰として受け入れられていったのである。その結果、創価学会インタナショナルは世界の一九二カ国・地域に及んでおり(二〇二一年五月現在)、民族・国家・文化を超えた連帯を築き上げている。この事実が佐藤の眼には、キリスト教がユダヤ教と訣別することで世界宗教へと発展した歴史とだぶって見えている。そして過去から未来へと眼を転じると、池田が第七の「七つの鐘」を展望する二十三世紀には創価学会がキリスト教、イスラム教と並ぶ三大世界宗教となっている光景が見えるという(五六九ページ)。

 

さいごに

佐藤優氏が全力を尽くして挑まれた大著『池田大作研究』の読後記を記しました。キリスト教徒である佐藤氏が公開資料だけをもとに池田大作先生の内在的論理を深く理解され、考察されていることに、改めて感動と驚嘆を覚えます。本書前半では「私の履歴書」や「若き日の読書」など、公開されているとは言え、必ずしも十分に読まれていない資料をもとに池田先生の内面を深く探求されていることが印象的でした。

本書後半では、夕張炭労問題、大阪事件、言論・出版問題、宗門問題と、創価学会にとって苦難と言うべき事案をテーマに、常にその先頭で指揮を執ってきた池田先生の内在的論理を探究することで、それらの問題の宗教的意義に肉薄しようとされる姿勢が明確でした。法華経の理念を現実社会に実現し、平和と共生の社会を築いていこうとするときに必然的に起きた問題を見つめることのなかに創価学会の創価学会らしさがあり、池田大作先生の先生たる所以があります。まさに佐藤氏が「創価学会は闘う教団だ」と評している通りです。

佐藤氏を指して「創価学会を擁護する御用学者」であるかのように批判する人物がいます。しかし本書における佐藤氏の主張は擁護どころか、創価学会の公式見解よりもっと先を行っており、「創価学会さん、もっと自信をもってこう主張してはどうですか」と学会に発破をかけるような分析・考察となっています。そこには佐藤氏自身の価値観や信念が表現されており、創価学会に頼まれて書いているようなものでは全くあり得ないと言うべきです。また、いくつかの著書で日本における「創価学会タブー」(創価学会を評価すると叩かれる)の存在に言及されており、それを承知で本書の執筆を敢行し、予想通りの批判を実際に浴びられているわけですから、利害や損得を超越したところに言論人としての矜持を置いて本書に取り組まれたことが伝わってきます。

これまでも学会シンパと言われる知識人はいましたが、佐藤氏を心から信頼できる理由は、池田先生のことを学会員に向けて語るときも、広く社会やメディアに向けて語るときも語り口が全く同じであるところにあります。相手に歓迎されようと批判されようと、そんなことは一顧だにせずただひたすら自分の信念を淡々と語る佐藤氏に、心からの感謝と敬意を述べて、この読後記の結語としたいと思います。


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