山岡政紀 書評集No.56


『生と死の様式 脳死時代を迎える日本人の死生観』 多田富雄・河合隼雄編/1991830日発行/誠信書房刊/定価2300


 脳死判定と臓器移植という社会問題を契機として、現代日本における生死のあり方について各分野の第一人者が持論を述べる。

 第T部は医学、生物学等、理系の専門家八名による。生物学的には生死は連続していて、死の瞬間を特定することは本来原理的に困難であることを以下のように半数以上の筆者が指摘している。

「『死』とは連続的なプロセスであって、そこにはファジィな境界線しかない。果たして定義できるのか」(分子遺伝学者・本庶佑氏)

「『死』とは社会的規定に過ぎない」(解剖学者・養老孟司氏)

「『死』はプロセスであって、誕生の瞬間がどこかわからないのと同じである」(生物化学者の中村桂子氏)

「生命科学では人間の生死に言及することはかえって難しい」(免疫学者・多田富雄氏)

我々の経験の中で死を定義づけているものはむしろ記号的な価値の問題であり、その基準からは脳死患者は“生きている”と見るべき 向きが強い。社会的合意としてしか成立しない脳死判定は、医学が人の生死を臓器単位に細分化した帰結である。人間の全体的生の価値の再認識が求められる。

 第U部は哲学、宗教学等、文系の専門家八名による。編者河合氏は、対象化され科学的に理解される死とは異質な「私の死」への深化が必要と 主張する。その点では岡部女史の戦時中の原体験は自身の死と直面し続ける中で生死観を深化させていった一つの実際例として強烈な印象を与える。「私の死」 を見つめる目こそ人間の全体的生の価値を追求する目なのだ。

 

追記:本庶佑氏のノーベル医学・生理学賞受賞を慶ぶ

京都大学医学部教授を長く務めた本庶佑(ほんじょ・たすく)氏が101日、ノーベル医学・生理学賞の受賞者に決定したと発表されました。がんの免疫療法を開発した功績が認められたとのことです。人類益への貢献という観点でも歴代の同賞受賞者の中でも際立った部類に入るのではないでしょうか。

私は1991年に当時49歳の本庶佑氏が執筆した論文「生命の価値――生物学的考察」(『生と死の様式』多田富雄他編、誠信書房刊、所収)を読み、非常に感銘を受けました。特に、脳死臓器移植に関する見解を示されていたので、これについては、本年2月に発表した拙論「生命への配慮とはどういうことか脳死臓器移植問題を通して」(『ヒューマニティーズの復興をめざして人間学への招待』山岡政紀他編、勁草書房刊、所収)でも引用し、紹介しております。

本庶氏がその論文のタイトルに「生命の価値」という言葉を選んだことからもわかるように、単に客観的に生命を見る視点に留まらず、倫理、哲学、宗教の視点をも含めた総合的生命観を有した、視野の広い研究者だとの印象を持ちました。そこでの脳死臓器移植に対する本庶氏の見解を要約すると次のようになります。

1.「死」とは連続的なプロセスであって、そこにはファジィな境界線しかない。

2.個体間の臓器移植は免疫学的に見て大きな問題がある。

3.生命の倫理的評価は、生物学的評価より複雑で、社会的、経済的、宗教的要素によって左右される。

4.日本人には、遺体にも尊厳を覚え、生と死を明確に区分することを拒む文化がある。

5.脳死臓器移植を受け入れるには、ドナー側のある程度自己犠牲的な気持ちに基づく生前の意思表示が不可欠。

6.医師は患者の延命だけでなく、どうすれば安らかに死ねるかという宗教的な立場も重視すべきである。

このうち1と2は専門家ならではの見解ですが、3以降は哲学、倫理、宗教に関わる見解ですが、いずれも共感・賛同できるものです。ノーベル賞受賞決定後のインタビューを拝見していても、こうした価値観が長年一貫していることがよくわかります。この方の科学者としての信念はきっと何らかの宗教的バックボーンに支えられているのではないかと感じられてなりません。是非その点を伺ってみたいものだと思います。

2018.10.1


創価大学ホームページへ
山岡ホームページへ