名著読後記:ヴィクトール・フランクル 『夜と霧』

山岡 政紀

 

 ユダヤ人を強制収容所に送り込み、虫けらのように大量殺戮(ホロコースト)を行ったナチス・ドイツの蛮行は、暗黒の歴史として広く知られている。その被害者は600万人に及ぶとされている。そして、実際に強制収容所に送られ、死の淵に追いやられた人の絶望感がいかなるものであったか、声を封殺された当事者たちのその思いは到底知ることができない。その中にあって、強制収容所から奇跡的に生還し、なおかつ、強靱な意志の力によって、その生々しい地獄絵図を言葉にして残した実に希少なる体験記が、本書『夜と霧』である。

 

著書ヴィクトール・フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905-1997)が生還できたのは、彼の類い希なる精神力の強さと、いくつかの幸運な偶然、そして、彼が持っていた医師の資格と能力によるものであった。彼の専門は精神科であった。どんなに絶望的な状態でも、そのことを冷静に客観視して記述する能力を彼は有していたのだ。

 

強制収容所がどのような場所であるか、ガス室での殺戮方法も含めて、人々は既に知っていた。その強制収容所に、自分たちが乗せられた列車が向かっていると知った時の恐怖と絶望感。家族はばらばらに引き離され、ガス室に送り込まれていく。体力があって健康なわずかな者たちは幸運にも生かされて強制労働の方に回される。フランクルはその中にいた。彼は、医師としての能力を収容所内で発揮したことにより、他の収容者よりは生き延びることに成功する。そして、生還に至ったごく少数の一人となる幸運に恵まれた。

 

しかし、幸運と言っても、死なないで済んだという意味で幸運なだけであって、そこは地獄絵図。ゴミ箱のような冷たい土の部屋の、窓のない狭い空間に、一人一人が横になる余裕もないほど大勢が押し込められ、折り重なって眠る。一人一人は衣服をはぎ取られ、体じゅうの毛をむしり取られ、名前を剥奪して番号をつけられる。お互いが誰なのか見分けもつかない。どんな立派な職業に就いていたのか、どんな優しい人だったのか、どんな温かい家庭があったのか、すべては奪われて何もない。食事も満足に与えられず、糞尿は垂れ流しにさせられる。一切の人間の尊厳を剥奪されたこの状態を、死なないというだけで幸運と言ってよいのだろうか。じじつ、せっかく強制労働に回された人のなかにも、あまりの絶望感に、脱走防止のための高圧電流線に自ら飛び込んで息絶える人も後を絶たなかった。

 

彼らは土木作業に借り出され、担当官から理不尽に殴られ、蹴飛ばされ、罵られ、休息も与えずに働かされ続ける。疲労で倒れて使い物にならないとわかったら、その瞬間にガス室に送られる。あるいはその場で力尽きて、屍となって転がされたままの者もいる。弱音を吐くことも、助けを請うことも何もできない。あまりにもひどい、史上最悪の苦痛の場面が延々と続く。おぞましいほどの地獄絵図だ。

 

しかし、ここまでに述べたのは、地獄の只中にいる人の姿を外から眺めた描写だ。この本の本当のすごさはその当事者の心の地獄を内側から冷徹に記述していることにある。そして、外から見た地獄と、内から見た地獄との間には相当な開きがあるということも、わたくしたちはこの本に接してはじめて知らされるのである。

 

第一段階。焼却炉の煙突から、同胞たちが燃やされる無惨な煙が立ち上るのを見つめながら、自身が隠し持っていた学術書の原稿を持ち続けることを否定され、「糞ったれ!」と怒鳴られた瞬間の心理的反応。「それまでの人生をすべてなかったことにした」。

続いて、次々に希望が絶たれていくうちに、心に起きた反応。「やけくそのユーモアだ!」。

続いて、睡眠を取らなくても全く平気な状態。一度も歯を磨かなくても歯茎はいっそう健康になる。「人間はなにごとにも慣れることができるというのは本当か、と訊かれたら、こう答える。ほんとうだ、どこまでも可能だ」。

 

第二段階。感情の消滅段階へと移行。「内面がじわじわと死んでいった」。家族に会いたいという苦悩も次第に消滅していったという。

眼前のあらゆる悲惨な出来事を、「無関心に、なにも感じずにながめていられる」。毎日、毎時殴られることも「なにも感じなくさせた」。

さらに精神が幼児化する退行現象。夢に現れる素朴な願望。自分の体を死体と見間違う。極度の飢えから自身の尊厳を見失い、葛藤を繰り返す。「これは、身をもって体験したことのない人の想像を超えている」。

 

本来なら思い出したくないはずの、否、記憶から消されるはずの内心の地獄絵図を、一つ一つありのまま記録すること自体、どれほどの強い意志を必要としたことだろうか。彼自身が特別に強い意思の持ち主だったのか、はたまた、精神科医としての熟練が、彼の心をしてかくも冷徹せしめたのか。

 

本書は、史上最悪の残酷な歴史に関する体験者自身による記録という意味で希少価値がある。と同時に、行動主義心理学――心の内面を記述することに全く関心がなく、外に現れる反応のみに注目する心理学への強い反駁も密かに意図しているのではないかとわたくしは見ている。これほどの不思議な心の動きも、外面からは全く把握不可能であり、それでいて、その内面の強烈な苦悩が、紛れもなく体験された精神的実在であるという真実性をもって、読む者の心に生々しく訴えかけてくる。

 

本書が読者に訴えかける重要なテーマのもう一つは、人間の尊厳に対する人間自身の意志ということである。上述の心理的反応はある意味、悲惨な環境によって強制された受動的な反応である。その一方で、どんなに悲惨な環境に置かれても、自らの尊厳を保ち続けようとする人がいること(フランクル自身もその一人であろう)に、もう一つの衝撃を受けるのである。それは、この環境下で、他者に思いやりの言葉をかけることができる人、自分の生命も危うい時に、死にかけた仲間になけなしのパンを譲ることができる人、その人たちの姿に触れて彼が記した言葉をもって、この読後記を終えることにしたい。

 

人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ

 

2010.3.18

 

※原書はEin Psychologe Erlebt Das Konzentrationslager。原書名の直訳は「心理学者が強制収容所を体験した」。1947刊。邦訳は、霜山徳爾氏の訳により『夜と霧』として1956年に刊行。2002年に池田香代子訳による新版『夜と霧』がみすず書房より刊行されている。)


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