巻頭言 生命哲学研究会の使命に関する一考察

創価大学生命哲学研究会 顧問 山岡政紀


創価大学生命哲学研究会50年誌の発刊を心よりお祝い申し上げます。

私は皆さんの先輩たちである2002年、2003年当時の生命哲学研究会(以下、生哲)が取り組んだ佐渡御書現代語訳にも関わらせていただき、現在は顧問を拝命しております。過日、生哲の代表メンバーとお会いし、生哲の使命や御書研鑽の意義などについて懇談する機会がありました。その際に語り合ったことを整理し、本誌の巻頭言とさせていただきたいと思います。

 

「信教の自由」と生哲の存在意義

 

創立者池田大作先生は、創価大学の設立構想を発表された時点で宗教教育は行わないことを表明されました。創価大学はやはり社会に開かれた大学にしたいというのが創立者のお考えだったと思います。創立者は「信教の自由」を非常に尊重されています。現実に創価大学のキャンパスにはキリスト教徒の学生、ムスリムの学生、そのほかさまざまな信仰を持つ学生が共存しています。彼らがそれぞれの信仰を理由に差別を受けることはあってはなりません。それは学業成績や福利厚生といった制度面で保障すべきことは大前提として、それだけでなく気分的にこの大学には居づらいと感じさせてしまうだけでも「信教の自由」の無言の抑圧となります。それは創価大学があるべき本来の姿とは違うのです。学生の信仰の自由は大前提であってどこまでも尊重されなければなりません。それは基本的人権の観点からだけでなく、それ以上に本来、信仰というものは内発的で自由な心の発露であるべきで、強制や抑圧によって行ってもそれは信仰とは言えないのです。

もちろん、世界には神学や宗学など宗教教育を必修化している大学は珍しくありません。しかし、創価大学は敢えてそういう道を取りませんでした。実際のところ、創価学会員ではなくても、創立の精神に賛同し、また、創立者の世界平和への献身的行動に共鳴して入学してくれた学生は大勢います。そして、創立者はそうした学生を本当に大切にされてきました。小説『新・人間革命』第15巻「創価大学」の章では、そうした学生から創立者に届いた手紙の内容を紹介されています。大学や教員の側から、学生に対して信仰を押し付けたり否定したりするようなことは一切あってはならないのです。これは創大において永遠に守り続けるべき原理原則です。

そのなかにあって、生哲は、誰に強制されたのでもなく、草創期の先輩達が自発的に作り、今も学生が自発的に参加するクラブです。課外活動は、大学や教授の意思ではなく、学生の自発的な意思によって行うところに価値があります。そして、生哲は「御書を学びたい、仏法を学びたい」という自由な意思を持った学生たちが集まってできたクラブです。創立者は生哲の出現を本当に喜んでくださり、一人一人に大きな期待を寄せて下さいました。

創立者は世界で平和・文化・教育の多種多様な活動を展開してこられましたが、それはすべて仏法の哲学を現代の言葉に展開されたものです。仏法の哲学を仏法の枠内で語るのではなく、他文明や他宗教の人とも共有できる普遍的な哲学へと展開して語ってこられました。それが創立者の文明間対話であり、宗教間対話です。その本質を極めて学び抜いて、創立者の後を受け継いであらゆる人々と対話していける力をつけていくには、仏法を学び、仏法の視点をもって創立者の言葉を、その原理から深く学ぶことが必要となってきます。しかし、敢えてそれを池田先生の側からやりなさいとはおっしゃいませんでした。学生の有志が自発的に名乗り出てくるのを待っておられたのではないでしょうか。その意味で生哲は、池田先生の本心が分かっている学生たちなんだと私は思っています。

 

人間主義を宗教的次元から捉える

 

創立者池田先生の世界平和の行動を継承していくには、先生の思想や行動の源泉である仏法を学ぶことは必然です。歴史上、人間主義の闘士と言われた方々には必ず何らかの宗教的信念がありました。植民地主義と戦ったマハトマ・ガンディーにはヒンドゥー教の信念、人種差別と戦ったキング牧師にはキリスト教の信念がありました。

池田先生の宗教的信念は戸田先生から受け継いだ仏法の精神です。創立者は創価大学では、敢えて仏法用語をお使いになりません。しかし、それはすべて仏法の哲学を普遍的な言葉に翻訳されたものです。だから、その真意を深く理解するには、もう一度仏法の哲学として再解釈することが大事になってきます。

例えば、創立者は「大学は大学に行けなかった人のためにある」と様々な講演やスピーチで述べられています。これは西洋のノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)という概念とよく似ています。知識人はその知識で自分を飾るのではなく、その知識によって社会の人々に貢献していく義務があるという意味です。ですから、これは西洋の人々とも共有していける普遍的理念です。

それと同時に、それを宗教的次元から再解釈していくことで、より深いものになります。法華経の最終章である普賢菩薩勧発品第二十八に登場する普賢菩薩は、智慧の力で庶民の幸福の護り手となります。池田先生は大学で知識を得た者が普賢菩薩となって、大学に行けなかったという言葉で象徴されるような弱い立場の方々のために貢献していく人であってほしいと願われています。そして、その根本は法華経が一切衆生の絶対的平等を説いていることに意味があります。法華経の哲学から言えば、知識人も庶民も生命次元から言えば全く平等であって、知識はその人が果たす役割に過ぎません。

さらに法華経では庶民を表す地涌の菩薩を本化と言って主役と位置づけています。普賢菩薩は迹化といって本化を助ける脇役です。つまり、ただ平等であるだけでなく、役割から言えば、むしろ庶民こそ主役なのです。この法華経の哲学を学ぶことで、先生の「大学は大学に行けなかった人のためにある」との言葉の意味がより深く理解されるはずです。

創立者は日中国交正常化に貢献された人物としてもよく知られています。197412月の訪中で当時の周恩来総理と会見されたことをはじめとして、何度も訪中されています。共産主義国である中国はいっさいの宗教活動を禁止しています。池田先生も布教のために訪中されているわけではありません。しかし、先生の中国の人々への尊敬や友好の思いは、仏法者として信念から生まれ出ています。そて、それはどういうことでしょうか。是非生哲の皆さんで思索し、語り合ってみていただきたいと思います。

創立者池田先生の行動の本質を深く探求するには仏法の研鑽が不可欠です。それを、成績や単位や卒業とは全く関係ない自由なところで、誰に言われるからでもなく、誰に褒められるためでもない。そういうところで、ひたすら学んでいく。求道心とはそういうものだと思います。そういう求道心のあふれる生哲であって欲しいと願っています。

 

日蓮大聖人の御書を学ぶ意義

 

創価学会の信仰は御書根本です。それは創価学会会憲に示されています。「創価学会会憲」の「第1章 総則(教 義) 第2条」にも次のように「御書根本」とあります。

 

この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を 具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする。(創価学会「SOKAnet 創価学会会憲」)

 

 日蓮仏法とは端的に言えば法華経信仰です。法華経を信仰するというのは、ただ単に文字で書かれた経典としての法華経を読んで理解することではなく、「その法華経が表す真実」を我が身のうえに生きざまとして現わすことです。末法にその真実を覚知されて五字七字の題目として現わされたのが日蓮大聖人です。ゆえに私たちは、日蓮大聖人の御書を通して、大聖人のお生命のなかにある真実としての法華経を深く学び、信を深めることが信仰の実践となります。

法華経の哲学を言葉で表現するなら大きく二つあります。一つは迹門(前半十四品)の一念三千の法理に示された一切衆生の絶対平等。もう一つは本門(後半十四品)で仏の寿命の久遠を通して示された一切衆生の永遠の生命です。

法華経において仏である世尊は主役というよりナレーターのような役割を果たします。そして主役は途中の従地涌出品第十五から登場する地涌の菩薩です。仏界と九界の立て分けで言えば、世尊は仏界で、菩薩は九界の側の衆生です。その地涌の菩薩が世尊以上の尊極の存在として法華経の主役となるのです。それを可能にするのが十界互具の法理です。ここに仏法の究極の真理である九界即仏界も、地獄即寂光も、煩悩即菩提もすべて表現されます。地涌の菩薩の出現によって一切衆生の尊厳と絶対平等(一念三千)が完結するわけです。そして、如来寿量品第十六で地涌の菩薩の寿命が長遠であること(久遠元初)が示され、それによって一切衆生の永遠の生命が説かれます。創価学会員が朝夕の勤行で読誦する法華経方便品冒頭は万人成仏(一念三千)を表し、寿量品の自我偈は永遠の生命(久遠元初)を表しています。

しかし、日蓮大聖人の御書を読まずに法華経だけを読むと、ああ、そんな地涌の菩薩という素晴らしい存在がいるのだなという他人事のような感動で終わってしまいます。日蓮大聖人は法華経をすべて自身の生命の出来事として読み、そして、自分自身がその主役である地涌の菩薩であることを身で読まれました。御書にはその確信が満ちあふれています。

例えば、「諸法実相抄」は地涌の菩薩として虚空会の儀式に居たことを思い出した感動を「うれしきにも・なみだ・つらきにもなみだなり涙は善悪に通ずるものなり」(御書全集1359ページ)と綴られています。そして、弟子にも「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」(同ページ)と力強く呼びかけられます。この御書を拝するということは、その仰せの通りに自分は地涌の菩薩だと信じて生きるということです。

その生き方を現代に蘇らせたのが、創価の三代の師弟です。戸田先生は軍国主義と戦われた獄中で地涌の菩薩としての使命を悟達されました。そのときのことは妙悟空著『人間革命』にも書かれているし、池田先生もその師匠の原点を小説『人間革命』第四巻「生命の庭」の章に改めて書き残してくださいました。それは日蓮大聖人が流罪の佐渡の地で地涌の菩薩としての使命を記された「諸法実相抄」を現代に再現したような生命の儀式でした。その自覚のままに戸田先生は戦後に広宣流布の指揮を執られたのでした。

法華経二十八品のすべての文字を数えると約七万文字あるとされています。それだけの経典を読んで理解できるのはどうしても知識人に限られてしまいます。しかし、そのすべてを、日蓮大聖人は五字七字の題目に集約して現わしてくださいました。ここに哲学から信仰への偉大な展開があります。法華経は生命の真実を表現した偉大な生命哲学ですが、それを実際に自身の生命に顕現されるのが信仰の実践です。そしてそれは、自分自身の無限の可能性や、今世の使命への確信を高らかに謳い上げる自分の物語となります。

日蓮大聖人の法華経講義を弟子の日興上人が書き留められた「御義口伝」という御書があります。ここでは法華経二十八品の言々句々がすべて南無妙法蓮華経の題目に収まっていることを証明されています。例えば、如来寿量品第十六の自我偈の冒頭「自我得仏来」の講義では、「自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり、自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、(中略)今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云。」(御書全集756ページ)とあります。ここでは、「自我得仏来」の句が仏界即九界、十界互具といった生命哲学を表していることを述べると同時に、それが南無妙法蓮華経と唱えるときに自身に体現されるという信仰の法理が示されています。つまり、「御義口伝」は法華経二十八品の哲学と南無妙法蓮華経の信仰をつなぐインターフェイスと言えます。今日において池田先生は、『法華経の智慧』でさらに現代的にわかりやすく展開してくださっています。

 

仏法を展開する力と使命

 

信仰者としての生きざまという次元から言えば、哲学を学ぶことよりも純粋な信仰を貫くことのほうが人生において遥かに重要です。哲学を学ぼうとしてその結果、信仰が揺らいだり疎かになったりするぐらいならむしろ学ばないほうがよいし、そうなってしまうのは本物の哲学ではないのです。ですから、生哲の皆さんも自身の信仰を深め確立することを第一と考えていただきたいと思います。

そして、そのことを大前提として生哲の皆さんには、法華経の哲学を同時に学んでいただきたいのです。先ほども述べましたが、法華経普賢菩薩勧発品第二十八品には、迹化の菩薩のアンカーとして普賢菩薩が登場します。普賢菩薩には智慧の力で地涌の菩薩を守護する使命があります。二乗のように傲慢な英知ではなく、庶民を心から尊敬し、真心で尽くし抜いていくのです。庶民が蔑視されて心ない言葉を投げかけられるような時に、本当に英知ある人が防波堤になって守り抜かねばなりません。そのためにはただ感情的に戦う気の強さではなく、相手を納得させ、味方にしていけるだけの英知が必要です。それが庶民に尽くす本物の知識人の使命です。生哲の皆さんはまず地涌の菩薩としての生きざまを確立したうえで、普賢菩薩の使命をも併せ持つ人となっていただきたいと念願しています。

さらには同志を守り、同志が納得しながら朗らかに戦える環境をつくっていく使命や、社会の多様な思想信条の人々と対等に語り合い、友情を結んでいく使命、そういった使命を担う広宣流布のリーダーも、生哲の皆さんのなかから育っていくことを確信しています。そのためにどこまでも日々の御書研鑽に挑戦し、焦らず一歩ずつ成長していきたいものです。私もまだその途上です。皆さんと一緒に学び、成長していけたらと願っています。

 

2021.12.5 (創価大学生命哲学研究会50周年記念誌「伝燈者」Torchbearersより)


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