○半開化は衛生の害 明治十九年六月十三日大日本私立衛生会埼玉支会の第三総会[warichu]埼玉県入間郡川越町喜多院[/warichu]に於て 渡辺鼎君演術 諸君よ。私は今日此の大日本私立衛生会埼玉支会の第三総会に罷り出まして聊かお話しを致さうと思ひますが其の前に諸君に向ツて祝し且会頭及び幹事諸君に厚くお礼を陳べなければならぬことが御坐います。総て我々の健康と云ふものは実に必要なもので曾てウヰルダーと云ふ人が申した言葉に「健康は万福の基」之を英語で云へば[rrubi]ヘールス イズ ゼ フアウンデシヨン オブ オール ハツピネス[/rrubi]Health is the foudation of all happinessと云ふ語がありますが如何にも身体が健康でなければ幸福は得られぬもので其の健康を得やうとするには衛生が必要です。然るに今当路者が斯く衛生に注意せらるるのは実に有り難いことで此の近県の様子を見まするに此の埼玉県下は最も衛生が盛んにして浦和川越熊谷深谷行田到る所衛生会の声を聞くのみならず今日の如きも来会せらるる者一千余名もある様ですが斯く衛生の盛んなる有様を見るのは必竟当路者の尽力多きに居るものと思ひます。是れ私が当路者に謝し又諸君が斯る幸福なる県下に居らるることを賀する訳で御坐ります。 次で本題を陳べやうと思ひますが其の演説の前にモウ一つ諸君に向ツてお断り申すことがあります。其れは外でもありませぬが凡て話しと云ふものは何でもオモシロミが無いと脳髄に這入りませぬ。彼の欧羅巴の学者スペンサーが曾て申しましたに「何でも総ての事を能く覚え忘れずに保存するにはオモシロミが大切だ」と云ふことですが、これは実に千古の名言で支那の孔子ですら「之を好む者は之を楽しむ者に如かず」と申しました位で仮令むつかしいことを陳べても脳髄に這入らぬときは何にもなりませぬから私は極めて俗語で陳べます。併しあまり俗語すぎて高貴の諸君に向ツては不敬に存じますから此の段は何卒御海容を願ひます。 さて、これから半開化衛生上の害を述べやうと思ひますが凡て世の開化と云ふことは頗る良いことで必ず開化しなければならぬが併し物は一利一害で開化も亦開化の度に依ツて種々のよしあしが御坐います。試みに御覧なされ、私が今日数時間に東京より来て諸君に面会しお話しを致すことも出来、また諸君が東京より奏楽者を聘して奏楽をお聞きなさることも出来ると云ふのは何でありませう。必竟我が邦が開化して鉄道が出来た為めでありませう。又先刻坪井医学士が言ふた通り英吉利は衛生が進んで人民の死亡も少なくなツたと云ふのも即ち開化の為で、又独逸の或る都府に於てはこれまで大層チフスと云ふ病気があツた所が其の都府で下水を改良し水の[rrubi]はけ[/rrubi]通利を良くしてから其のチフス先生(先生ではない居候だ)悉皆なくなツてしまツて遂には同府の医学大学校で先生方が書生にチフスと云ふ病はかういふものだと云ふことを実地に就て説明する種が無くなツて先生方が大こまりだと云ふ(居候が無くなツて先生のこまるも無理はない)位なことで今では其の居候ではないチフス病を[rrubi]かね[/rrubi]鐘太鼓で探す程であると云ふが、これ則ち衛生の有り難い証拠で又開化の徳でありませう。此の県下で六伝染病中チフスの居候が最も沢山あると云ひますから下水流しなどの[rrubi]きたな[/rrubi]穢い所を掃除してプンとする鰯の頭や香の物のキレッパジ等を常に堆積せざる様に奇麗にして御覧なされ屹度チフスの居候が無くならうと思ひます。若しウソと思ふなら試みに二三年間もやツて御覧なされ必ず無くなること請け合ひます。又近くは我が陸軍や海軍で兵士の食物を改良し空気の[rrubi]さほり[/rrubi]通暢を善くし衛生に注意せらるるので兵士の病気が減じたと云ふも、これ皆開化の効能でありますが、これは開化のづツと進んだ所の話しで未だ斯の如き傷合に至らざる所謂半開化のときはドウかと云ツて見ると色々な害が有るものです。 さて其の半開化の害といふは先づ我が邦が開化に赴きし以来如何なるものが舶来したかと云ふに文武工商農等の必要なる学芸の輸入せしは勿論なれども之と共にコレラ痘瘡等の悪病より煙草、酒其の他の贅沢品も亦輸入いたしたでありませう。所で人間の性と云ふものは兎角便利な物を悦び奇麗な物を愛し、うまき物を[rrubi]す[/rrubi]好き[rrubi]らく[/rrubi]楽を慾するものでありますから(無くては大変だ)今欧米より種々の物の輸入するけども其の中で最も多く人の[rrubi]す[/rrubi]好くものは何かと云ふに先づ奇麗なものや便利なもの等であります。何となれば知識が無くても学問が無くても奇麗なものや便利なものを慾するのは自然の性です。御覧なされ今如何様な田舎に行ツても山奥を尋ねても熊の居らないではないザンギリアタマの無い所や蝙蝠傘を用ひない所は少ないと云ふは必竟これ等は便利であるからです。又田舎では以前は[rrubi]きぬさもの[/rrubi]絹衣などは絶て着るものが無かツたが比の節は開化して猫も[rrubi]しやくし[/rrubi]杓子も(と云ツて杓子の絹衣はまだ見ぬけれども)着て居ります。しかのみならず人力車が出来ればムヤミに乗り散らし、日曜日と云ツては休み、盆だと云ツては休み、実にはヤ勝手至極な結構な世の中になりましたが併し私も絹衣を着し休日に休むといふことを[rrubi]あながち[/rrubi]強ち悪く言ふのではありませぬが斯の如く贅沢を行ふ人がドウいふ芸術が出来てドウいふ働きをするかと云ふに芸術の点に至ツては誠にはヤお恥かしき次第にて仮名つき新聞も満足には読み下すことも出来ぬくせに忽ち学者ぶりて働くことを嫌ひ、田畑があツても耕すことを厭ひ、余地があツても桑を植え蠶を養ふの利益をも考へず、ただ権利とか自由とか聞きかぢりの不理屈を唱ひ父兄の言ふことをも用ひずして酒を呑み煙草を喫し無益の美服を飾り放蕩を極め身を過まり家を亡ぼし遂には獄内に籠城するか又はモルヒネ往生等に極を結ぶ者多くあります。是れ則ち半開化の害でありませう。 されば私は尚ほ一層進んで其の害を詳論しやうと思ひますが例へば今茲に種々の色を着けたる張り子の虎とダイヤモンドを出して三歳の童子に示さば童子は必ずダイヤモンドを捨て張り子の虎を取りませう。又諸君が田舎に於て[rrubi]まツか[/rrubi]真赤に塗りたる寺院を見るか又東京に於ても支那の行使館の門を見られたならば必ず古代未開時の風たるを覚らるるでありませう。又緋縅の鎧や天保銭や丸髷島田を御覧のときは又未開化人の用ゆるものたるを知られませう。故に概して言ふときは半開化人の好むものは恰も三歳の童子が物品を選ぶと同じことで、ただチョット見つきの良きものを悦ぶのみで衛生上のことなどは夢にも考へませぬ。我が邦に行はるる人力車の如きも其れと同じことでチョット便利なものですからヤタラに乗る故に年々歳々増加して現今では津々浦々実に米の飯は食わない所があツても人力車の無き所は無い位で其の数は実に夥しきものです。則ち明治十一年には人力車の数十四万二千五百七十二でありましたが十三年には十五万七千十八個となり現今では二十万余となツて居りませう。所で、この人力車がドウいふ利益があるかと云ふに如何にも商業上其の他のことで至急を要する場合に於ては随分大いなる利益のあることもありませうが現今に至ツては非常に濫用の弊を生じて斯の如き必要の場合にのみ使用せずして事の緩急に拘らず道の遠近を論せず乗り回る様になり甚しきに至ツては終日安居する人にして日々幾分かの運動を要する人の散歩するに方ツて尚ほ人力車を用るあり、或は又運動を必要とする男女学校生徒にして僅か近傍の学校に通学するに必ず乗車せしむるあり。斯の如く人力車濫用の弊たる我が邦人をして暗々裏に健康を害すること頗る大いなるものと思ひます。所で斯く人力車濫用の弊を生したる所以を考るに其の原因となるべきもの種々ありますが第一市中を往来するに人力車に乗らざるときは貧乏視せらるるとか或は軽蔑せらるるとか思ふ所の卑屈心を生ぜしめたるは原因の一です。なぜなれば紳士貴女などが運動の為めと思ツて徒歩にて市中に出るときは人之を見て某はこの暑いのに人力にも乗らないで、あるいて居るケチなヤツだなどと評するもの往々あります。故にこれ等の人はイヤでもオーでも門外に出るには必ず車に乗る様になり斯の如き人々が乗車するときは上の好む所下之に習ふは古今の通例なれば中以下のものは無理にも乗車して上等社会をまねる様になツたのです。第二は身体運動は衛生上に必要なものと云ふことを知らざる野蛮人の多きと我が邦人民の身体の[rrubi]あたひ[/rrubi]価直の廉なるとは原因の二です。第三は衣服の歩行に適せざることです。諸君試みに御覧なされ和服を着て歩行するときは[rrubi]すそ[/rrubi]裾は常に[rrubi]すね[/rrubi]脛脚にからまり木履はポクリポクリして忽ち足を疲らし殊に婦人の如きは裾の方には綿を入るること恰も飾り餅を付けたるが如く左右には長き贅沢ぶくろを下げ背には大いなる文庫を背負ひ足には俎板然たる木履を穿ち、おまけに頭にはパクパクして[rrubi]ひきかへる[/rrubi]蝦蟇の様な島田や[rrubi]なべぶた[/rrubi]鍋蓋の如き丸髷を頂き居りて運動の自由ならざるは則ち原因の三です。比の如き種々の原因よりして人力車濫用の弊を生じ来り三助でもオサンドンでもダルマでもムヤミヤタラに乗りあるき、殊に甚だしき濫用と申すは例へば茲に一の[rrubi]ひまじん[/rrubi]閑人あり今日の午后六時に番町より神田に行くべき用事あるに当ツて午后四時頃より家を出るときは充分先方に達し得べきに左なくしてナニ人力にて行くときは三十分にて行けると云ひながら安閑として囲碁や将棋を弄び何の益もなきのみならず衛生に害ある囲碁等にワザと時間を空費し無理に人力に乗るとは実にハヤ濫用の極と云はなければなりますまい。所で私が斯く濫用と申す証拠には日本の人力車は大約二十万にして之を全国の人員に比例して見ると人民百八十五人に付き人力車一つな割合にして一千人に付き五個四の比例です。而して欧米の馬車の数は何程あると云ふに英国に於ては一千八百三十年に於ては車数八千五百六十にして人民千人に付き五個の割合、一千八百八十年に於ては四十六万三千個にして一千人に付き十五個の割合です。之を以て見れば欧米に在て車の比例は日本より素より多いなれども欧米に在ては非常に時間を貴び鉄道のステーションに於ても五分も待ツて居るときは人皆な之を笑ふ位の忙しき所にて日本にては五分はオロカ一時間も前からステーションに詰めかけ待ツて居る位の緩慢なる人物が多きにも拘らず一千人に付き五個の人力車あるときは非常の多数にしてツマリ濫用の多きシルシでありませう。されば人力車濫用の弊たるや国民衛生上頗る有害なることで又人力車夫自身の健康上に至ツては更に一層の危害あるものです。諸君御覧なされ、人力車夫の業たるや農工商等の如く時を定めて営業すること少なくして炎暑厳寒を厭わず疾駆し風雨を論ぜず奔走し昼は炎天にさらし夜は湿気に触れ漸く提燈を股に狭んでウタタネし時ならざるに食ひ時ならざるに飲み昼夜寤寐を分たず実に人間たるものの得て為すべき業に非ず犬馬の業と云はなければなりますまい。さて営業既に斯の如くなるが故に胃病を起し心臓病を起し肺病に罹り其の他種々の病を発してワカジニするもの頗る多くありますが曽て英国ロンドンのドクトルフュート氏は汽車の連乗に由ツて心臓の衰弱を起し婦人に在てはヒステリ症(俗に血の道)を発することを論じましたが乗車する人ですら斯の如く心臓病を発するでありませう。況んや之を引き疾駆するものに於ては一層の劇症を発す可きは当然のことでありませう。現に人力車夫に頓死者の多きは諸君も既に御承知のことでせうが是れ必竟努力疾行するに由ツて心臓病を発するが為めです。然るに如何なる者が之を営業するかと云ふに先づ二十歳以上四十歳以下のものにして随分他に立派な業を営み得べき屈撓な壮年男子です。然るに斯の如く犬馬同様の業を営み[rrubi]しんぞ[/rrubi]新造病否心臓病等に罹りワカジニするとは真にハヤ憫然の至りでありませう。併し斯の如く有害なるにも拘はらず日に月に多きを加ふるに至りし所以のものは必竟前に申した通り人力車濫用の弊を生ぜしに因るものにしてツマリ人民が人力車のただチョット便利と云ふことを知ツて緊要なる衛生上の害を知らぬ所から出来たものにして則ち半開化の害でありませう。所でこの人力車を廃して馬車なり何なり拵へて御覧なされ人力車を業として居る二十余万の人は犬馬の如き業を廃し国益となるべき立派な他の業を営むことも出来ませう。又従ツて二十余万の人の健康を害することも大いに減じませう。されば人力車を廃して馬車に代るは頗る緊要なことで日本もモウ少し文明が進歩し人智が開けて来たならば斯の如き犬馬同様の業を営むものは自から減少して来ませう。故に私は人力車や丸髷島田の増減は日本男女の文明如何を卜するに足るものと思ひます。諸君如何です。 さて斯の如き類を挙げますれば沢山ありて一朝一夕に論じ尽すことは容易でありませぬから大概にして止めやうと思ひますがツマリ我が邦今日の有様は未だ半開化の人物が多く文明の何たるを知らずして所謂五里霧中にさまよひ居るときですから之をして進ましめやうとするも将た退かしめやうとするも偏に先覚者の方寸にあることです。先覚者たる者は能く事物の是非を淘汰し健康に害あるものは速に之を除き、益あるものは[rrubi]つと[/rrubi]力めて之を奨励し以て我が国民の健康を満足せしめむとするは則ち先覚者の義務です。実に我が邦は内地雑居の大役が前途に横たはツて居るし、食物や家屋や人力車の濫用や丸髷島田の窮屈髷や長袖広帯のナマケ服など共に皆改むべきの最も急務なるものです。今にして之を改めなければ後年必ず測るべからざるの惨状を醸すに至りませう。古語に日く「木静ならむと慾して風未だ止まず」とやら改良の必要蓋し今日に在ることでありませう。 伊藤新太郎筆記