○地球の位置 明治十八年三月二十一日理医学講談社[warichu]東京神田区錦町東京大学講義室[/warichu]に於て 寺島壽君講談 諸君。[rrubi]。。。。。。。。。[/rrubi]我々はどこに居るかかういふ問題をかけましたら「[rrubi]ざうさ[/rrubi]造作もない問題だ、誰でも答へが出来る」と言はるるで御坐いませう。成るほど一応は御尤で有ります。併し神保町の車屋でも呼んで来て「貴様どこだ」と聞いたら「神保町だ」と言ふで御坐いませう。「神保町はどこの中だ」と聞いたら「神田だ」と答へ「神田はどこの中だ」と聞いたら「東京」「東京はどこの中だ」と聞いたら「日本」「日本はどこの中だ」と言つたら車屋[rrubi]ぐらい[/rrubi]位では答へは出来ないかも知れない。[warichu]〔聴衆拍手喝采〕[/warichu]小学校へでも参つたことの有るものなら「日本は亜細亜の中だ」「亜細亜は」と言ツたら「亜細亜は地球の表面の一部だ」と言ふで有りませう。そこで其れから先「地球は何の一部だ」と問ひ詰められると分かるものが半分、知らないものが半分かも知れませぬ。さりながら人間の物知りたがりには限りの無いもので其れから其れへと知りたいのは慾心で唯今久原[warichu]〔躬弦〕[/warichu]君の講義[warichu]〔塩と砂糖〕[/warichu]にも有りました通り「砂糖と云ふものは何の中だ」と言ツたら「含水炭素の中」「含水炭素は何の中か」と言ツたら「有機物」「有機物は何の中か」と言ツたら「化合物」「化合物は何だ」と言ふに「物質の中」「物質とは何だ」と言ふとここでむづかしくなる。物質とはドンナものと言ふことは本当に知ツて居る人は恐らく有りますまい。実に其れまでも知りたい[rrubi]わけ[/rrubi]訳ですが中々今の有様では知れないから先づ其れまでいツたら、我々の物知りたがりも暫く満足せねばならないです。「地球は何の中か」といふ問題も其れと同じ様に段々とおしつめてモウこれから先きは今日の学問の有様では分からない所まではいきたいものです。このことについて私が知ツて居るだけを今日諸君に御話しをしようと思ひます。私が「地球の位置」と題をつけて致します演説は先づ今申しました位を目的と致しますことで御座います。追々お話しします中に問題の趣意もよく分りませう。 話しをあとに戻しまして日本は亜細亜の中、亜細亜は地球の中と云ふことが有りましたが、さういふことを調べるは何と言ふ学問かと云ふに、地理学と言ツて大層大事な学問で有ります。併し其れは私の目的で有りませぬから、地理学の初歩は御存じと見做して別に今日は地理学のことは御話し申しませぬ。「亜細亜から欧羅巴へはドウ往く」「日本から亜米利加へ往くにはドンナ海がある」などいふことは諸君が既に御存じのことと看做しませう。私は唯其れから先のことをお話しします積もりで有りますが其れに付てはちょとお話しをしておかねばならないことが有ります。其れは地球の大きさのことで御坐います。 地球は我々の[rrubi]からだ[/rrubi]身体に[rrubi]くら[/rrubi]比べると非常に大きなものです。我々の住ツて居る都府、我々の住つて居る国などに比べても随分大きい。さりながら考へた程大きいものでは無い、至ツて小さいものと私は申します。[rrubi]さしわたし[/rrubi]直径は一番大きい処で僅か日本の三千二百四十八里と四分の一で一番小さい所は三千二百三十七里と八分の一です。其れで地球は立派な球では無い、ひツこんだ所とふくれた所が有ります。そこで直径を知ツて居りますと幾何学を少しやツた人は直に[rrubi]まはり[/rrubi]周囲を知ることが出来ませう。地球の[rrubi]まはり[/rrubi]周囲を測ツて見ますと長い所が僅か一万二百五里ほかない。私は僅かだと申しました。なぜだといふに比の位の距離は僅かの間に通ることの出来るものです。昔はさうでは有りませぬが今日ではまごついて二三千里位のむだ足はしても僅か八十日間か百日で地球を一周することが出来ます。して見れば地球は実に小さいものと言はなければならないで御坐います。[warichu]〔聴衆拍手喝采〕[/warichu] これが我々の住ツて居る場所で有ります。この住ツて居る場所は円いものでタカの知れたハバの見えたもので我々の住ツて居る所で無いものは何と言ふものかと云ふに天と言ひます。さて天と言ふものは広大無辺なもので地球をグルリと取りまはして居て其の中に地球はボンヤリして居るもので実に心細いもので有りまする。[warichu]〔聴衆拍手喝采〕[/warichu]で有りまするからして学者が天のことを調べます[rrubi]ついで[/rrubi]序に我々には天の中で別にツレは有るまいか[rrubi]どし[/rrubi]同士は有るまいかと云ふことに自然と眼が着きます。併し若しも我々が非常に近眼で五里か十里先きのものが見えなかつたら地球の外にドンナものが有るか一向分からないで有りませうが幸に我々は眼が随分遠くききます。殊に物理学の進歩してから眼が益々遠ぎきする様になりまして我々の世界の外にも別に之に似たものが有るといふことが知れる様になりましたから先づ其れからお話し致しませう。天の中にありて一番我々の眼に着くものは太陽、月、星、アマノガハなどであります。その中一番近いのは月で有ります。この月といふものは望遠鏡の開けます余ほど前からして円いもので時としては[rrubi]か[/rrubi]虧けたり時としては[rrubi]み[/rrubi]満ちたりするもので有ると云ふことは知れて居ましたが昔の人の知ツて居ツたのは先づ其の位なものです。其れから望遠鏡で月を見ると中々妙なもので肉眼で見ては唯ボンヤリして何だか分らず俗に兎が餅を搗くのだと言ひます。処が余程はツきり見えまして全く高い山や深い谷などで有ります。山だの川だの谷だの岡だのは地理書に有ることで地理書とは地球の学問だと思ツて居たに月の表面にも山だの谷だのが有るからは月が地球と似たものでは有るまいか、第一番に地球の様に円い、其れに谷だの山だのが有る処がよく似て居る、其れでは大きさはどの位だらうと云ふと、これは其の遠さが知れない間は分かりませぬ。總て物は同じ大きさに見えても大きくて遠いものもあれば小さくて近いのも有るから唯見た計りでは大きい小さいの論は立ちませぬから先づ距離を測るのが第一番のことで有ります。 そこで月までの距離はと言ふと現に既に測量して有ります。測量をしますとはドンナことかと言ひますと地球の中心から月の中心まで何里あると云ふことを調べるので有ります。「ドウして其れが知れるだらう、物さしをあてたり[rrubi]けんなわ[/rrubi]間縄を打ツたりする訳にはいくまいが」と疑ふ人が有ります。併し測量術を少し心得て居るなら分かります。地球上で測量をしますにも十里も二十里も先を一々間縄を打ツたり足ぶみをして調べはしませぬ。唯最初の一箇所だけを[rrubi]ぢか[/rrubi]直に測りまして、あとは器械で角度と云ふものを測り三角と云ふものを作りまして三角から三角に移り次第に先へ進んでドンナに遠い所までも測量致します。そこで地球と月とありますに地球の表面に於て二箇所の点を取りまして先づ精密に其の距離を測りまして其れから先きは地球の上で或る距離を測る時の通りに例の角度で月までの距離を測り出します。随分此の測量はむつかしいが天文学の測量の中ではこれが最も精密に出来るもので有ります。さてこの測量の結果はと云ふと地球の中心から月の中心までの距離が日本の里数で九万七千五百里です。九万七千五百里と云ツては数が余り大き過ぎて[rrubi]けんたう[/rrubi]見当がつけにくいから天文学者が物さしを替へます。物さしを替へると云ふのは例へば糸などの長さを測りまして此の糸は八寸だと言へば、どの位の長さと云ふことがよく[rrubi]わか[/rrubi]分かる、けれどもちツと長いものになりますと、寸で測ツては[rrubi]ま[/rrubi]間に合はない。例へばこれから本郷までは九万七千五百寸あるなどと言ツては、どの位の距離だか少しも分らない。だから寸や尺で[rrubi]ま[/rrubi]間に合はない処は[rrubi]けん[/rrubi]間で測り、[rrubi]けん[/rrubi]間で[rrubi]ま[/rrubi]間に合はなけりゃ[rrubi]ちやう[/rrubi]町、町が小さすぎれば[rrubi]り[/rrubi]里と段々に物さしを大きくして参ります。さて地球から月までの距離を唱へるには里でも[rrubi]ま[/rrubi]間に合ひかねるから物さしをズット大きくして地球の[rrubi]さしわたし[/rrubi]直径を物さしにします。さうするとこの距離は三十と云ふ数になります、即ち地球の直径の三十倍ほどで有ります。 してこの距離が分りました上は其の大きさは容易に勘定が出来ます。月の大きさは地球よりは小さい。地球はさツき申しました通り其の直径三千二百四十八里で有りますが月の直径は八百八十七里ほか有りませぬ。其れ故に地球の直径十一分の三、即ち地球の直径を十一に割ツて其の三つにほか当りませぬ。そこでザット地球と月との位置を[rrubi]くら[/rrubi]比べて見ますと直径一寸の玉を拵へまして其れを地球の雛形にすると其の玉から三尺離して直径二分七厘の玉をおきましたのが月の雛形になります。 距離も随分遠く大きさも[rrubi]だいぶ[/rrubi]大分違ひますが兎も角も月は地球の党類には違ひないです。党類であるのみならず地球のグルリを回ツて居ります。地球が[rrubi]まんなか[/rrubi]真中にチャンとして居ツて月が其グルリを[rrubi]めぐ[/rrubi]旋ツて居ります。して見ると月は[rrubi]ふんみやう[/rrubi]分明に地球の眷属、地球の家来に違ひ無いです。月の上には山も有り谷も有りますから水も有り空気も有り海も有り川も有りますかと云ふに不幸にして其れは有りませぬ。若し有りましても分量が甚だ[rrubi]すくな[/rrubi]少くて迚も我々の測量に届かないです。其れでは月の世界には。人間みた様なものは有るであらうかドウであらう。其れは出さなくてもよい問題で有ります。毎度この席で化学の講談が有りますから諸君は定めて記憶して居らるるで有りませうが空気と水が無くては人間の生活は出来ませぬ。月には空気もなく水もない以上は人間は居る気づかは無い。尤も全く無い訳ではなく少し位は有るかも知れませぬから事によツたら下等の動物[rrubi]ぐらい[/rrubi]位は居るかも知れませぬ。けれども我々みた様なものは居ない。して見ると我々の家来の月は形から大きさもよく地球に似たもので有りますが其の表面に我々の党類は住ツて居ない、申さば[rrubi]あ[/rrubi]明き[rrubi]や[/rrubi]家みた様なもので有ります。 先づ此の位で月のお話しはおきまして此の外に何ぞ地球の近所に居るものが有るか知らんと言ひますと我々の目につくものは太陽で有ります。太陽は距離を精密に測量することの出来るものの中にはいツて居ます。併し月の距離の様にやさしくは有りませぬが測量の出来ないことは有りませぬ。今日の所でも三千七百八十五万里余といふことは知れて居ます。箇様に夥しい距離に居ながら月と同じ位に見えます。して見ると非常に大きいものに違ひない。現に勘定して見ますと直径は三十五万二千六百二十三里で地球の直径の百八倍半ほど有ります。さツきの一寸の玉を地球の雛形としまして太陽の雛形はドンナものであらうといふと一丈一尺ばかりの玉を三丁半の距離に置いたのが太陽になります。一寸の玉は手の指ででもまはりますが一丈一尺の玉は両手でも抱きまはすことは出来ませぬ。同じ大きさに見えても月と太陽は非常な違ひで月は地球より小さいけれど太陽の方は地球よりも[rrubi]はるか[/rrubi]遥に大きい。其れのみならず月が地球のグルリを回ツて居ると同様に太陽のグルリを地球が始終グルグルと回ツて居る。さうすると我々はモウ威張れない。[warichu]〔聴衆笑ヲ含ム〕[/warichu]今までは月を付属にして居ツたが今度は我々が太陽の家来と言はざるを得んです。[warichu]〔聴衆拍手喝采〕[/warichu] 太陽と云ふものは非常に明るい非常に熱いもので、よく調べて見ますと凡そ地球の上にあらゆる光りと熱は直接に太陽から来ないまでで皆間接に太陽から来て居るので有ります。ここに[rrubi]とぼ[/rrubi]燭しますラムプも、そこでたいてありますストーヴも皆太陽がたいてくれるので有ります。又我々が手を動かすも足を動かすも皆太陽が動かしてくれるので有ります。此のことはこの理医学講談会に[rrubi]つづ[/rrubi]続いてお出でになるお方は忘れてお出でにはありますまい、即ちStephensonが「蒸気車の走るのは太陽が動かすのだ」と言ツたと云ふことを桜井[warichu]〔錠二〕[/warichu]先生が講談になりました。其れが私の今申しましたことと同じ趣意で御坐います。して見ると太陽は我々の為めの生活の根元で有りまして随分主人親分と貴んでも我々は恥じる所は有りませぬ。 そこで太陽のグルリを、地球が回ツて居る、其の一遍回ツて元の所へ来ます間が即ち一年と言ふもので有ります。そこで太陽が地球を引きつれて居るばかりで外に地球のツレは無いか、地球は月といふ僕とタッタ[rrubi]ふたり[/rrubi]二人づれで毎年太陽のグルリを旅行する[rrubi]わけ[/rrubi]訳のものか、これは調べなければならない。然るに近頃地球の同士が沢山あるといふことが発見になりました、其の地球の同士は学者は其れを惑星と名づけまする。いくらも有りますが最も名高くて諸君の御存じのは西郷星で有ります。[warichu]〔聴衆笑フ〕[/warichu]西郷星とは一時の名で実は蛍惑星とも火星とも言ひます。肉眼で見ますと赤い星で時としては同し所にジッとして時としては非常に早く動く星です。支那人は之をひどく恐れまして蛍惑がどこそこに来ると、どこそこに災か起るなどと言ツて恐れたもので有ります。其れから[rrubi]よひ[/rrubi]宵の明星或は[rrubi]あけ[/rrubi]明の明星とも云ふ星で有ります。これは太白星とも長庚星とも言ひ或は金星とも言ひます。昔し或る唐人が母の胎内に居るとき此の母が長庚星が懐に這入ると云ふ夢を見たので生れた子の名を[rrubi]はく[/rrubi]白とつけ[rrubi]あざな[/rrubi]字は[rrubi]たいはく[/rrubi]太白と言ツて酒飲みの詩人で世に知られた人で有ります。併しコンナむづかしいことを言はなくツても諸君が御承知の山陽の詩に「太白当舟明似月」と云ふのが此の星のことで御坐います。[warichu]〔聴衆拍手喝采〕[/warichu]其れからまだ辰星と申しまして太陽のソバに居て滅多に離れない太陽の秘蔵子、太陽のおそばさらずが有ります。此の星を水星とも申します。次に木星と言ふ星が有りますが、これは歳星とも唱へます。支那では昔貴まれたもので、正月元日の或る時刻に此の星の居る方をあき方とか何とか唱へて賞翫したものです。これが木星で其の次ぎは填星一名土星と言ひます。これは運動が随分のろい、支那は物の優美を貴む国で有りますから大層此の星を珍重しました。[warichu]〔聴衆拍手喝采〕[/warichu]肉眼で見ましては木星に少し小さい位ですが望遠鏡で見ますと其のグルリに[rrubi]つば[/rrubi]鍔が有ります、丁度鉛の玉のグルリに剣術の竹刀の鍔でもつけた様に見えるもので有ります。これだけが昔し五星と言ツたもので有ります。其の後ち天王星、海王星と言ふものが発見になりましたが其れの中に一つはヤット肉眼で見えるといふまでで今一つは望遠鏡で無ければ見えませぬ。此の外にもまだ有りますが此の位でおいて外のことに移りませう。 今までお話ししました星の中で一番我々のよく観測の出来ます星は火星即ち螢惑星で有ります。矢張り太陽のグルリを回ツて居る星で地球と同様に自分には明りを持たないで太陽の明りを借りて照ツて居ります。所で此の星は地球の軌道の外を通ツて大陽を[rrubi]めぐ[/rrubi]繞ツて居ますから若し太陽の向ふの方に此の星が居る時には大陽のソバに見ゆるもので有りますから距離が遠い時である上にまぼしくて見にくいですが之と替ツて地球が此の星と太陽との間にはいりますと此の星の距離が非常に近くなる上に丁度大陽の光をマトモに受けて満月の様に見ゆるので余程よく其の表面を観測することが出来る。天文学者が知ツて居るものの中で月が一番よく知れ其の次ぎは火星で有ります。さて火星の表面にも山が有り谷が有るかと云ふに月の様に精密には知れない。併し海も有り陸も有ることは確に知れて居るです。月の観測の時には海は無いと云ふことを申しましたが火星を見ますと陸も有れば海も有る、海が有れば蒸発気が有るから雲も有る訳です、又現に有るです。雲が有る位だから空気も有る。又地球に似て南極北極と云ふものが有り此の南極北極には時候の如何に抱はらずいつも氷がはりつめて居ます。これなぞは全く地球と同じ事です。其れから火星と云ふ惑星の大きさはどの位かと言ひますと地球よりは少し小さい。小さいと云ツても月と地球との割り合ひ程では無い、月よりは大きい、直径が地球の半分よりは大きいです。前にも言ひました通り此の星も同しく太陽のまはりを回ツて居りまして地球が内の方を回ツて居ますと火星が外を回ツて居ますこれが我々の第二の道づれで有ります。 道づれどこでは無い今言ツた通り火星は全く地球に似た星で有りますから地球には人間などが居ると反対して若し火星の表面に動物が無かツたら其れの方か却ツて不思議で有ります。全く動物植物の生活の出来るのは空気が有ツたり水が有ツたり其の外の色々のものが有ツたりするからです。然るにそんなものはソックリ火星の表面に有るからしては必ず動物植物などもソックリ有るに違ひない。其れに若しも無ければ其れの方が却ツて解しにくい。そこで地球の表面に我々の住ツて居ると同様に火星の表面の上にも人間か人間の様なものが住ツて居るに違ひ無い。天文学の開けない時分には人間は高慢で日も月も地球のグルリを回ツて居る、動物は地球の表面にしか居ない、智慧と言ものは人間よりほかは持たない、人間の上は[rrubi]すぐ[/rrubi]直に神だと思ツて居りましたが今では外の世界にも人民のある事が知れた。して見れば外の世界にはどれだけ人間世界より進んだものが有るかも知れない。段々と想像を回らして見るとハテシが無い位で有ります。今日理学や其の外の学問をする人が満足する有様に至らないので追々開化が進んだら黄金世界になると云ツて楽んで居る人が有りますが其の黄金世界に既になツて居る所が有るかも知れない。[warichu]〔聴衆拍手喝采〕[/warichu]条約書に一筆加へたとか加へなんだとか消したとか消さないとか子供の水懸論の様なことをして[rrubi]はて[/rrubi]果は大戦争に及ぶと云ふ様なことなぞは火星の表面の上には無いかも知れない。[warichu]〔聴衆拍手喝采〕[/warichu]併し事によツたら火星の住民はズット野蛮で有るかも知れませぬが、さうしたら金星か其の外にズット進んだのが有るに違ひ有りませぬ。 そこで其の通りにイクラも地球の仲間が有ると云ふことを申し上げましたが其の中太陽から測りますと地球より遠いものも有れば近いものも有り、内の方を通ツて居るものも有り外の方を通ツて居るものも有る。一番遠方に居るのが海王星で十一億三千七百万里で有ります。そんな大きな数を持ち出しても例の通り見当が分り兼ねますから雛形を以て解き明しませう。先づさツき申しました直径一寸の玉を地球の雛形とし一丈一尺の玉を太陽の雛形とします。さうすると一番近い星即ち水星は距離が一丁と十五間で[rrubi]さしわたし[/rrubi]直径が三分七厘少し余で有ります。即ち三分七厘余の玉を一丁十五間の所に、置いたのが水星の雛形になります。其の次ぎは宵の明星即ち金星で有ります。これは距離は二丁と二十間で地球より少し小さいですけれども、大凡は地球と同じと言ツても宜しい。其の次ぎは地球で有ります。これは三丁半、半は少し大げさで其の実は三丁と十四間程で大きさは即ち一寸の玉。其の次ぎが蛍惑星即ち火星で太陽の雛形から四丁と五十五間先づザット六丁の処に五分三厘に足りない玉が有るのが火星の雛形で有ります。これまでは皆地球よりは小さいか大凡同し位の球で同し親類と看做せば看做すことの出来るもので有ります。火星から木星に移る間に距離が離れて来ます。其の間に非常に小さな惑星が有ります。其の数は夥しいことで今日まで発見になりましたのだけが二百いくつと云ふ程ありますが其れでおしまひでは無い、化学の元素よりは甚だしく毎年いくつも発見されますから今日申した数が明日はウソになりますかも知れませぬ。其れから木星は十七丁の距離に在りまして太陽を一丈一尺とすると木星は一尺一寸あります、直径が太陽の十分の一ありまして地球からの距離は太陽よりは余程遠い。其の次ぎに土星は三十一丁の所で木星より小さい、[rrubi]ほとん[/rrubi]幾ど九寸三分程で有ります。其の次ぎが天王星、これは三寸八九分の玉で距離は一里二十六丁の処にあり、海王星は三寸八分の球で大陽を距ること二里二十五丁幾ど三里で有ります。 地球の雛形の一寸の玉を太陽の雛形一尺一寸ばかりの玉より三丁と十四間ほど離すと見れば海王星は本郷よりも王子よりもズット遠くの処に置かなければならない、其れだから其の雛形をここへ持ツて来ることが出来なかツたので有ります[warichu]〔聴衆大ニ笑フ〕[/warichu]実に此の世界は広いもの(此の世界とは皆なを概した世界で)其れに[rrubi]くら[/rrubi]比べると地球は誠に小さいものだ。周囲が僅か一万里ばかりと申しましたのはここです。私は大きなことが言ひたいから一万里を小さいと言ツたのでは無い、海王星の距離などに比べると実に言ふに足らぬ位だから小さいと言ツたので有ります。[warichu]〔聴衆拍手喝采〕[/warichu] 其れでは太陽からして海王星までの距離は夥しいかと云ふに、さう言へない場合が出て来ます。其れは跡でお話ししませう。 今まで申したことをつづめて申しますと太陽は大きい熱い明るい玉で其のグルリを惑星と言ふ世界が回ツて居る。或は遠く或は遅く或は早く運動しますがいづれも自分で熱や光りを持たない、皆太陽から[rrubi]しおく[/rrubi]仕送りをして貰ツて居るのです。例ヘば太陽は一軒の[rrubi]あるじ[/rrubi]主であツて、あとのものは其の子供だとすれば月は地球の眷属で太陽の孫で有ります。地球の外にも眷属を持ツた惑星が有るかと云ふに随分有る。先づ第一に火星には二つほど眷属が有る、二つほど月をみた様なものが有る、其れは衛星と言ひます。これは近頃亜米利加のワシントンの天象台の教師[rrubi]アザフホール[/rrubi]Asaph Hallと言ふ人が発見いたしました。次ぎに木星には月の様なものが四つついて居る。望遠鏡で木星を見ますとドンナけちな望遠鏡でも星の[rrubi]まんなか[/rrubi]真中の所に筋の様なものが見えます、丸に一文字の紋所とでもいふべき形に見えます。此の筋と同じ向に彼の四つの衛生が時としては玉を並べた様に四つとも一直線に見えます。其の次ぎには土星これは余程贅沢な星で[warichu]〔聴衆笑ヲ含ム〕[/warichu]八つほど眷属を引きつれて居ります。次ぎに天王星海王星これにも眷属が沢山ありませうが天王星に四つ海王星に一つしか見えませぬ。大陽は[rrubi]おやぢ[/rrubi]親父で惑星は[rrubi]こ[/rrubi]子、衛星は[rrubi]まご[/rrubi]孫であります。其の中で地球は第何番の子だと云ふことも知れました。此の家内のことを總称して大陽系と言ひます。系は系図の系の字で有りまして私が親子眷属に譬へましたのは決して無理では無い[rrubi]ひと[/rrubi]他人が太陽系と付けましたのも私の言ツた通りの訳柄だからで有ります。」さてこれでズット前に言ひました「地球は何の中であるか」といふ問に対して「太陽系の中である、地球は太陽の眷属の一人である」といふ答へが出来ました。 これから先きがむつかしくなる。「太陽系は何の中か」と言ひますに先づ第一に我々の地球などに比べると夥しい大いもので有りますが矢張り近所に同士が有るであらうか、まるで世界の中に孤立して居て外に党類は有るまいかと云ふに天の中には日と月と惑星と其外に星と言ふものが有る。先づ星と言ふものは大事のもので天文学のことを星学と言ふ位で有りますから星のことを言はなければなりませぬ。さて星が我々の太陽の様なものでは無からうかと云ふ疑ひが起る。これは誰でもかう疑ふことです。(尤もこの誰でもとは、どの学者でもと云ふことで有ります)学者の眼から見ると惑星が地球の党類で有ると同様に星が太陽の党類では有るまいかと考へます。併し[rrubi]しろうと[/rrubi]素人は其れにしては星は余り小さいと言ひます。小さいとは眼で見て小さいので眼で見て小さいのが果して小さいので有るかドウか分からない。家根の上から下をあるく人を見れば小さい、山の上から人のあるくのを見れば、まるで蟻のはふ様に見える、其れだから人は小さいと言ツたらドウでせう。[warichu]〔聴衆拍手喝采〕[/warichu]遠い所に居るのだから小さく見えても実は非常に大きいかも知れない、大きい小さいの争ひは例の距離の知れた上でなければ論にならない。[warichu]〔聴衆拍手喝采〕[/warichu]星の距離は月の距離を測りますのから見ますと余ほどむつかしくなります。第一今度は物さしが地球の直径ではいけなくなります。三千二百里も有る物さしが最早[rrubi]ま[/rrubi]間に合はなくなツて来ますからモウ少し大きい物さしでなければなりませぬ。今度の物さしは地球の太陽のグルリを回る軌道の半径即ち地球と太陽の距離を取りませう。此の物さしの両端から測量して見ても大かたの星の距離は大き過ぎて測量することが出来ませぬ。先づ今日までに知れて居ります距離の中で一番近いのが今の物さしの二十二万千八百倍で有ります。地球から太陽までの距離が三千七百八十五万里で随分大きなものですが、こんな大きな物さしを工夫して見ましても二十二万などといふ大きな数が出ます。さツきの雛形を用ひますと海王星を太陽から三里ばかりの所へ置きまして此の星をば一万九千九百里ばかりの所に置かなければなりませぬ。こんな長い距離は地球をグルッと回ツても有りませぬ。して見ると云ふと此の一番近い星まで往くには非常な距離を通らねばなりませぬ。箇様に遠くに居るから、あの通りによく見ゆるからしては余程明るいもので、あんなに小さく見えても実は非常に大きく無ければならないと云ふことが分ツて参ります。現に此の割り合ひによツて見ますと我々に見ゆる星は中には太陽よりは小さいのも有りませうが太陽より大きいのも有りますか知れませぬ。 此の一番太陽に近い星は何で有るかといふに不幸にして東京からは見えませぬ。其れは[rrubi]アルフア セントーリー[/rrubi]α Centauriといふ星で有りますが其れは鹿児島辺か高知辺からは見ゆる星で八月の頃、宵の中にチョイと出て、やがてひツこむ星で有ります。これが一番近い星で有りますが近いと云ツても随分遠い。モウ一つは白鳥宮といふ所の六十一号の星で今申した星から見ますと三倍ばかりも距離が遠い。此の様に遠い距離になりますと雛形でもおツつかなくなりズット気張ツた物さしにしましても余り大きい数になりますから星学者は広大無辺の物さしを作ります。其れは何で有るかと云ふと[rrubi]あか[/rrubi]明りの一秒時間に行く距離です、明りの行くのはいくらか時を費します、若し時間を費さないで行ツたら不思議です。そこで明かりが或る所から出て或る所に達するには時間を費すに違ひ無いが併し余ほど早いもので太陽から我々まで来ますに十[rrubi]ぷん[/rrubi]分はかからない[rrubi]ほとん[/rrubi]幾ど八[rrubi]ふん[/rrubi]分と少しで来ます、丁度九段の坂下からここ[warichu]〔一ツ橋外〕[/warichu]まで人力車で来る位な間に来ます、僅か一秒時間に七万六千里ほど走りますから地球のかたツ[rrubi]ぱう[/rrubi]方の端から、かたツ[rrubi]ぱう[/rrubi]方の端までゆくに[rrubi]めばた[/rrubi]瞬きをする程の時間はかかりませぬ。月まで行きますにも二セコンドはかかりませぬ。其れが[rrubi]アルフアーセントリー[/rrubi]α Centauriから[rrubi]く[/rrubi]来るには三年と六ヶ月かかり白鳥宮からは其れの幾と三倍で九年と三ヶ月かかります。でありますから其の星に何か一朝変動が生ずるか或は全く比の星が無くなツても其れから九年と三ヶ月たツて初めて[rrubi]わか[/rrubi]分る、其れまては分りませぬ明りが途中でまごついて居るから。[warichu]〔聴衆笑フ〕[/warichu] これからして外の星と云ふものはこれより遠い。遠いと云ふことは知れて居るがどれだけ遠いかと云ふことは知れませぬ。今まで申しました星は肉眼で見ゆる位な星です。此の外に望遠鏡で無ければ見えない星が沢山ありますが其れは小さいから見えないのか遠いから見えないのかといふと其の問題は本当には解けない。いくらかの大きさに見ゆる星は小さいものが近所に居るのか、大きなものが遠くに居るのか知れるものでは無い。さりながら、ならして言ツたら数多の星の中で大きく見ゆるのは近いので、小さく見ゆるのは遠いのだと思へば平均の上では大違ひは有りますまい。そこで色々な星の明りの分量を比較して段々と距離の比例を取ると非常の遠くに居ます星が有ります。今の[rrubi]アルフアーセントリー[/rrubi]α Centauriより一万倍乃至三万倍位の距離に居る星が[rrubi]たしか[/rrubi]確に有る様です。こんな星から出立した明りは一万年から三万年ばかりもかからなければ地球まで来ない。三万年の昔こんな星が無くなツて居ても我々は今に有ると思ツて居るです。箇様な遠方に若し我々の親類が居ても便りといふは唯明り使ひばかり、ことによると余程遅い新聞を受け取る様な事が有ります。[warichu]〔聴衆笑フ〕[/warichu] そこで此等の星を観測して見ると中には面白い星が有る、一つ二つ三つ四つなどとかたまツて居る星が有る多くは散らばツて居ますが中にはコンナにかたまツて居ます。先づ二つかたまツて居る星は肉眼で見ますと唯一つの星の様に見えますが望遠鏡で見ますと二つに分れて見え、多くは一つは大きく今一つは小さく、かたツ[rrubi]ぱう[/rrubi]方がかたツ[rrubi]ぱう[/rrubi]方を回ツて居ます。丁度地球が太陽を回り、月が地球を回る様に見えます。して見ると一つが親分で、あとが子で有りませう。併し太陽系では明りを持ツたものは太陽一つでしたが其の世界では確に明りを持ツたものが二つは有りますが外に惑星の様に明りを持たない眷属が多分有るだらうと思はれます。して見れば全く太陽系と同じ様な世界で有ります。三つ以上組み合ツて居る星も矢張り同じ様な運動をして居ますのが有ります。して見ますと果して我々の太陽系は外にツレがあるのです。色々な星の中に二つ以上組み合ツてある星で無ければ本当に回ツて居るか居らぬか分らない様ですが肉眼では見えないがよく調べると何かのグルリを回ツて居る様に見ゆるといふ場合が有りますから比の色々の星は皆太陽で其のグルリに多分回ツて居る惑星があると云ふことが察せられます。そこで我々の太陽の同士が即ち此の星と云ふもので有るといふことが分ります。其の同士は非常に沢山あるのですから太陽系みた様なものは天の中に沢山あります。 段々先きへ行くに従ツてチットづつ分りかねて参ります。併しモウ少し分るものが有る。其れは何で有りますかと云ふと一体、星と云ふものはどの辺には沢山あツてどの辺には少ないといふことからして我々の眼に見ゆる星は何かの部分を為して居るといふことが[rrubi]ほぼ[/rrubi]粗分る様で有ります。諸君御存じで有りませうが秋の頃に天を見てお出でなさると真ツ白なものが有りませう、雲かと思へば雲で無い睛天のときにも見ゆる、併しながら少し月が出たり何かすると見えなくなります。これはアマノカハと言ひます。西洋では「乳道」と言ひます、其れは乳をこぼした様で有るからさう言ツたので有ります。支那では「銀河」と言ひます、銀に其れを見立てたのは奇麗だからで有ります、併し銀よりは立派です、銀河其れに譬へられて仕合せです、迚も銀などの及ぶことでは無い。其れも昔は銀河はどんなものだかよく知れなかツたですが望遠鏡で見ますとアマノガハは全く星のかたまりです。濃い所になりますと夥しく星があります。一体、肉眼で見えない星が沢山ありますが其の中で此のアマノガハの上にある星が一番多い。又アマノガハの外にある星の中でも精しく調べて見るとアマノガハの近所が一番多くて其れから次第に少なくなる。大きな[rrubi]つぶ[/rrubi]粒々とした星はさうでもないが小さな星がアマノガハの方に行く程多いです。其れからして比のアマノガハと云ふものは地球から見ますと帯の様にして天をグルッと取りまいて居ます。して見ますと其の中に我々がはいツて居るに違ひない。[rrubi]おほかた[/rrubi]大方アマノガハと云ふものは円い者をおしつぶした様な[rrubi]かたち[/rrubi]形したもので有るさうです。其れだけは幾ど確に見ゆる様で有ります。其れには譬へを取らないといけませぬ、ここによい物が有ります[warichu]〔比ノ時講談者テーブルノ上ニアリシ盆ヲ聴衆ニ示ス〕[/warichu]アマノガハといふものは此の盆の[rrubi]かたち[/rrubi]形をして居るとしまして、そこの中に我々の太陽系がはいツて居るとしますと或る向には星が少しほか見えず或る別の所には星が沢山見えませう。而して星の沢山見ゆる部分は帯の形して天を取りまいて居る様に見ゆる筈で有ります。そこから見ますとアマノガハは星のかたまりで太陽も地球の仲間もそこの中に居るに違ひない。其れですからさツきの問題をのばして「地球は何の中であるか」と言ツたら「太陽系」「太陽系は何の中か」と言ツたら「アマノガハの中だ」と言ふことが出来ます。 あらゆる星は皆悉くアマノガハの中であらうか或はアマノガハの外に有る星もあらうか、あらかた先づアマノガハの中で無ければならない。然るに中にはアマノガハの[rrubi]かたち[/rrubi]形した星が有る、ではない星のかたまりが有ります。望遠鏡で見ますと星のいくつとはなく簇ツて居る者が沢山ある。併し肉眼では見えませぬ。其れからして又其れと類似したもので矢張り肉眼で見ては見えず望遠鏡で見ると云ツても雲の様に見えて[rrubi]つぶ[/rrubi]粒々とした星のかたまりの様に見えないのが有ります。其れは星雲と言ひまして近世になツて大層名高くなツたもので有ります。此の星雲の中にはチョットした望遠鏡で見ては唯雲の様に見えても少し強い眼鏡で見ると星のかたまりの様に見ゆるのも有り、又今日世の中にある極上の望遠鏡で見ても矢張り雲の様に見ゆるのも有ります。其れとても矢張りアマノガハみた様な星のかたまりで望遠鏡のモットよいのを用ひたら粒々と見ゆるもので有るまいかと云ふ疑ひが起りますが此の頃、分光器と言ふものか発明になりまして総ての物体が瓦斯か固体かと云ふことを見分けることが出来る様になりまして此の純粋の星雲は常の星と違ツて瓦斯だと云ふことが知れました、全く瓦斯で無いにしても瓦斯の部分が多いと云ふことです。又其の位置はと言ふと或はアマノガハの近所に在るものが有り或はアマノガハと方角の違ツた様に見ゆるのも有ります。そこで又アマノガハの中にも大分瓦斯体であツて望遠鏡で見ても矢張り雲の様に見える部分も有ります。ここに至ツて説が二た通りつけられます。或はアマノガハと云ふものは我々の見る所の限りで總てあるとあらゆるものは星でも星雲でも皆この中にはいツて居るものであるかも知れず、或はアマノガハの外にアマノガハみた様なものが沢山[rrubi]ち[/rrubi]散らけて居て其れが彼の所謂る星雲でアマノガハから其れへ移るのは丁度我々の太陽系から脇の太陽系に移る様なものであるかも知れませぬ。此の二番目の説にすれば最初の問題に続けて「太陽系はアマノガハの中」「アマノガハは数多ある星雲の中の一つだ」と言へます。併し此の説は全く確な説では有りませぬからハッキリとは言へませぬ。ことによれば第一の説の如く我々の見ることを得るだけ随ツて知ることを得る限りのものは総て皆アマノガハの中にあるものでは無からうかとも思はれます。若しも其の通りで有ると始めにお話しを申しました通りに段々推しつめて行ツて丁度今日の学問の有様では、これまでといふ所までこぎつけたかも知れませぬ。いづれにしても私の最初に持ち出しました問題即ち「我々はどこに居るか」といふ問題は立派に解けませぬが我々が今日の学力で解けるだけはドウかカウか解いた積りで有ります。 今日お話ししましたのは地理書の先きを言ツたので地理書は地球の中の事を調べる学問で私は地球の外へ出て言ツたので有ります。これだけでは実は余り面白くない。これよりも此の世界は始めドンナであツて今にドンナことになるかと云ふ話し即ち世界の歴史だと大層面白くなる。併しどの国の歴史を書くにも先づ其の国の地図から始めるのが順序ですから私は今日「地球の位置」と言ふ題で全世界の地理をザットお話し申しました。[warichu]〔聴衆拍手喝采〕[/warichu] 林 茂淳 筆記