山岡 政紀
あらゆる生物群、あらゆる動物群の中で、「人間」という動物が特異であるのは、人間が主観的存在であることにおいてである。「人間」とは、「今ここにいる」と言うことができる主体たる〈私〉である。この意味での「人間」は科学の対象たり得るのか。
科学もまた「人間」という主体が意志的に行う営みである。人間が自分の存在を考慮に入れずに客体の世界を考察するときと、科学的考察の主体が同時に科学的考察の対象でもあるというときとでは、必要とされるパラダイムが違ってくるのは当然であろう。
確かに、主観の所在である〈心〉を探究してきた認識論、現象学、精神分析学、心理学等は、物理学や化学等の自然科学とは異なるパラダイムを持っているし、「人間」が主観的存在であることからくる特異性によって、人間の生物としての肉体的なあり方や行動様式に対する研究が、一般の生物学とは異質なものとなり、それが文化人類学、民族学といった、人文科学に属するいくつかの分野を成立させている。人間の主観的行為の根源を一つに集約するとしたら、それは「記号の使用」と言えよう。その直接的研究は、記号論や言語学である。これら関連諸分野を総括して「人間学」と称することができる。
人間学は人文科学とイコールではない。人間学が基礎的科学であるのに対し、歴史学や文芸研究などは、「人間誌」と言うべき、より高次の科学と言える。さらに、人間学には、本稿で取り上げるように、ある種の情報工学や物理学の方法論から派生・発展しているものもある。従って、一種の学際的科学と言えよう。
本稿では、「人間学」のパラダイムを決定づける一つの要因として、人称性という一貫した観点を設定し、そこから諸分野を俯瞰する。
用語の記述法に言及しておきたい。認識論的な基準により、主観的現象でないもの、またそのように扱われるものを{ }、主観的現象を〈 〉と表記して区別する。既に〈私〉、〈心〉と表記したのも、それらが自覚的な主観的実在であることを意味している。
人称研究というテーマを既に成立させているのは言語学、とりわけ発話行為論(speech act thory)においてである。人間は、歩く行為、食べる行為、眠る行為等の生理学的な行為の他に、笑う行為、歌う行為等の主観的行為をも行うが、とりわけ人間の行為を多彩にするのが「発話行為」である。歩く行為や、笑う行為が、とりあえずそれ自体でしかあり得ないのに対し、発話行為は、同時に別な抽象的行為をも行う。「目を閉じよ」と発話することは、発話行為とともに、「命令」という別の行為をも同時に行っている。オースティンはこれを発話内行為(illocutionary
act)と呼んだ。発話行為は、相手を必要とする行為だが、その相手は、殴る行為などと違って、相手(addressee)が発話者自身と同じく主観的存在であることが前提されている。従って、それぞれの発話行為が、いかなる発話内行為を遂行しようとしていて、それがどのように保証されるかということは、広い意味で語彙と文法と会話の公準という三つの要素を共有していなければならない。発話内行為の外延としては、主張・陳述、問いかけ、命令、依頼、勧誘、謝罪、忠告、助言、約束、意志表明、感情表出、宣言、謝意表明、謝罪などが挙げられるが、いずれにおいても相手が前提となっている。このような発話行為論の理論構成において、発話の主体たる第1人称と、相手即ち疑似主体たる第2人称とは、最重要なファクターである。この場合の第3人称は、積極的に規定されない非人称的な位置づけを与えられる*1。
一方、構造主義言語学のように、研究対象を言語形式(音声・文字)に限定し、しかも意味を考慮することなく、各個別言語の音韻体系、統語体系を記述していく立場においては、人称は格、性、数などと並んで、動詞や人称代名詞の屈折をもたらす統語範疇の一つでしかない。特に規範性よりも記述性を重視する立場においては、採集される言語資料は〈私〉の発話ではなく、発話主体から離れて公的なものへと投げ出されたものでなければならない。これによって「自然科学的な」言語学の方法が維持されるわけである。いわば、構造主義言語学においては、すべてが非人称の発話なのであり、意味を考慮しないことによって、人称範疇を非人称の内側で論じることができたのである。構造主義は過去のことではない。国語学における古典語研究などは、性質上、一種の構造主義言語学と言える。
人称に対する両者の扱いの差は、科学としての決定的な質的差異を示している。発話行為論は、発話者が主体的に意味しようとするものを、そのまま記述して理論化しようとする点において、構造主義言語学の対極にある。それは、人間が主観的存在であるということを、積極的に認めるのか、極力それを捨象する方向性を持つのか、の違いである。同じ言語学でも、両者は全く異質なパラダイムを有していることになる。前者を第1人称の言語学、後者を第3人称の言語学と呼ぶことができる。このこと自体は理論的枠組みの優劣を意味しない。目的が異なるからである。記述的言語学は言語の静的・形式的な実態を明らかに記述するのが目的である。一方、人間学としての言語学は第1人称の言語学でなくてはならない。
17世紀以降の近代科学では狭義の「科学」は自然科学であった。事実としての現象を「客観的」データとして蓄積し、それら事実に一貫する法則を数学的方法で記述する。このように、経験科学として、データと数学的方法によって理論の正当性を厳格に評価する方法を持ち得たことによって、自然科学は急速に進歩したし、その結果もたらされた科学技術の工学的進歩のゆえに、人々の自然科学に対する信頼は強い。
その前提にはデカルト的物心二元論がある。デカルトは、主体的に自己存在を自覚することのできる人間の思考、即ち〈自我〉に注目した。〈自我〉は、空間内における物理的実在としては認めることができない反面、他者の存在を認知するおおもととしては否定し得ない実在であるという二面性を持っている。デカルトの有名な「我思う故に我あり」はこのことを表現したものである。この二面性は、科学の方法論に対しては、結果的に、人間の知覚においてしか得られないはずの「物理的世界」なるものを、我々の〈自我〉とは異質で、かつ〈自我〉に先行して存在するものとし、それによって、客観世界をそ定することに寄与した。世界をデータとして扱うための基礎が整ったわけである。現代人の多くが持つこの世界観は、現象学でも中心的テーマとなりフッサールは「自然主義的態度」と呼んだ。この態度においては、事象のすべては、〈私〉ならざる{他者}である。これを第3人称のパラダイムと呼ぶことができる。
このような自然科学が人間学の対極に位置することは言うまでもない。ただし、自然科学を人間という主観的実在による営みとして見る、つまりメタ的視点を持つ科学哲学の分野では、データそのものに、仮設された理論の枠組みが既に反映されており、真に客観的なデータというものは存在しないことがこれまでも指摘されている。N.R.ハンソンの「理論負荷性」、村上陽一郎の諸論考も同種の議論である。パラダイムという用語そのものも、クーンが科学の枠組みとして論じた概念である。これらは、自然科学が本質的には既に方法論的に第1人称のパラダイムを有しているということを積極的に主張したものではあるが、考察対象があくまでも{現象}である以上は、人間学とはなり得ない。
一方、人間が主観的存在であること、それ自体を対象として科学的に研究しようとすると、どのような問題が生じるか。近代科学における心理学ではどのように対処してきたか。
我々の主観、即ち我々が「心」と呼んでいるものを定義しようとすれば、まず、その私性に言及せねばなるまい。〈心〉は常に私の中にしか存在しないと同時に、逆に〈私〉の私たるゆえんは私の肉体によるのではなく、私の〈心〉によるものである。脳の化学現象を外から見る上において、他人の脳と私の脳とはいずれも、数多くある物理的実在としての「脳」の集合の外延であることにおいて共通している。しかし、〈心〉はその存在が自らにおいてしか認めることができない。外から見た心の影としての脳と内から見た心とは決定的に範疇を異にしている。他人に〈心〉を認めるのは自らの〈心〉をもとにした類推でしかない。この無根拠な諒解をフッサールは「間主観性」と呼んだ。これは〈心〉に対する認識論的な把握である。そして、我々が日常的に「心」と呼んでいるものは、このような認識論的な〈自我意識〉を指している。この意味での〈心〉を研究することは、自然科学が求める客観性と必然的に自己矛盾を起こす。
19世紀以前の心理学が探求したのは、そのような〈自我意識〉ではなかった。ワトソンは、心理学の対象を刺激と反応の相関に限定する方法論を提唱した。つまり、無形の心理的現象を、有形のふるまいに置き換えることによって、自然科学と同様の「客観的データ」として蓄積し、それをもとに理論化しようとした。これが行動主義心理学と呼ばれる立場で、今日でも、データの数学的処理の理論的前提として大なり小なり依拠していることが多い。ここでの{心}は多分に身体的、生理的と言うべきものである。従って、{無意識}によるふるまいと、〈意志〉によるふるまいとを区別して記述することができない。つまり、〈私〉の存在を前提としないのであり、このような行動主義心理学は第3人称のパラダイムを有していると言える*2。
それに対して「精神分析学」は、主に精神病患者の臨床例をもとに、人格を形成する諸経験の無意識的構造を分析しようというものである。そのもたらす成果はもはや自我としての「心」を超えるので、深層心理学や超個心理学とも呼ばれることもある。その代表人物はフロイトである。精神分析学では、観察対象である主観と観察主体である主観とが向き合い、会話を成立させながら、観察を行う。その意味で、第2人称のパラダイムを有していると言える。これら第2・3人称の心理学が{心}={無意識}の心理学であるなら、第1人称の心理学は〈心〉=〈意識〉の心理学であるはずである。
まず、心理学の範疇には入らない実存哲学や現象学などを含む認識論がそれに当たるであろう。ところがこれらは心理学とは全く没交渉な思弁的哲学である。
胃は、食物の侵入を{知覚}して、胃液を分泌するが、決して〈知覚〉するわけではない。人間に於てすら、その肉体の生理的な生命活動は無自覚な部分の方がはるかに大きい。心臓の鼓動にせよ、血液の循環にせよ、無自覚である。血液中の白血球が雑菌の存在を{知覚}することや、肺胞が酸素を空気の中から{知覚}して吸収することも、自然界の{秩序}に従って行われる。十八世紀ごろから人間機械論なるものが論じられた時期があった。少なくとも無自覚な生命維持行為は一種の極端に複雑な物理現象と見ることもできよう。問題は我々の主観世界、つまり自我意識をどう見るかである。
ある種の光認知機構が、〈視覚〉かそれとも{視覚}かを判定するとしたら、それはどのような判定行為なのだろうか。カメラの{視覚}の物理的構造を、眼球の構造と比較して図式化することは珍しくない。両者の違いは、一見、精度における量的な差でしかないように見える。しかし、忘れてはならないのは、両者が比較される際のあり方が、いずれも「第3人称」としての視覚機構として対置されていることである。つまり、そこで図解された眼球断面図の網膜に映る像は、あくまで「他人」の眼球に映る{視覚}であって、〈私〉の〈視覚〉ではない。{視覚}と〈視覚〉とは質的に異なる、というより、本来全くカテゴリーを異にするのだから、比較すら不可能である。何しろ、〈視覚〉は世界中でただ一つしか存在しないのだから。そして、他人の知覚は{知覚}としての類推は可能だが、〈知覚〉は絶対に不可能である。つまり、〈知覚〉は世界中でただ一人の〈私〉の内的世界のできごとなのである*3。このとき生じる独我論は、ウィントゲンシュタインの言語的独我論と本質的に共通したテーマと言える。
確かに、{知覚}から〈知覚〉への飛躍をもたらす何かをある種の物理現象に還元できるかどうかは認識論としては大きなテーマなのだが、そのテーマの前に立ちはだかっている独我論の壁を、我々は果たして超えることができるだろうか。このような強力なる独我論の前では、疑似主観を想定し得ず、その〈私〉は、この世に唯一存在するものということになり、第2人称と対立するものとしての第1人称にはなり得ない。〈私〉が通常の第1人称とイコールでないのは、人称というファクターが、複数の主体が存在してもよいことを前提にしているためである。故に、認識論のパラダイムを絶対第1人称のパラダイムと呼ぶことにする。
今日では、〈精神〉は身体的なものと連続していると考える巨視的な心理学が、種々見られる。その第一の源流は、ユング心理学である。ユングはフロイトと同様に精神分析学者でもあるが、彼の場合は神話や民話などに見られる共通の形式を抽出することによって、人間が〈私〉を超えて共有している「集合的無意識」の存在を主張している。
第二はマズローらが提唱した人間性心理学である。精神の高揚という実感的に存在する現象を探り、自己実現を目標とする心理学である。典型的な第1人称の心理学と言うことができ、また、まことに実践的である。マズローは自己実現を「潜在性、能力、才能の実現。使命の達成。当人自身の本来の性質の受容とそれに関する十全な知識。個人のなかの統一性、統合。」としている。
そして、この人間性心理学の実践的理念とユング心理学の理念が融合して生まれたと言えるのが、超個心理学(trans-personal psychology)である。例えば、ウィルバーは、ユングと同様に認識を階層構造によって捉えるが、よりダイナミックに全体観から認識の各現象の相関関係を述べる。彼は、認識に三つのレベルを認める。第一のレベルは「自我」である。物心二元論的な〈心〉に当たる、〈認識の主体〉を指し、自らの肉体をも客体化する。第二のレベルは「実存」である。自己存在が個別的に存在するとの認識、つまり自己を肉体を含んだ総体と見て、それと他者との境界を設定する。いわば、独我論の根拠を肉体に求めているのである。第三は「心」である。自己が根元的には宇宙と一体である、との無意識の意識を支えるものであり、これを宇宙の究極の実在としている。ウィルバーはこれらの各レベル間の意識上の転換が世界観の転換に対応することを体験的に語っている。ちょうど一つのものに異なる周波数の電磁波スペクトルを当てると、異なる見え方をすることと似ているので、これを「意識のスペクトル論」と呼んでいる。重要な点は、この第三のレベルと第二のレベルとの間に、どう考えてみても超個的なアイデンティティの帯域があると主張していることである。この立場は、第1人称的な〈自我〉から出発して最終的にはそれを超越して全人称的な宇宙実在に至っている。これを強いて言うなら、包括的(inclusive)な第1人称のパラダイムと言ってもよかろう*4。宇宙的自我とも言うべき、個ならざる自我に言及しているのだから。〈意識〉と{無意識}との連続を前提とする宇宙的自我は、〈〉と{}のいずれによっても表記され得ない。
超個心理学だけではなかった。六十年代のアメリカで、カウンター・カルチャーと呼ばれた人々の新世代運動が、後に主に物理学の分野で強烈なエポックを生み出す。物質的世界は構成要素に還元できないとして、現代物理学と心身一如的な東洋思想とのアナロジーを論じたカプラのタオ自然学、記憶の非局所性を論じたプリブラムのホログラフィ理論、そして意識と物質の源流として、分断も境界もなく流動的な関係をなす全体を暗在系と呼んだボームの全体性の理論など、いずれも近代科学の延長上にはないパラダイムを有していた。これらは、日本でニュー・サイエンスと命名された*5。
その共通する特徴は、まず、近代科学のパラダイムに対するアンチテーゼであること、第二に、科学者自らが科学批判の立場をとっていること、そして第三に、それが反核、エコロジー、フェミニスト運動等の実践に対する思想的基盤となったことである。ここに提起されている画期的な転換は、要素還元主義の否定、物心二元論の否定、の二点にわたると考えるが、特に第二の点は自然科学の第3人称のパラダイムを包括的な第1人称へとシフトさせる。ニュー・サイエンスでは、「全体包括」の全体の中に〈自己自身〉さえも含むという徹底した立場をとるからである。そのため、世界を対象化することなく科学者自身が主体的に世界に関わっていこうとする態度を持ち続けること、すなわち、科学者自身の精神的鍛錬までも要求する。これによって、必然的にデカルト的物心二元論のパラダイム(=非人称のパラダイム)が否定されるのである。
あらゆる意味は、〈意味〉である。それは〈心〉と同じく、物質的世界のどこにもその存在を見いだすことができない〈私〉的なものである。従って、〈意味〉は音声や文字と違って、データとして採集することは不可能である。だから構造主義言語学では意味を無視せざるを得なかったのである。しかし、音声や文字と言っても、完全に意味を無視すると音声体系や文字体系の基礎たる対立(contrast)の根拠が失われてしまうという矛盾が最初からあった。
そんな中で、生成文法から今日の状況意味論に至るまで、少しずつでも意味論が進歩してきたのは、〈意味〉が社会的にコード化されているために、疑似客観化が可能だったからである。つまり、理論化のパラダイムさえ、厳密に規定しておけば、ある程度〈意味〉の記述は可能なのである。ただし、それは自然科学のようにデータの検証や追試可能性などによって保証されるのでは全くない。
〈意味〉には、語彙的意味、構文的意味など、言語形式に即応して規定される意味(意義=sence)の他に、発話者が発話において実際に伝達を意図する意味(効力=force)とがある。効力の発動には、発話の言語形式以外に、発話者、相手に関する情報、両者の前提知識、共有知識、発話場面に存在するもの、さらに社会通念など、発話者をめぐる様々な言語外要素が総動員されるのが普通である。後者を研究する分野は語用論として、意味論から区別されるが、〈意味〉を研究する上では、連続している。冒頭に述べた発話行為論において、発話内行為は一種の効力であり、従って発話行為論は、一つの語用論である。
語用論では、常に言語外の要素を考慮することが要求されるが、その最も主要な要素が発話者と相手であることは言うまでもない。発話者は相手が何を知っているか、今相手の目に何が見えているか、といった疑似主観上の情報を常に考慮しながら発話しているのである。語用論におけるパラダイムは、第2人称、第3人称と対立する主観としての典型的な第1人称のパラダイムだと言うことができる。
さらに認知科学は、人間の論理的思考や、言語の生成及び理解、知覚情報の処理などの高度な知的活動を科学的に研究する人間学である。「記号処理」、即ち〈意味〉をめぐる情報処理を研究する科学とも言え、科学史的には特筆に値する。
方法論の主流は人工知能研究で、人間の知的活動をコンピューター上で模倣するプログラムを作成することによって、その知的活動の無自覚な手順を記述しようとする。コンピューターのプログラムはそれ自体が記号の集積であるが故に、主観内の事象を客観的データに置き換える行動主義心理学の方法論とはかなり趣を異にしている。主観世界の構造を記述する手だてという点では、認知科学は記号学の一方法論あるという見方もできる。
人間の認知活動は時に無自覚で、身体的な認知構造と言うべき領域を多く含んでいる。認知科学は人間の知覚がいかにその肉体的制約を厳しく受けているかを、むしろ証明してみせている。例えば、マーの視覚情報処理の研究は、人間の概念化という作業において重要な「事象の分節化」、つまり、物と物との境界線を認知する能力について明らかにした。これは〈経験〉というものが〈認知活動〉によって〈記号〉化されるものであることを示している。つまり、それはたとえ無自覚であっても、やはり〈意味〉なのである。その点は、日常言語の文法が言語学者によって複雑な文法規則として記述されるのと似ている。
人間学が厳密な学であるための方法論を確立することは今後の課題だが、本稿では自然科学と認識論という両極端の立場に偏することなく、諸分野を俯瞰する視点から最適なパラダイムを模索してきた。つまり、〈主観〉を研究の対象としながらも、その向き合った人称的な対立関係を認めていくことである。そして、各分野を目的を共通項に橋渡ししていくという発想そのものが科学史的な意味を持つのではないかと考える。
*1 Burling(1970)では、人称を規定するファクターは話し手と聞き手の二つしかなく、第3人称は、話し手と聞き手の両方とも関与しない、という形でしか規定できないという。
*2 第1、第2、第3人称の心理学という表現は岸田秀氏の諸著作に既に見られる。
*3 大森荘蔵氏の主張は、ほぼこの主旨で一貫している。
*4 本来は聞き手を含む第1人称複数を包括的というが、一面、対立点を持たない第1人称と言うこともでき、その意味でこのような全人称的なあり方にも適用できると考える。
*5 『現代思想』1984年1月号に「ニュー・サイエンス 知の新しい波」という特集が組まれるなどによって定着した名称が欧米に今日では欧米に逆輸入された。
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